梅田晴夫
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梅田晴夫(うめだ はるお、1920年(大正9年)8月12日 - 1980年(昭和55年)12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。本名は梅田晃(あきら)。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。また、パイプや万年筆などの収集家としても知られる。経営コンサルタントの梅田望夫、脚本家の梅田みかは子。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 出生
1920年(大正9年)8月12日、東京都新宿区愛住町の暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父[1]と文学者の母[2]との間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣[3]の中で育ち、1926年(昭和2年)に慶應義塾大学幼稚舎に入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育[4]を受ける。外国製の家具調度品に囲まれて育った梅田は幼少時から物に対する愛着が深く、5歳ごろから「鉛の兵隊」の玩具収集に熱中していたが、1930年(昭和5年)の春、家庭教師として梅田の面倒を見ていた10歳年長の従姉からオノト社製の万年筆[5]を譲り受けてから、万年筆をはじめとする物の収集に熱中するようになった[6]。知識欲も旺盛で、母の玲子が丸善から購入した、チッペンデール風の専用書架つきのブリタニカ百科事典第11版は梅田の青年期からの愛読書[7]となる。1931年(昭和6年)に実家が没落、梅田は母と共に借家に転居する。
[編集] 二宮時代
1941年(昭和16年)に、戦争のため、母の実家の別荘がある神奈川県中郡二宮町[8]に土地を購入し、生活の拠点を同地に移す。在学中からフランス文学[9]に傾倒していた梅田は、1943年(昭和18年)、慶應の文学誌「三田文学」に、当時の編集者、和木清三郎から書評を書くことを薦められ、当時深い関心を寄せていたフランスのポピュリスト、ウージェーヌ・ダビに関する評論[10]を書く。しかし、内容が共産主義に与するものであるとして、当時の内務省から注意を受け、一時「三田文学」が廃刊の危機にさらされた。この年、梅田は最初の結婚[11]をする。
1944年(昭和19年)、慶應義塾大学院文学部フランス文学科を卒業し、中央公論出版部にしばらく勤めたのち、慶應文化学院の講師に就任するが、フランス文学の教職活動と並行して、小説の執筆や、ウージェーヌ・ラビッシュなどのフランス戯曲の翻訳活動を始める。終戦後、最初の妻と離婚するが、しばらくして二宮在住の女性、石井喜美と再婚。1946年(昭和21年)12月から1年あまり、同県内の茶屋町で貸本屋を営む[12]。1948年10月、講談社の文芸誌『群像』に妻の喜美をモデルにした長篇小説『五月の花』の連載を始める。
[編集] 劇作家から博報堂へ
1949年(昭和24年)春、劇作家としての処女作となる舞台劇脚本『風のない夜』を発表。6月には結婚前の娘の心情を描いたラジオドラマ脚本『結婚の前夜』がNHKラジオで取り上げられ、梅田は放送作家としてデビューを果たす。翌年には、『五月の花』が佐藤春夫の推薦を受け、第2回水上瀧太郎賞を授賞。その後、内村直也の門下に入り、劇作家として本格的に執筆活動を開始する。
1951年(昭和26年)、演劇人育成のために、内村と「芸術協会」[13]を設立し、後進の指導にあたる一方、新進脚本家として旺盛な執筆活動を行なった。なかでも舞台劇の『未知なるもの』、ラジオドラマの『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』や『母の肖像』などは聴取者や評論家たちから高い評価を受け、一時は東宝の専属脚本家として川端康成の『伊豆の踊子』の映画脚本[14]を書くなど、昭和30年代にかけて数千本にのぼる脚本を執筆[15]したという。1953年(昭和28年)10月13日、梅田の父、潔が狭心症のため81歳で死去。梅田は当時放送中だったラジオドラマ『みゆき』を小説に書き直し、父に捧げた。
1955年(昭和30年)、結核のため妻の喜美が死去。梅田家は東京都渋谷区[16]に移転する。この後宝塚歌劇団出身の女優と三度再婚するが、いずれも間もなく離婚。1959年(昭和34年)には映画女優の万里陽子[17](本名:政江)と再婚。翌年、長男望夫[18]が誕生したのを機に劇作家としての活動から退き、広告代理店の博報堂に入社。この時期には仕事の関係で渡欧[19]もしている。1960年(昭和35年)には同社の取締役となるが、4年後に長女みかが誕生したのを機に博報堂を退社し、日本放送作家協会常務理事に就任。世田谷区代沢に居を移す。
[編集] 随筆家時代
1965年(昭和40年)以降は、親譲りの事務所『梅田ビル』[20]を拠点に作家活動に専念、風俗についての研究を始め、萬物収集家を自称。若者たちに呼びかけて『雑学の会』[21]を主宰し、古今東西の雑学を収集した。その一方で『女の有料道路』(オリオン社 1965年)、『紳士のライセンス』(読売新聞社 1969年)など、風俗やトレンドに関する著作の執筆を始め、随筆家として若者たちからも人気を集める。
