池波正太郎
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池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年(大正12年)1月25日 - 1990年(平成2年)5月3日)は戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 生い立ち
1923年(大正12年)1月25日、東京市浅草区聖天町(現在の東京都台東区浅草7丁目)に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳(1929年)まで同地で過ごす。やがて学齢に達したこともあり、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも意に染まず、両親不和のためこの年に離婚する。
正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。祖父今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがり、彼に大きな影響を与えた。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたりもしたが、不縁となってけっきょくは実家に戻ってきた。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しむなど、はやくも後年の資質を感じさせる嗜好を持っていた。
1935年、 西町小学校を卒業する。担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情がこれを許さず、そのまま奉公に出る。親戚の伝手によって最初株式現物取引所田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店松島商店に入る。以後、1942年に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。当時の兜町に勤める者の常として、チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し、月給を上回る収入を得る。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食い歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味がいよいよ深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物して名優の演技に接し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでしたことは、後の人生に重大な影響をもたらす。
[編集] 終戦まで
1941年、太平洋戦争開戦を契機として、遠からず徴兵・出征の日が来ることを思い、それまでの生活を改めることを決意。翌年には兜町を退職し、国民勤労訓練所に入所。同年のうちに芝浦・萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学ぶ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって本来あまり器用とはいえない正太郎は数箇月のうちにこの技術に習熟することになる。このころには創作への興味も湧き、「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチを投稿するなどした。そのうち「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」は賞金50円をもたらし、これが正太郎にとってはじめての原稿収入となった。
1943年の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元旦には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物するなど、相変わらず充実した日々を過ごすが、前年、成年に達した正太郎のもとにもついに召集令状がもたらされ、工場を退職。4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかしながら一本気で頑固な正太郎は、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに我慢がならず、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。磯子の八〇一空に転属となり、通信任務(電話交換手)を担当。翌1945年3月10日には東京大空襲のため永住町の家が焼けた。その後、水兵長に進級し、鳥取・米子の美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となる。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的穏やかな日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句や短歌を作ることに熱中した。8月15日、敗戦。二等兵曹に進級。残務処理を終えて8月24日に東京に戻る。
[編集] 劇作家として
