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トウ小平 - Wikipedia

トウ小平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本来の表記は「鄧小平」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
鄧小平
Image:DengXiaoping.jpg

ジミー・カーターと対談する鄧小平。中華人民共和国政府首脳が訪米したのはこれが最初。(1979年1月)

職業 政治家
各種表記
簡体字 邓小平
繁体字 鄧小平
ピン音  Dèng Xiǎopíngヘルプファイル
和名表記 とう しょうへい
発音転記 ドン シャオピン
ラテン字 Deng Xiaoping
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鄧小平(とう しょうへい、ドン シャオピン(Deng xiao ping)、1904年8月22日-1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって、中華人民共和国の市場経済化に着手した。1978年から1997年までの、事実上の中華人民共和国の最高権力者。

目次

[編集] 生涯

1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢の名も用いる。1920年、16歳でフランスへ留学。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平はこの後一度も帰郷したことはない。

[編集] フランス留学時代

鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むも、半年で生活費を稼ぐため学校を辞めてしまう。鉄鋼工場、レストランのボーイ、清掃など、職を転々と変えながらも、堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3ヶ月間、学び、パリ近郊のルノーの自動車工場で仕上げ工として勤務。

[編集] 共産主義者として

フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1925年中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となり、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年モスクワに渡り、東方勤労者共産大学モスクワ中山大学共産主義を学ぶ。ちなみに鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていた。

1927年帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。

1935年周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな戦果を収める。中華人民共和国の独立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

1952年毛沢東により政務院常務副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第六位になっている。

1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった[1]

[編集] 文革期

鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていた鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。しかし与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、矯正労働は過酷なもので、何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第一次天安門事件によって再び失脚、広州軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

[編集] 権力の掌握

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。(尚、彼はこの際に日本の躍進振りに対し戸惑いを見せたとされる。)その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部たちを自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。ただし、鄧小平は自らは決して序列一位ではなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高権力者であった。鄧小平は党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

1986年には反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む胡耀邦総書記、趙紫陽首相らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している[2]

[編集] 天安門事件

鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動き(=自らに敵対する動き)には厳しい態度で臨み、1989年には天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め学生運動に理解を示していた趙紫陽総書記ら指導部に対して、軍部を掌握していた鄧小平が一貫して強硬路線を指示し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。

事件後鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定した上で、側近の1人で武力弾圧に理解を示した江沢民を総書記へ抜擢した。

[編集] 鄧小平の政策

深圳に立つ鄧小平像
深圳に立つ鄧小平像

政治面では社会主義と中国共産党の指導性を強調し、経済面では生産力主義に基づく柔軟な経済政策が鄧小平の基本姿勢である。

また、公職から退き、表面的には引退しつつ影響力を維持していた1992年1月-2月(春節)には深圳上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながると主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

鄧小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。

また1984年12月には、イギリスマーガレット・サッチャー首相との間に「一国二制度」構想の元に、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に調印している。

[編集] 死去

鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に死亡した。享年93。遺言は唯物主義にのっとり、角膜などを移植に寄付し、他の遺骸は解剖学のために献体された。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだとき盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

[編集] あだ名

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧蝟子(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

[編集] エピソード

フランス留学の経験もあり、ワインチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。

  • 特に有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。
  • また、サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたと言われている。
  • 背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからだと後年、語っていた。
  • 鄧小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」だとする説もある。最も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際に弾劾理由の一つとしている。
  • 1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。
  • 訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた時、電気ショックをうけたように立ちつくした。大使館に帰って「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話した。
  • 実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

[編集] 出典、注釈

  1. ^ 『鄧小平秘録』p.25
  2. ^ 『鄧小平秘録』p.26

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
華国鋒
中国共産党中央軍事委員会主席
1981年 - 1989年
次代:
江沢民


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