1970年(昭和45年)以降、梅田は幼少時から関心を寄せてきた万年筆、時計、カメラなどの物の歴史に関する著述や海外文献の翻訳、パイプ・タバコ・ウイスキーなどの嗜好品や雑学に関する随筆集、実用書やゲーム関連書[22]まで、約3年間に30冊におよぶ著書を発表[23]。それらはとりわけ男性層からの支持を受け、梅田の随筆家としての地位は確固たるものになった。1972年(昭和47年)5月には西洋骨董の同好会『GEMの会』[24]を結成し、アドバイザーとして会の運営に携わった。1970年代半ばには取材のため数回にわたってふたたび渡欧[25]。1975年(昭和50年)には、梅田ビルを拠点に(株)アンティック社を設立し、西洋骨董情報誌『アンティック情報』[26]を創刊する。
1978年(昭和53年)、プラチナ萬年筆株式会社と共同で、コラボレート万年筆『プラチナ#3776』[27]を開発。発売後6ヶ月で15万本もの売り上げ[28]を記録し、万年筆愛好家たちの話題となった。1979年(昭和54年)には、自身の文化史研究、雑学収集の成果を集大成した著書、『博物蒐集館』全5巻(青土社)を上梓する。
[編集] 晩年
1980年(昭和55年)6月、妻帯者の心得を説いた実用書、『嫁さんをもらったら読む本』(日本実業出版社)を上梓。続けて6名の寄稿者[29]による文房具についての解説書、『ステイショナリーと万年筆のはなし』(東京アド・バンク 1981年)のための原稿を書き上げた後、体調不良のため8月に慶應大学医学部付属病院に入院。12月21日、長年の喫煙[30]が原因と思われる肺癌のため死去。享年60歳。現在、梅田は愛用のモンブラン万年筆と原稿用紙とともに、港区元麻布の竜沢寺に葬られている。[31]
[編集] 作風
[編集] 小説家として
梅田の作家としての出発点はラビッシュなどのフランス戯曲にあり、処女作の戯曲『風のない夜』は作者自身によると[32]、フランス戯曲からの影響が色濃い習作にとどまっていたという。フランス戯曲の翻訳も数多く手がけたようだが、書籍として出版されたものは少なく、訳出された時期についても不明なものが多い。 小説においては母親への切なる愛情が感じられる『母の肖像』や、二番目の妻をモデルにした『五月の花』などにはフェミニストとしての梅田の一面が見られる。しかし、後年、梅田は著書のなかで、女性に対して差別的な発言[33]を行ない、物議[34]をかもしたが、これは幾度もの結婚の失敗が一因となっているものと思われる。 なお、梅田が小説を書いていた期間は自作戯曲のノヴェライズを含めて5年程であり、まもなく劇作家へと転身する。
[編集] 劇作家として
1950年代に集中的に書かれたラジオドラマや映画の脚本では、プールヴァール喜劇から影響を受けたと思われる軽妙で洒脱な作風に磨きがかけられていき、とくに喜劇にその適性を示した。舞台劇ではジャン・ジロドゥや、ジャン・アヌイなどの作品の翻訳紹介のほか、創作でもいくつかの忘れがたい作品を残している。なかでも『風のない夜』に続く梅田の第2作目の舞台劇『未知なるもの』は梅田の代表作[35]のひとつに数えられるが、この作品の第1稿に評論家の戸板康二から賞賛の言葉を受けた梅田は大いに気を良くして舞台初日を観劇したものの、脚本の未熟さに恥ずかしい思いをし、以後は役者の演技を見ながら脚本を書き直してゆく手法を取るようになったという逸話[36]が残されている。梅田と演劇との関りは晩年まで続くが、梅田の原稿の執筆量は脚本家として活動していたこの時期が最も多いと思われる。しかし、ほとんど書籍化されていないため検証が困難であり、推定の域を出ない。
[編集] 随筆家として
梅田は1960年代末ごろから趣味関連の随筆家としての活動が主になっていくが、1971年にアルフレッド・ダンヒルの『The Pipe Book』(日本語タイトル『パイプの本』)を翻訳出版した頃から梅田の文章にはペダンティックな知識が数多く盛り込まれていく。これは梅田の博学ぶりを如何なく発揮するものであると同時に、文章に適度なリズム感が加わり、読み手を引きこむ力を与えている。ことに1970年代の著書や翻訳書は梅田が最も力を入れたものと思われ、豪華な装訂のものが多い。その中でも『宝石と宝飾』(1972年)など、東京書房社から刊行された一連の限定出版書籍のいくつかには梅田が愛用の万年筆で署名もしている。この時期には実に50冊におよぶ著書を発表したが、そのいずれもが高い完成度を示しており、随筆家としてピークを迎えた梅田の充実ぶりがうかがえる。練り上げられた文体で、愛好者の立場に立って書かれた梅田の趣味関連本は読者の共感を呼び、男性層を中心に支持を集めた。
1980年に入って還暦を迎えた梅田は、『嫁さんをもらったら読む本』を上梓する。梅田は本書のあとがきに、それまでの破綻の多かった結婚生活を反省し、ふたりの子供をはじめとする後の世代への遺言として書いたと述懐しており、自身の活動に一区切りをつけようという意図がみられる。1980年代の到来を機に、梅田は自身の収集家としての活動の集大成として、1884年(明治17年)にウォーターマンが万年筆を発明してから100周年となる1984年(昭和59年)までに、『万年筆100年史』を執筆する計画を打ち出すが、果たせずに60年の生涯を閉じる。
[編集] 評価
総じて梅田の文筆活動は1960年代後半から1979年までが最も活発であり、自身の趣味に関する分野の著述・翻訳において最も光彩を放っていたと言える。小説・随筆・戯曲・翻訳など幅広い文筆活動を行なったが、結果的に時流に沿ったテーマの著書が多かったため、今日では趣味人[37]の作家というイメージが先行しつつあり、梅田に対する評価も一面的なものになりがちである。著作もトレンド関連書など、その多くが時の流れとともに風化[38]していく運命にあることは否めないが、梅田は名文家として読者や多くの作家達から賞賛されており、その流麗な文体が後進の作家たちに与えた影響[39]は少なくない。しかし、それ以上にラビッシュなどのフランス戯曲の紹介者としての功績は評価されるべきものと言える。
[編集] 作品リスト
[編集] 小説
- 『五月の花』 京橋書院 1950年
- 『失われた時間』 京橋書院 1950年
- 『白い脛』 京橋書院 1950年
- 『シジフスの手袋』 京橋書院 1950年