敗戦による虚脱感のなか、将来への展望が持てないまま毎日を過ごしていたなかでも、観劇の習慣は相変わらずで、1945年には10月の帝国劇場で六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を見物した。未曾有の混乱のなかで、伝統を守り、舞台への情熱を失うことのない老優の姿、また歌舞伎という演劇の存在そのものが正太郎をつよく励ますこととなる。1946年、東京都職員となり下谷区役所に勤務する。仕事は学生アルバイトとともに各所にDDTを撒布してまわることだった。すでに空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。この入賞によって劇作家として立つ自信を得、区役所勤務をつづけながら、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たす。
1948年には習作を手にはじめて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加。それまでは観劇体験をもとにまったくの独学で脚本を書いていた正太郎であったが、読売演劇文化賞の際に審査員として好意的な評を寄せてくれた長谷川の指導を得て、その才能は徐々に開花してゆく。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は辰巳柳太郎の目にとまって、新国劇での上演が検討された。1950年、片岡豊子と結婚。さすがに役所に寝起きするわけにもゆかず、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てる。以後、新国劇の座付作者といわれるほどにこの劇団と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川のつよい勧めによって小説にも手を染め、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表する。
[編集] 小説家へ
1955年1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、みずから演出をも行う。これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職。劇作に志をいだいていた正太郎は昇進を断り、外回りの職に徹していたが、この当時は目黒税務事務所で税金の集金を行っていた。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作『風林火山』、『黒雲谷』、『賊将』など、人気の絶頂にあった新国劇で意欲作をつぎつぎと上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって真田騒動という好題材を得、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞に至らず、「店ざらし」の陰口にあうことにもなる。私生活では、1958年暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父が正太郎のもとを尋ね、久々の再会を果たす。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。
1960年、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。かねてから劇作・小説の両方によって作家活動をつづけることをすすめていた師長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少のころからの愛読者であった大仏次郎から賞を手渡され、感激する。受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号~64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号~64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号~12月29日号)など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で映画化された。一方で劇作家としては1963年に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになる。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との齟齬が原因であった。同年6月11日、長谷川伸が没する。父親のない少年時代をすごした正太郎にとって、第二の父というべき師の逝去は大きな衝撃であった。同時に師生前からかならずしも折合いがよかったとはいえない長谷川門下にあってその性格から常に孤立しがちであった正太郎は、これを契機として二十六日会・新鷹会などを脱会。以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。
[編集] 鬼平犯科帳
四十代に入った正太郎の筆は円滑洒脱の味を増し、従来からの歴史小説に加えて江戸の市井に題材を採った時代小説にも佳品が生まれた。『江戸怪盗記』(「週刊新潮」64年1月6日号)、『おせん』(「小説現代」同年7月号)、『堀部安兵衛』(「中国新聞」同年5月14日~66年5月24日)、『出刃打お玉』(「小説現代」65年3月号)、『同門の宴』(「オール讀物」同年9月号)、『あほうがらす』(「小説新潮」67年7月号)などはその例であるが、なかでも1967年12月の「オール讀物」に発表した『浅草御厩河岸』は読者から高い評価を受け、次号以降断続的にシリーズとして連載が開始される。のちに小説家池波正太郎の代名詞ともなった『鬼平犯科帳』の第一作である。『寛政重修諸家譜』のなかで出会った長谷川平蔵という人物にかねてつよい興味を持っていた正太郎は、市井の出来事を叙するのにふさわしい文体ができあがるのを待って、四十代に入ってから『鬼平』に手を染めた。