十・十空襲
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十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)は、太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)10月10日に、沖縄全域にアメリカ軍空母艦載機が行った大規模な空襲。アメリカ軍が焼夷弾を初めて戦闘に使用した。
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[編集] 概要
1944年10月、アメリカ軍はフィリピンへの進攻作戦を準備していた。これに先立って、後方の南西諸島から台湾方面に散在する日本軍の拠点を、空母艦載機をもって攻撃した。10月10日の沖縄への空襲はこの一環として行われたものである。
空襲の被害は那覇市だけではなく、八重山諸島、宮古島を含め沖縄全域に及んだが、この空襲で最も被害の大きかったのは旧・那覇市(現在の那覇市の一部)で、市街地の9割は焼失して同市は壊滅し、市内の死者は255名にのぼった。この被害によって、住民の県外疎開が促進させることとなった。
この那覇市の空襲被害を特に那覇空襲ということもある。
[編集] 日本軍の対応
日本軍は当時、それまでパラオ付近にいた米機動部隊を10月6日以降見失っていた。大本営は台湾への攻撃を予想する一方で、南西諸島の各航空基地にも大規模な哨戒活動を命じた。米軍は日本軍の哨戒機をレーダーで補足するとことごとく撃墜していたが、沖縄南西沖には当時台風が北上していたため、軍首脳部は未帰還の哨戒機が多いのは悪天候が原因と安易に判断していた。
さらに日本軍は10月10日に軍首脳部を集めての大掛かりな図上演習を予定しており、前日の10月9日は各地の司令官たちが那覇の料亭に集められて宴会を開いていた。翌10日早朝、糸満にあった海軍のレーダーが南方海上を発進した米軍機を確認していたが、指揮官不在の各部隊は有効に対処することができず、航空隊の迎撃機はほとんど応戦できないまま地上で破壊された。
さらに悪いことに、この日の図上演習が一般隊員には単に「演習」としてしか知らされていなかったため、友軍の高射砲の応戦などを見ても「本格的な演習をしている」と受け止めた隊員が多く、応戦が一方的に遅れる原因となった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 十・十空襲と那覇市の戦争 (那覇市)
- 10・10空襲 (沖縄戦関係資料閲覧室)