- 『母の肖像』全2巻 宝文館 1953年 (同名戯曲の小説版)
- 『みゆき』全2巻 宝文館 1953年 1954年 (同名戯曲の小説版)
翻訳作品
- 『クレェヴ公爵夫人』 ラ・ファイエット著 思索社 1950年
- 『赤軍 ニューヨークを占領す』 モーリス・デコブラ著 室町書房 1955年
[編集] 戯曲
舞台劇
ラジオドラマ
- 『夜汽車のマリア』 1950年代
- 『結婚の前夜』 宝文館 1950年
- 『台風の日』 宝文館 1951年
- 『鏡』 1951年[40]
- 『帰らぬ人』 1951年[41]
- 『クリスマスの贈物』 協立書店 1951年[42]
- 『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(共著)[43] 1951年~1952年
- 『母の肖像』 1953年
- 『みゆき』 1953年~1954年
- 『乞食の歌』 宝文館 1956年
テレビドラマ
- 『雪と泥』 1950年代
- 『殿下と結婚する方法』 1950年代
- 『緑に匂う花』 1957年[44]
翻訳作品
- ウージェーヌ・ラビッシュ
- 『人妻と麦藁帽子』 世界文学社 1949年
- 『ペリション氏の旅行記』 世界文学社 1949年
- 『文法』 世界文学社 1949年
- 『ルルシーヌ街殺人事件』
- ギィ・フォワシィ
- 『相寄る魂』 レクラム社 1979年
- 『殺し屋と関節炎』
- 『親父の説教』
- アンドレ・ルッサン
- 『劇場の異邦人』
- 『奥様にご用心』
- 『他人の学校』
- 『巴里の魔女同盟』
- 『坊やに下剤を』
- 『バダン君』
- クロード・マニエ
- 『オスカー』
- 『四角関係』(よんかくかんけい)[45]
- 『ミニミニミニィ』
- 『ら・睡眠薬』
- フランソワーズ・ドラン
- 『人生の請求書』 劇書房 1979年
- 『つきとつけ』
- 『男なんて?』
- D・カマンカ 『三億ぽっちでどうなるもんかよ』
- アルフレッド・ド・ミュッセ 『世紀児の告白』 世界文学社 1949年
- ジャン・アヌイ 『メデェ』 白水社 1957年
- ジャン・ジロドゥ 『間奏曲』(共訳:西村熊雄) 白水社 1957年
- ルイジ・ピランデルロ 『各人各説』 白水社 1958年
- ジャン・ベルナール=リュック 『恋の冷凍保存』 劇書房 1979年
[編集] 評論
- 『シナリオの工夫』 室町書房 1955年
- 『ワルイ日本人-うまい話はザラにない』 オリオン社 1965年
- 『亭主関白のすすめ』 秋田書店 1966年
- 『シナリオを書こう!テレビ・映画・ラジオ』 華書房 1966年
- 『亭主天国』(共著:楠本憲吉・新橋遊吉・土岐雄三) 立風書房 1967年
- 『新フランス読本 パリ熱愛記』 ジャパン・パブリッシャーズ 1978年
翻訳作品
- 『フランス俳優論』 ルイ・ジューヴェ/ガストン・バティ/ジャン=ルイ・バロー共著 白水社 1955年
- 『現代フランス演劇』 ルネ・ラルー著 (共訳:内村直也) 白水社 1955年
- 『放送芸術』 ロジェ・プラダリエ著 (共訳:内村直也) 白水社 1957年
- 『奇跡の人々-13人のサムライ』 ラルフ・フィーンズ著 近代書館 1969年
[編集] 映画
映画原作
- 『恋人』 新東宝 1951年(原作『結婚の前夜』)
- 『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(共作:市川三郎) 新東宝 1952年
- 『続・チャッカリ夫人とウッカリ夫人-底抜けアベック三段とび』(共作:市川三郎) 新東宝 1952年
- 『君を愛す』 大映 1956年
- 『誓いてし』 大映 1957年 (カラー作品)
映画脚本
- 『抱擁』(共作:西亀元貞) 東宝 1953年
- 『続思春期』(共作:井手俊郎) 東宝 1953年
- 『芸者小夏』 東宝 1954年
- 『伊豆の踊子』 東宝・室町書房・華書房 1954年
- 『わたしの凡てを』(共作:浅野辰雄・市川崑) 東宝 1954年
- 『魔子恐るべし』 東宝 1954年
- 『土曜日の天使』(共作:山本嘉次郎) 東宝 1954年
- 『芸者小夏-ひとり寝る夜の小夏』(共作:宮内義治) 東宝 1955年
- 『花嫁会議』(共作:椿澄夫) 東宝 1956年
- 『若人の凱歌』 東宝 1956年
[編集] 文化史
- 『宝石』 実業之日本社 1971年
- 『宝石と宝飾』 東京書房社 1973年
- 『蓄音機の歴史』 パルコ出版 1976年
- 『THE TOBACCO たばこ博物誌』 エルム 1976年
- 『パイプのフォークロア』 柴田書店 1976年
- 『ライターの歴史』 アンティック社 1977年(単行本未収録)[46]
- 『ウイスキーのフォークロア』 柴田書店 1977年
- 『博物蒐集館-時計』 青土社 1979年
翻訳作品
- 『パイプの本』 アルフレッド・ダンヒル著 読売新聞社 1971年
- 『メガネ博物誌』 リチャード・コーソン著 東京書房社/八坂書房 1972年/1999年
- 『図説・クラシックカメラ』 ハーヴィー・グロス著 東京書房社 1973年
- 『紅茶・珈琲誌』 エドワード・ブラマー著 東京書房社 1974年/1978年
- 『時計文化史』 エリック・ブラットン著 東京書房社 1974年
- 『世界の魔術』 ミルボーン・クリストファー著 東京書房社 1975年
- 『博物蒐集館-魔術』 ミルボーン・クリストファー著 青土社 1979年
[編集] 趣味・実用
アンティーク
- 『時計・蒐集の魅力と神秘』 三一書房 1972年
- 『古物美学』 東京書房社 1972年
- 『古物蒐集入門』 三一書房 1973年
- 『ガラクタで儲ける法』 アロー出版 1973年
パイプ
- 『THEパイプ』 読売新聞社 1973年