旧知の初代松本白鸚をモデルに、世の善悪に通じ、強烈なリーダーシップと情愛を兼備えた平蔵を描出するとともに、火付盗賊改方と盗賊たちの相克を通して「よいことをしながらわるいことをする」人間の矛盾を描いたこの作品は、それまで明朗活発と勧善懲悪を旨としていた時代小説のなかにあって、新鮮な悪漢小説として読者の広範な支持を受け、またたく間に正太郎の文名を高からしめることになる。同時期の歴史小説に『さむらい劇場』(「週刊サンケイ」66年8月22日号~67年7月17日号)、『上泉伊勢守(剣の天地)』(「週刊朝日」67年4月28日号~6月16日号)、『蝶の戦記』(「信濃毎日新聞」ほか同年4月30日~68年3月31日)、『近藤勇自書』(「新評」同年10月号~69年3月号)など。昼に起き夜中に執筆する生活習慣は相変わらずであったが、取材旅行を含めて旺盛に旅行し、映画・観劇にもよく出かけ、人を驚かせるほどの健啖ぶりであった。
『鬼平』連載開始の翌年1968年には担当編集者の求めによって自伝的随筆『青春忘れもの』(「小説新潮」68年1月号~12月号)を執筆。旧友「井上留吉」という架空の人物を登場させるなど、完全な自伝とは言いがたい作品であったが、観劇・読書・旅行・食べ歩きを楽しんだ青春時代の思い出を戦前の兜町を舞台として描いたこの作品は読者からつよい支持を受け、戦前の東京を実体験に基づきながらふりかえる正太郎の随筆は以後の作家活動において重要な位置を占めることとなる。翌1969年にはNETテレビで『鬼平犯科帳』が連続ドラマ化され、さらに1971年には同シリーズ中『狐火』を舞台化。いずれも主演は初代松本白鸚で、特にテレビ版は時代ものの作品としてきわめて高い評価を受け、以後の評価を不動のものとした。『鬼平』の連載は「オール読物」誌上にあって相変わらず好調であり、1968年に単行本第一巻が刊行されて後、『兇剣』(69年)、『血闘』(70年)、『狐火』(71年)、『流星』(72年)と年一冊のペースで新作が世に送り出されつづけた。踝を継ぐようにして幡随院長兵衛を描いた『侠客』(「サンケイスポーツ」68年10月28日~69年9月5日)、忠臣蔵に取材した『編笠十兵衛』(「週刊新潮」69年5月31日号~70年5月16日号)、大石内蔵助を主人公とした『おれの足音』(「東京新聞」ほか70年3月20日~46年6月17日)など江戸の市井を舞台とした力作の長編が発表され、作風には円滑洒脱の味が増してきた。
[編集] 剣客商売・仕掛人
1972年、正太郎は周到な取材と計画を基にして「小説新潮」1月号に「剣客商売」を発表する。京都の古書店でたまたま見かけた歌舞伎役者二代目中村又五郎をモデルに、孫のような少女と夫婦になって隠棲する老剣客秋山小兵衛を描き出し、朴訥誠実で世に疎い小兵衛の長男大治郎、田沼意次の娘である女剣客佐々木三冬といった人物を周囲に配して、江戸市井に起こる事件を解決してゆく同シリーズは絶大な人気によって読者に受入れられた。同年「小説現代」3月号に『おんなごろし』を発表。江戸の暗黒界において金銭によって殺人を請け負う「仕掛人」藤枝梅安を主人公とする同作は、あまりにも内容が暗いと考えていた作者の予想を裏切り、読者のひろい人気を集めた。同誌6月号に第二作『殺しの四人』が掲載されると評判はいよいよ高まり、この作品は年末に小説現代読者賞を受賞。正太郎の創案にかかる仕掛人という言葉は一躍流行語となり、NETテレビで『必殺仕掛人』として連続ドラマ化された。すなわち『鬼平』『剣客商売』『仕掛人』のいわゆる三大シリーズのすべてがついに出揃ったのである。翌1973年には『鬼平犯科帳』を「オール讀物」1月号~12月号に、『剣客商売』を「小説新潮」1月号~12月号に、『必殺仕掛人』を『小説現代』2、7、9、10月号に同時並行で連載する状態に至った。その一方で『雲霧仁左衛門』(「週刊新潮」72年8月26日号~74年4月4日号)、『剣の天地』(「東京タイムズ」ほか73年5月15日~74年3月30日)といった小説作品や、随筆『食事の情景』(「週刊朝日」72年1月7日号~73年7月27日号)なども旺盛に執筆され、正太郎の作家活動はこの前後に絶頂期を迎えた。73年には「池波正太郎自選傑作集」全五巻を立風書房から刊行。仕掛人ものの『春雪仕掛針』がふたたび小説現代読者賞を受賞し、四月から『剣客商売』がテレビドラマ化、『必殺仕掛人』は映画化された。
1974年、三大シリーズの並行連載に「週刊朝日」誌上の『真田太平記』(1月4日号~80年12月15日号)が加わり、ついに翌1975年には小説の発表が「鬼平」「剣客」「梅安」「真田」の四種のみとなる。直木賞受賞作『錯乱』以来、題材としつづけてきた上田藩真田家の物語を伝奇色豊かに描いた本作は、正太郎の枯れることのない執筆意欲をあらわすものであった。74年にはこのほか『男振』(「太陽」7月号~77年年9月号)の執筆もはじまり、2月には『必殺仕掛人』が映画化、11月には『秋風三国峠』が新国劇で上演され、75年には『梅安最合傘』で三たび小説現代読者賞受賞。しかしこの多忙な時期にあっても、正太郎は初志である劇作を忘れることはなかった。ゆかりのある新国劇のほかに、少年のころから愛好する歌舞伎にも脚本を提供するようになり、1975年には原作、脚本両方を含め、『出刃打お玉』(2月歌舞伎座)、『剣客商売』(6月帝国劇場)、『必殺仕掛人』(9月明治座)『手越の平八』(11月明治座)の五つの舞台に係わり、翌1976年にはさらに『黒雲峠』(4月)、『江戸女草紙・出刃打お玉』(5月)、『侠客幡随院長兵衛』(10月)を上演。このうち『黒雲峠』と『江戸女草紙』では演出も担当した。
[編集] 三大シリーズとともに
