宮口精二
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みやぐち せいじ 宮口 精二 |
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本名 | 宮口精次 |
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生年月日 | 1913年11月15日 |
没年月日 | 1985年4月12日(満71歳没) |
出生地 | 東京都墨田区 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 |
活動期間 | 1933年 - 1985年 |
宮口 精二(みやぐち せいじ、本名・精次、1913年11月15日 - 1985年4月12日)は、日本の俳優。
目次 |
[編集] 来歴・人物
東京本所区緑町(現・墨田区緑)に大工の息子として生れる。福徳生命(現・マニュライフ生命保険)東京支店で給仕として働きながら、1931年に上野夜間中学を卒業する。
1933年、「築地座」の研究生募集に応じて入団。「築地座」解散後は、1937年の「文学座」結成に参加し、1944年の森本薫作の『怒涛』での演技が注目される。同年、黒澤明の『続姿三四郎』に同じ文学座の森雅之とともに出演し、映画デビュー。
戦後も文学座の主力として活躍し、1949年には第1回毎日演劇賞を受賞する。映画でも1951年、木下惠介の『善魔』を皮切りに、小津安二郎の『麦秋』、今井正の『キクとイサム』、稲垣浩の『無法松の一生』などの名作に立て続けに出演し、日本映画界にとって欠くべからざる存在になった。
特に、黒澤明の『七人の侍』では、寡黙な凄腕の剣客を好演し、毎日映画コンクール助演男優賞を受賞した。
1965年に文学座を離れてからは、東宝演劇部に籍を置き、商業演劇を中心に活躍した。
また、仕事の合間にアマチュア野球の審判をやり、後楽園球場や大阪球場で主審を務めたこともある。
1970年から季刊雑誌『俳優館』を主宰。
1985年4月12日死去。享年71。
[編集] 主な出演作品
[編集] 映画
- 續姿三四郎(1945年)
- 生きる(1952年)
- にごりえ(1953年)
- 七人の侍(1954年)
- 流れる(1956年)
- 暗黒街(1956年)
- 鬼火(1956年)
- 早春(1956年)
- 蜘蛛巣城(1957年)
- 東京暮色(1957年)
- 楢山節考(1958年)
- 無法松の一生(1958年)
- 張込み(1958年)
- いろはにほへと(1960年)
- 悪い奴ほどよく眠る(1960年)
- 宮本武蔵 般若坂の決斗(1962年)
- 破戒(1962年)
- 太平洋の翼(1963年)
- 古都(1963年)
- 猟人日記(1964年)
- 未成年 続・キューポラのある街(1965年)
- 悲しき別れの歌(1965年)
- 異聞猿飛佐助(1965年)
- 日本のいちばん長い日(1967年)
- リオの若大将(1968年)
- 社長繁盛記(1968年)
- 男はつらいよ 柴又慕情(1972年)
- 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ(1974年)
- トラック野郎 度胸一番星(1977年)
- 将軍 SHOGUN(1980年)
- 幻の湖(1982年)
- 長江(1982年・ナレーション)
- 人魚伝説(1984年)
- さらば箱舟(1984年)
[編集] テレビドラマ
- 智恵子抄(1956年)
- いろはにほへと(1959年)
- 太閤記(1965年)
- 青春とはなんだ(1965年 - 1966年)
- これが青春だ(1966年 - 1967年)
- でっかい青春(1967年 - 1968年)
- 進め!青春(1968年)
- 東京バイパス指令(1968年 - 1970年)
- 樅ノ木は残った(1970年)
- 大忠臣蔵(1971年、栗崎道有役)
- 新・平家物語(1972年)
- 風と雲と虹と(1976年)
- 赤い絆(1977年)
- 徳川家康(1983年)
- 山河燃ゆ(1984年)
[編集] 舞台
- 女の一生
- 雲の涯
- 釣堀にて
など
[編集] 著書
- 俳優館(対談集。1983年刊行)