- 『パイプ美術館』 東京書房社 1973年
- 『パイプ 七つの楽しみ』 平凡社 1976年
- 『パイプ-Pipes of the World』 (共著) 立風書房 1978年
- 『博物蒐集館-パイプ』 青土社 1979年
万年筆
- 『THE万年筆』 読売新聞社 1974年
- 『万年筆』 平凡社 1978年
- 『博物蒐集館-万年筆』 青土社 1979年
- 『ステイショナリーと万年筆のはなし』(共著) 東京アド・バンク 1981年
洋酒
- 『THEウイスキー』 読売新聞社 1975年
- 『博物蒐集館-ウイスキー』 青土社 1979年
- 『洋酒のはなし』(共著:藤本義一) 東京アド・バンク 1979年
風俗
- 『おんなの有料道路 ホステス心得十ヶ条』 オリオン社 1965年
- 『全調査 東海道・酒・女・女の店』 有紀書房 1967年
トレンド・実用
- 『紳士のライセンス 国際人のための★★★事典』 読売新聞社 1969年
- 『粋な男への招待状』 実業之日本社 1971年
- 『男を磨く169の作戦』(共著:真野博・鴛海正平) ロングセラーズ 1973年
- 『淑女のライセンス』 読売新聞社 1974年
- 『男の一流品 199の知識』 ロングセラーズ 1974年
- 『新男性学 オトコが男になって男の中の男になる方法』 朝日ソノラマ 1974年
- 『男の冠婚葬祭 199の常識』 ロングセラーズ 1975年
- 『どぶねずみになるな』 エコン出版局 1976年
- 『紳士の美学-粋でNOWな人のために』 青也書店 1977年
- 『男のエレガンス 96の作戦』 ロングセラーズ 1978年
- 『嫁さんをもらったら読む本』 日本実業出版社 1980年
雑学
- 『幸運に恵まれる本-あなたのLUCKY CALENDAR』(共著:マリー・オリギン) ベストセラーズ 1975年[47]
- 『おかしな世界一 珍記録に挑戦する』 ベストセラーズ 1975年
- 『これが元祖だ やっぱり最初が面白い』 ベストセラーズ 1976年
- 『90秒エスプリ ムダ話の一級品』 ロングセラーズ 1976年
- 『物の名前 調べたり楽しんだり』 ロングセラーズ 1976年
- 『西洋エスプリ大法典 心の贅沢・知識の泉』 青也書店 1977年
パズル・ゲーム
- 『禁じられた遊びの本』 有紀書房 1968年
- 『ひまつぶしの本 無我夢中に楽しむ法』 ベストセラーズ 1974年
- 『文芸クロスワード』 新評社 1974年[48]
[編集] 対談・座談
かっこ内は出席者。
- 『演劇展望座談会』[49] (川口一郎・木下順二・辻寛)
- 『既成劇作家を語る』[50] (戸板康二・三島由紀夫・八代静一)
- 『夜の騎士道を見て』[51] (植草圭之助・棚田吾郎)
- 『アメリカと日本のテレビ映画を語る』[52] (岡田晋)
- 『蒐め魔放談録』[53] (赤羽勲・磯部敬恒・井上篤夫・高橋邦太郎・前田右府郎)
- 『257歳の顔にいまぼくらの忘れ物が甦る!』[54] (会田雄次・植草甚一・横溝正史)
[編集] 主な舞台劇の上演記録
[編集] ダン・ヤダ・ダンサーズ
このリストはダンサーで振り付け師の矢田茂が主宰したモダンバレエ団、ダン・ヤダ・ダンサーズが1955年(昭和30年)5月25日から27日まで、東京ビデオホールで行なった公演で梅田のミュージカル・コメディ『入社条件』を上演した際のスタッフと出演者の一覧である。
担当 | スタッフ | 役 | 俳優 | 役 | 俳優 |
---|---|---|---|---|---|
脚本 | 梅田晴夫 | 男A | 市村俊幸 | 女A | 中原早苗 |
演出 | 矢田茂 | 男B | 三木のり平 | 女B | 御伸子 |
作詞・作曲 | 三木鶏郎 | 男C | 甘利幸一 | 女C | 香取マリ |
装置 | 大寺三平 | 男D | 結城敬二 | 女D | 折さよ子 |
照明 | 松崎國雄 | 男E | 津村健二 | 女E | 清水榮子 |
演奏 | ブライト・リズム[55] | バーテン | ロイ・ジェームス | 老人 | 矢田茂 |
[編集] ハーフムーン・シアター・カンパニー
このリストは劇団ハーフムーン・シアター・カンパニーが1970年代に「演劇企画レ・キャンズ」として活動していた頃、梅田の翻訳によるフランスの新作劇を上演した際のスタッフと出演者の一覧である。現在同劇団は、イギリスの新作劇の上演を中心に活動している。
上演年 | 月 | 演目 | 作者 | 出演 | 演出 | 会場 |
---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 7 | 相寄る魂 | ギィ・フォワシイ | 三田松五郎 加藤美津子 | 大間知靖子 | シアターグリーン |
同上 | 他人の学校 | アンドレ・ルッサン | 長沢大 梅田智子 加藤正之 | 吉岩正晴 | 同上 | |
1977 | 7・10 | 殺し屋と関節炎 | ギィ・フォワシイ | 金田龍之介 松岡文雄 肥土尚弘 | 吉岩正晴 | カフェ・テアトル二つの部屋 |
1978 | 2 | 殺し屋と関節炎 | ギイ・フォワシイ | 金田龍之介 松岡文雄 肥土尚弘 | 同上 | 同上 |
[編集] 劇団NLT
このリストは劇団NLTが1970年(昭和45年)から1981年(昭和56年)10月(梅田晴夫追悼公演)までの間に、梅田の作品もしくは翻訳作品を上演した記録である。NLTは、創立者の賀原夏子が文学座時代から梅田と交流があり、1968年(昭和43年)から現在に至るまで梅田の舞台劇や、梅田の翻訳によるフランスのプールヴァール演劇を数多く上演している。
上演年 | 月 | 演目 | 作者 | 演出 |
---|---|---|---|---|
1970 | 1 | 着るものがないの | 梅田晴夫 | 仁科余志夫 |
同上 | サイコロトバク | 同上 | 賀原夏子 | |
1971 | 6 | オスカー | クロード・マニエ | 同上 |
1972 | 1 | 相寄る魂 | ギィ・フォワシイ | 森田俊二 |
2 | 坊やに下剤を | アンドレ・ルッサン | 賀原夏子 | |
同上 | バダン君 | 同上 | 同上 | |
同上 | 劇場の異邦人 | 同上 | 同上 | |
5 | 巴里の魔女同盟 | 同上 | 水田晴康 | |
7 | 相寄る魂 | ギィ・フォワシイ | 賀原夏子 | |
同上 | 親父の説教 | 同上 | 同上 | |
8 | 同上 | 同上 | 同上 | |
9 | 恋の冷凍保存 | ジャン・ベルナール=リュック | 同上 | |
10 | 同上 | 同上 | 同上 | |
1973 | 2 | 奥様にご用心 | アンドレ・ルッサン | 同上 |
1974 | 2 | 四角関係 (よんかくかんけい) | クロード・マニエ | 村上登志夫 |
同上 | サイコロトバク | 梅田晴夫 | 賀原夏子 | |
4~6 | 着るものがないの | 同上 | 同上 | |
同上 | サイコロトバク | 同上 | 同上 | |
6 | 男なんて? | フランソワーズ・ドラン | 同上 | |
7 | 同上 | 同上 | 同上 | |
9 | 同上 | 同上 | 同上 | |
同上 | 四角関係 | クロード・マニエ | 村上登志夫 | |
1975 | 2 | ミニミニミニイ | 同上 | 同上 |
7 | ら・睡眠薬 | 同上 | 賀原夏子 | |
1977 | 12 | 三億ぽっちでどうなるもんかよ | D・カマンカ | 村上登志夫 |
1978 | 10 | ルルシーヌ街殺人事件 | ウージェーヌ・ラビッシュ | 同上 |
1979 | 9 | つきとつけ | フランソワーズ・ドラン | 中村哮夫 |
1981 | 7 | 文法 | ウージェーヌ・ラビッシュ | 平山勝 |
10 | オスカー | クロード・マニエ |
- 『サイコロトバク』には坂上道之助が振り付けで参加。
[編集] 主なドラマの放送記録
[編集] NHKラジオ小劇場
このリストは、1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)までのNHKラジオドラマ枠、『ラジオ小劇場』で放送された、梅田の代表的な作品『結婚の前夜』(1949年6月23日放送)と、『台風の日』(1950年4月13日放送)の放送スタッフと出演者の一覧である。
『結婚の前夜』 | スタッフ | 役 | 声優 | 役 | 声優 |
---|---|---|---|---|---|
演出 | 前田達郎 | 京子 | 阿里道子 | 京子の母 | 赤木蘭子 |
音楽 | 服部正 | 遠藤誠一 | 永井智雄 | ホールの司会 | 成瀬昌彦 |
ナレーター[56] | 田島義文 | 京子の父 | 御橋公 | ホールの歌手 | 石井好子[57] |
『台風の日』 | スタッフ | 役 | 声優 | 役 | 声優 |
脚本 | 梅田晴夫 | 男 | 村上冬樹 | 姉 | 七尾伶子 |
演出 | 田甫一郎 | 少年 | 藤本武 | 妹 | 鎌田彌恵 |
[編集] ラジオ東京
このリストは、ラジオ東京で放送された梅田の連続ラジオドラマ、『母の肖像』[58]と『みゆき』[59]の放送スタッフと出演者の一覧である。
『母の肖像』 | スタッフ | 役 | 声優 | 役 | 声優 |
---|---|---|---|---|---|
脚本 | 梅田晴夫 | 原信夫[60] | 田村秋子 | 加本 | 宮内順子 |
企画・演出 | 村崎敦雄 | 原英一 | 芥川比呂志 | 節子 | 荒木道子 |
作曲・指揮 | 萩原哲晶 | 原慶子 | 岸田今日子 | 田所先生 | 三津田健 |
演奏 | デューク・オクテット | 原四郎 | 小池朝雄 | 関口 | 宮口精二 |
ディレクター | 小松達郎 | 篠原伸介 | 中村伸郎 | 咲山 | 北村和夫 |
『みゆき』 | スタッフ | 役 | 声優 | 役 | 声優 |
脚本 | 梅田晴夫 | 間辺みゆき | 阿里道子 | 島本先生 | 木村功 |
制作 | ラジオ東京演劇課 | 母:とみ | 細川ちか子 | 学生:小島 | 小池朝雄 |
演出 | 同上 | 祖父:源兵衛 | 山田巳之助 | 同上:谷村 | 北村和夫 |
作曲 | 齋藤登 | 叔父:文三 | 清水将夫 | 同上:間辺清水 | 酒井奈々子 |
指揮 | 同上 | 叔母:せつ | 鈴木光枝 | 君島昂二 | 松本克平 |
演奏 | アンサンブル・リュンヌ | せつの夫 | 清水一郎 | 番頭:清次 | 中川秀夫 |
従姉:くみ子 | 野中ユリ子 | 老女中:はる | 賀原夏子 |
[編集] 脚注・出典
- ^ 梅田の父、潔は青森県三戸郡三戸字梅内村の農家に生まれ、17歳で上京。林董の書生を務めたのちにロシア貿易会社を興した。姓の由来は、梅田の祖父が明治維新の戸籍制本施行の際、地名である「梅内」を姓にするはずであったが、官吏が「梅田」と誤って登録したものであるという。(出典:『紳士の美学-粋でNOWな人のために』 青也書店 1977年)
- ^ 梅田の母、玲子は、俳人として玲如とも号し、同年生まれの俳人、原石鼎が主宰する俳句誌『鹿火屋』へ作品を発表するなどして活躍した。また、岸田劉生、小林徳太郎、島村抱月、平塚らいてう、松井須磨子、柳原白蓮などの当時の文化人たちとも交流した。(出典:『石鼎とともに』 原コウ子著 明治書院 1979年)
- ^ 当時の梅田家では、毎週日曜日にサモワールで沸かした湯で紅茶を淹れるのが習慣であった。(出典:『太陽』NO.132 特集:大正時代 平凡社 1974年)
- ^ 梅田の二人の子息も慶應の一貫教育を受けている。
- ^ この万年筆は、1975年(昭和50年)公開の映画『我輩は猫である』(制作:芸苑社、監督:市川崑、出演:仲代達矢、伊丹十三、岡田茉莉子ほか)に夏目漱石の愛用品として登場している。(出典:『万年筆』 平凡社 1978年)
- ^ 出典:『万年筆』 平凡社 1978年
- ^ 梅田の読書好きは終生続き、なかでも百科事典を熟読することを趣味にしていた。(出典:月刊『サンジャック』 1976年9月号 鎌倉書房)
- ^ 梅田が二宮に居住していた1947年(昭和22年)には、慶應大学出身で三田文学同人でもあった、後年小説家として特異な才能を発揮することになる、当時17歳の山川方夫(本名:嘉巳)が梅田家を訪れた。梅田は山川の才能に惚れ込み、自身の蔵書を貸し与えるなど、さまざまな援助を惜しまず、山川が1965年(昭和40年)に不慮の交通事故で世を去るまで交流を続けた。なお、山川方夫のペンネームは、日本画家であった山川の父、秀峰が師事した鏑木清方の「方」と、梅田晴夫の「夫」を合わせたものである。(出典:『愛のごとく』 山川方夫著 講談社 1998年)
- ^ 梅田は、アンドレ・ジイドの『狭き門』(山内義雄訳)を読み、フランス文学に傾倒するようになった。最も愛惜するフランス文学作品はアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』と、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの『寓話』。また、梅田は文学上の師として川端康成と林達夫のふたりを挙げている。(出典:『ステイショナリーと万年筆のはなし』 東京アド・バンク 1981年)
- ^ この評論は、梅田が初めて自分で購入した万年筆(パーカー社製)で書かれた。(出典:『万年筆』 平凡社 1978年)
- ^ 梅田は生涯に6回結婚したが、それについては「私はフェミニストのくせにわがままだった。」と、著書『嫁さんをもらったら読む本』 (日本実業出版社 1980年)で述懐している。
- ^ 出典:『阿波多羅』第二集 重田哲三著 私家版 1983年
- ^ 一般向学者のための演劇講座。「梅田ビル」を会場とし、勤労者に配慮して夜間に開講した。受講者のなかには後に劇団四季で活躍することになる藤野節子も含まれていた。(出典:『作曲家・武満徹との日々を語る』 武満浅香著 小学館 2006年)
- ^ 『伊豆の踊子』は結局松竹で映画化されたため、梅田の脚本は使用されなかった。なお、この脚本は梅田の著書『シナリオの工夫』 (室町書房)と、『シナリオを書こう-映画・テレビ・ラジオ』 (華書房)に収載されている。
- ^ 1950年代の梅田は多忙を極め、平均して1ヶ月に400字詰め原稿用紙200枚分を執筆し過労と深酒により結核に患り、数ヶ月病臥したこともある程であったが、書かれた作品の実数、内容については不明な点が多く、脚本家としての梅田の仕事の全貌をつかむことは困難である。また、この頃、梅田は「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」の原稿料で、喜劇俳優、古川ロッパから40本もの万年筆を買い取り、自身の万年筆コレクションの礎を築いた。(出典:『万年筆』 平凡社 1978年/『嫁さんをもらったら読む本』 日本実業出版社 1980年)
- ^ 梅田は、道玄坂(旧:大和田町92)にあったフランス料理店『二葉亭』の三階に間借りしていた。(出典:月刊『暮しの創造』(8)春号 特集:木の話 創芸出版社 1979年)
- ^ 万里陽子の代表的な映画出演作には東宝から1956年(昭和31年)に公開された、『吸血蛾』(原作:横溝正史、監督:中川信夫、出演:池部良、久慈あさみ、東野英治郎ほか)、『ある女の場合』(原作:飯沢匡、監督:瑞穂春海、出演:池部良、原節子、司葉子ほか)、『兄とその妹』(脚本:島津保次郎、監督:松林宗恵、出演:東山千栄子、村瀬幸子、宮口精二ほか)などがある。なお、万里は梅田との結婚を機に女優業から引退した。
- ^ 望夫の名前は、望月の頃(8月)に誕生したことから梅田が命名したという。(出典:『西洋エスプリ大法典-心の贅沢・知識の泉』 (青也書店 1977年)
- ^ 梅田は、この時の体験をもとに、著書『ワルイ日本人 うまい話はザラにない』 (オリオン社 1965年)を書いている。
- ^ 梅田ビルは恵比寿(渋谷区東2丁目24-6)にあった。その地下には「古典屋」というアンティーク・ショップがあり、梅田のアンティーク・コレクションのいくつかはそこで求められた。なお、古典屋の店主である赤羽勲は梅田が創刊した雑誌『アンティック情報』の編集主幹を務めている。
- ^ 雑学の会の具体的な活動内容については記録がなく、詳細は不明であるが、梅田は後年、この会で収集した雑学をもとにした著作を数多く残しており、なかでも『ひまつぶしの本』 (ベストセラーズ 1974年)は梅田の代表作のひとつに数えられている。ちなみに、現在『雑学倶楽部』として活動している団体は梅田とは関りがない。
- ^ 梅田が書いたゲーム関連書は日常的に入手できる小物を用いたパーティーゲームを主体にしたものである。
- ^ この時期、梅田が短期間に多数の著書を執筆した理由は、自身が興した出版社の倒産で抱えた約5000万円の負債を完済するためであった。(出典:『THEウイスキー』 読売新聞社 1975年)
- ^ 梅田がアンティーク・ショップ「古典屋」の店主、赤羽勲と共同で発足した会員制のアンティーク交換会で、会員が珍品を持ち寄り展示即売を行なうものであった。発足から7年後の1979年(昭和54年)8月に会の名称を「EYE(アイ)の会」に改称し活動していたが、現在では解散している。(出典:『アンティック情報』NO.14 アンティック社 1979年)
- ^ 推定だが、1973年(昭和48年)から翌年にかけて、一家4人でパリをはじめとするヨーロッパに旅行。1975年(昭和50年)の11月には、月刊誌『太陽』の記事執筆のため、デンマークのコペンハーゲン、フランスのパリ、イギリスのロンドンを楽旅した。大のダンヒル党であった梅田は、ロンドン滞在中に訪問先のダンヒル本社でオリジナル・ブレンドのパイプたばこを購入。ダンヒルでは購入者に顧客番号が付けられるが、梅田の番号は“365-25”で、購入したたばこの配合処方は“マイ・ミクスチュア10”を四分の一ポンドと、“マイ・ミクスチュア965”を四分の三ポンドずつブレンドしたものであった。(出典:『太陽』NO.154 特集:能・世阿弥の生涯 平凡社 1976年)
- ^ 『アンティック情報』の編集同人は梅田のほか、赤羽勲、池田圭、兼松美枝子、木村俊雄、坂本曠之輔、斉藤智、豊岡博幸、新田浩、畠山滋の10名。本誌は当初梅田が発行人をつとめたが、発起人のひとりである赤羽勲の死去に伴い、1977年(昭和52年)以降は坂本曠之輔が後任となった。なお、梅田は同誌にいくつかの記事を寄稿し、亡くなるまで編集アドバイザーを務めた。
- ^ 梅田が1970年代にプラチナ萬年筆株式会社と共同開発した手作り万年筆。梅田の約1000本のコレクションから、特に優れた12本の万年筆の長所を合わせて設計、開高健など、一日30枚以上の原稿を執筆するヘビーライターとして知られた50名の作家の協力を得て、試作、試用を積み重ねて1978年12月に完成。モンブラン万年筆に対抗して、富士山の標高に因み、「プラチナ#3776」と命名された。軸の直径は13㎜。キャップを外して軸にはめた全長は約160㎜。ペン先の長さ22㎜。重心点は軸の中心からやや後方の56~57%の位置。ペン先は14金、ペン芯にはエボナイトが使われ、カートリッジ・インク対応。ペン軸にはウォーターマン社のハンドレッド・イヤー・ペンをモデルにしたギャザー(襞)が入れられ、長時間持っても熱がこもらない仕組みになっている。製造コストの関係上、1990年代以降は製造中止になっていたが、2005年に生産を再開。現在はペン軸にパイプの素材としても知られるブライヤ材を使用したものや、蒔絵を施した高級品も製造販売されている。
- ^ 出典:『博物蒐集館・万年筆』 青土社 1979年
- ^ 他の寄稿者は巌谷大四、川口博之、近藤富枝、野田宇太郎、平山信義。
- ^ 梅田は、16歳の宝塚観劇の折にはじめてたばこを喫って以来、後年には一日にハイライト三箱を空けるヘビースモーカーとして知られていた。(出典:『パイプ 七つの楽しみ』 平凡社 1976年)
- ^ 梅田の万年筆コレクションと愛用の机は、政江夫人の手によって、慶應義塾大学三田メディアセンターと、生前から親交があった作家の山口瞳にそれぞれ寄贈された。(出典:『とっておきのもの とっておきの話』第3巻 アミューズ・ブックス 1997年)
- ^ 出典:『未来劇場23 未知なるもの』 未来社 1954年
- ^ 梅田の著書『パイプ 七つの楽しみ』 (平凡社 1976年)には、「女が物の装飾的側面のみに関心を持つのは女が○○だからだ」という記述がみられる。
- ^ パイプ愛好者の団体『日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)』の会員は、同人発行の書籍『パイプ大全』 (森林書房 1978年)のなかで、梅田が翻訳した『パイプの本』の誤謬を指摘したほか、梅田の女性観への非難ととれる発言を寄せている。
- ^ 劇中、『料理のうまい女の亭主は生涯浮気をしない』という忘れがたい科白があるが、梅田は晩年の著作『嫁さんをもらったら読む本』(日本実業出版社 1980年)にも同じ主旨のことを書いており、これは梅田が生涯持ち続けた人生観と思われる。(出典:『未来劇場23 未知なるもの』 未来社 1954年)
- ^ 出典:『未来劇場23 未知なるもの』 未来社 1954年
- ^ 多趣味で知られた梅田は、一時期、キングハルオーというアラブ系の競走馬を所有しており、たびたびレースにも出走。第24回読売カップでは優勝している。ちなみに、その時の梅田のオッズは76倍であった。(出典:『おかしな世界一 珍記録に挑戦する』 ベストセラーズ 1975年)
- ^ 現在、梅田の著書は翻訳を手がけた、リチャード・コーソンの『メガネの文化史』 (八坂書房)と、ジャン・ジロドゥの『間奏曲』 (白水社刊、ジロドゥ戯曲全集第2巻に所収)をのぞいて絶版となっている。
- ^ 作家の西尾忠久は、梅田に私淑しており、『ヴィトン読本』 (グラフ社)、『男のこだわり図鑑』 (廣済堂)など、トレンド関連本も多数執筆。梅田の後継者とも呼べる活動をしている。
- ^ このラジオドラマはNHKラジオ小劇場で1950年(昭和25年)6月29日に放送された。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第3集 日本放送協会編 宝文社 1951年)
- ^ このラジオドラマはNHKラジオ小劇場で1950年11月9日に放送された。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第3集 日本放送協会編 宝文社 1951年)
- ^ このラジオドラマはNHKラジオ小劇場で1950年12月21日に放送された。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第3集 日本放送協会編 宝文社 1951年)
- ^ 本作品は、市川三郎、大村一平、菜川作太郎、佐々木恵美子、中江良夫、南達夫、吉田みきとの共同執筆によるもので、市川、菜川、佐々木、中江、吉田の執筆分は、英宝社と日本出版協同より書籍化されている。参考文献として揚げた同名書籍がそれにあたる。
- ^ 本作品は源氏鶏太の同名小説をもとに梅田が脚本を書き、泰山英世が演出を担当したテレビドラマで、NHKで放映された。出演者は、芦田伸介、芦原英了、石田昭子、丘久美子、北原文枝、久米明、関弘子、津村悠子、夏川静江、深見泰三、万里陽子、村井英夫、安井昌二ほか。
- ^ 梅田は、当作品を翻訳紹介した際に題名を“しかくかんけい”ではなく、“よんかくかんけい”と読むように指示している。
- ^ この記事は梅田が発行人を務めた雑誌『アンティック情報』の第5号から第7号に連載された。
- ^ 本書はマリー・オリギンの占星術鑑定と、梅田の雑学を組み合わせた内容となっている。
- ^ 本書は梅田が1973年(昭和48年)から実業之日本社発行の雑誌『週刊小説』に約1年間連載したクロスワード・パズルをまとめたものである。
- ^ 演劇雑誌、『劇作』 1949年(昭和24年)3月号に掲載。
- ^ 演劇雑誌、『劇作』 1950年(昭和25年)1月号に掲載。
- ^ 演劇雑誌、『シナリオ』 第12巻 (シナリオ作家協会刊 1956年)に掲載。
- ^ 月刊誌、『テレビドラマ』 1964年(昭和39年)8月号 (ソノレコード株式会社)に掲載。
- ^ 梅田の著書、『ガラクタで儲ける法』 (アロー出版社 1973年)に掲載。
- ^ 雑誌、『サンジャック』 1976年(昭和51年)9月号 (鎌倉書房)に掲載。
- ^ ブライト・リズムとは、下村務(アルト・サックス)、協野光司(ギター)、安部敏(ピアノ)、平野快次(ベース)、伊地智博(ドラムス・パーカッション)と、ボーカリストの梅山勤・小林英雄・月村光一・堤厚二・古田明代の総勢10名から成るジャズ・バンドである。
- ^ 梅田によると、このナレーターはドラマの解説者ではなく、ギリシア悲劇で言うところのコロスを意図したものという。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第2集 日本放送協会編 宝文館 1950年)
- ^ 石井は台詞のないダンスホールの歌手役で出演し、シャンソンの『愛しているといって』(DITES‐MOI JE VOUS AIME)を歌った。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第2集 日本放送協会編 宝文館 1950年)
- ^ 『母の肖像』は、武田薬品工業株式会社の提供で制作され、1952年(昭和27年)10月6日から翌年の3月31日までの毎週月曜日の夜に、ラジオ東京をはじめとする民放5局で26回にわたって放送された。
- ^ 『みゆき』は、カネボウ毛糸の提供で制作され、1953年(昭和28年)6月4日から12月25日までの毎週土曜日に、ラジオ東京をはじめとする民放5局で26回にわたって放送された。
- ^ 名前の読みは「しのぶ」。
[編集] 関連人物
- 赤羽勲-梅田ビルの地階にあったアンティーク雑貨店「古典屋」店主。
- 池田圭-オーディオ評論家。隔月刊『アンティック情報』の編集同人。
- 内村直也-梅田が師事した劇作家。『雪の降るまちを』の作詞者。
- 梅田望夫-梅田の長男。経営コンサルタント。
- 梅田みか-梅田の長女。脚本家。
- 梅田玲如-梅田の母で俳人。旧姓名小具玲子。俳誌『鹿火屋』等で活躍。
- 開高健-小説家。万年筆「プラチナ#3776」の開発に際し梅田に助言。
- 賀原夏子-女優、演出家。梅田の舞台劇の演出を数多く手がけた。
- 川口浩-俳優。慶應幼稚舎での後輩で、1943年(昭和18年)以降親交を結ぶ。
- 川端康成-小説家。梅田が師と仰いでいた。
- 佐々木博-梅田と縁が深かった東京銀座の喫煙具店「佐々木」店主。
- 西尾忠久-作家。梅田に私淑しており、トレンド関連書も多数執筆。
- 林達夫-評論家。梅田が師と仰いでいた。
- 古川ロッパ-喜劇役者。梅田は彼の万年筆コレクションを譲り受ける。
- 前田右府郎-翻訳家。梅田のアンティーク収集仲間。
- 山川方夫-小説家。公私にわたって梅田の援助を受ける。
- 山口瞳-小説家。梅田の没後、遺品の机を譲り受けた。
[編集] 参考文献
注記あるもの以外は現在絶版。
- 『群像』第3巻第10号 講談社 1948年
- 『悲劇喜劇』昭和24年春号 早川書房 1949年
- 『ラジオドラマ 書き方と演出』 堀江史郎/中川忠彦共著 協立書店 1951年
- 『ラジオ小劇場脚本選集』全6集 日本放送協会編 宝文館 1951年~1954年
- 『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(共著) 日本出版協同 1953年
- ダン・ヤダ・ダンサーズ 第1回本格公演プログラム 1955年
- 『明朗ラジオドラマ集』 佐々木恵美子著 英宝社 1962年
- 月刊『太陽』NO.132 特集:大正時代 平凡社 1974年
- 隔月刊『アンティック情報』 アンティック社 1975年~1981年
- 月刊『太陽』NO.154 特集:能・世阿弥の生涯 平凡社 1976年
- 月刊『サンジャック』NO.16 鎌倉書房 1976年
- 季刊『暮しの創造』(7)冬号 特集:日本のクラフト 創芸出版社 1978年
- 季刊『暮しの創造』(8)春号 特集:木の話 創芸出版社 1979年
- 『石鼎とともに』 原コウ子著 明治書院 1979年
- 『新版:パイプ大全』 日本パイプスモーカーズクラブ編 森林書房 1983年
- 『阿波多羅』第2集 重田哲三著 私家版 1983年 外部リンクから閲覧可能
- 『生物としての静物』 開高健著 集英社 1984年 刊行中
- 『とっておきのもの、とっておきの話』第3巻 YANASE LIFE編 アミューズ・ブックス 1997年
- 『愛のごとく』 山川方夫著 講談社 1998年 刊行中
- 『二宮町図書館だより』 2005年7月号(通算16号)外部リンクから閲覧可能
- 『作曲家・武満徹との日々を語る』 武満浅香著 小学館 2006年 刊行中
- 『万年筆クロニクル』 すなみまさみち・古山浩一著 えい出版社 2007年 刊行中