一連の舞台のなかで正太郎にとって最大の収穫となったのは、75年の『出刃打お玉』『剣客商売』などで中村又五郎とともに仕事をし、はじめてその人柄を深く知ったことであった。それまで面識がある程度だった又五郎と親交を深めた正太郎は、その飾らない知的な人柄と国立劇場養成科での欲得を離れた講師としての活動にいたく感激し、1976年より翌年にかけて『又五郎の春秋』(「中央公論」7月号~77年6月号)を連載。高度経済成長のなかで失われゆく伝統的な生活と、曲がり角にさしかかっていた歌舞伎の行く末を論ずる長編評論となった。同年にはこのほか『散歩のとき何か食べたくなって』(「太陽」1月号~77年6月号)、『おとこの秘図』(「週刊新潮」1月号~77年5月12日号)および三大シリーズの諸篇を発表。1977年にはさらに新連載『忍びの旗』(「読売新聞」夕刊11月26日~78年8月22日)がはじまった。同年、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤根梅安」を中心とした作家活動によって、第11回吉川英治文学賞受賞。『市松小僧の女』(2月)、『真田太平記』(11月)が舞台化され、正太郎としてはめずらしくNHK「この人と語ろう」に出演し、映画『トップ・ハット』の名曲『ピコリーノ』の演奏をリクエストしたりした。またこの年の初夏、初めてフランスを中心とするヨーロッパに旅行した。
1978年、「鬼平」「剣客」のほか、『旅路』(「サンケイ新聞」5月13日~79年5月7日)の連載を開始する一方、『あいびきの女』(2月歌舞伎座)、『狐火』(11月明治座)で脚本と演出を担当。また前年の『市松小僧の女』が高い評価を受け、第3回大谷竹次郎賞を受賞。7月には『雲霧仁左衛門』が映画化された。この年、「池波正太郎短篇小説全集」全10巻・別1巻が立風書房より刊行された。翌1979年には三大シリーズの執筆に専念し、以前からの連載のほかは、『日曜日の万年筆』(「毎日新聞」2月4日~80年1月27日)、『よい匂いのする一夜』(「太陽」7月号~81年5月号)のエッセイ二作が発表されたのみであった。この年の秋にはふたたびヨーロッパに旅行。少年のころ親しんだフランス映画への思いからはじまった旅行であったが、このころには正太郎自身フランスの美しい風土につよく惹かれるようになっていた。1980年、初夏には三たびヨーロッパへ。この年も「鬼平」「剣客」のほか『味の歳時記』(「芸術新潮」1月号~12月号)を連載するなど、執筆意欲はあいかわらず旺盛であった。なお同年にはついに大作『真田太平記』が完結。82年までにすべてが単行本化した。1981年、引き続き三大シリーズの連載を抱えながら、力作『黒白』(「週刊新潮」4月23日号~82年11月4日号)を発表。さらにエッセイ『むかしの味』(「小説新潮」1月号~82年12月号)の連載のほか、書き下ろしとして『男の作法』(ごま書房)、『田園の微風』(講談社)を上梓した。このころより『田園の微風』のようにヨーロッパ旅行を基としたエッセイも多数発表され、1982年にはフランスを舞台とした小説『ドンレミイの雨』(「小説新潮」9月号)を発表するに至る。また同年には『新潮45+』に「新潮45+封切館」の連載(5月号~83年4月号)を持ち、はじめて本格的な封切映画評を行うようになった。初夏には四たびヨーロッパ旅行に赴き、三大シリーズは変わらず堅調な連載を続けた。1983年、『鬼平』『剣客』『梅安』に加え、『雲ながれゆく』(「週刊文春」1月6日号~8月18・25日合併号)、『食卓のつぶやき』(「週刊朝日」10月14日号~84年7月20日号)を発表する。
[編集] 晩年
1983年、還暦を迎えた。まだまだ壮健ではあったが、いよいよ来るべき老境を前に正太郎はこのころから生活を見直しはじめる。同時に仕事の上でも分量を抑え、他方でこれまでになかった「新しい芸を二つ三つ」(還暦の会での挨拶)見せるようになった。その一つが挿絵である。小さいころから絵を書くことが好きだった正太郎であるが、フランス旅行をきっかけに再び絵筆をとるようになり、還暦前後から自著の装幀や挿絵を盛んにこなすようになった。晩年、絵を描くことは、同じく還暦前後から凝りはじめた気学と並んで正太郎のなかできわめて大きな意味を持つようになる。
1984年には「鬼平」「剣客」のほか『乳房』(「週刊文春」1月5日号~7月26日号)を新連載。秋には五度目のヨーロッパ旅行を行う。翌1985年にはめずらしく三大シリーズを休載し、『まんぞくまんぞく』(「週刊新潮」5月30日号~11月28日号)と「秘伝の声」(「サンケイ新聞」8月19日~86年4月30日)を発表。また『池波正太郎のパレット遊び』と題して小画集を角川書店から刊行した。1985年、紫綬褒章受賞。「鬼平」「剣客」「梅安」を平行して連載。さらに『秘密』(「週刊文春」2月6日号~9月11日号)を執筆し、3月の新国劇公演で自作の『黒雲峠』と長谷川伸の原作をもとに脚色した『夜もすがら検校』の演出として参加。新国劇は翌年解散し、正太郎ゆかりの同劇団が彼の脚本で公演を行うのはこれが最後となった。1987年、三大シリーズを「剣客」一本にしぼり、「波」に『原っぱ』を連載する(1月号~88年2月号)。正太郎にとっては習作時代以来の現代もので、かつて予告していた「新しい芸」の一つであった。高度経済成長と高まりつつあったバブル景気によって変貌しつつある東京を舞台に、戦前からのなつかしい風景が失われてゆく状況を悲しみをもって描いた同作は、現代社会に対する正太郎のひそやかな警鐘でもあった。同年1月、池袋西武百貨店にて「池波正太郎展」開催。1988年、以前からの連載を別にすれば、この年はまとまった仕事として『江戸切絵図散歩』(「小説新潮」1月号~12月号)のみにとどめ、5月にフランス、9月にドイツ、フランス、イタリアへ旅行した。七度目となる9月の旅行が最後の海外旅行となった。この年12月、「大衆文学の真髄である新しいヒーローを創出し、現代の男の生き方を時代小説の中に活写、読者の圧倒的支持を得た」として第36回菊池寛賞受賞。
1989年、1月に昭和天皇が崩御し、平成と改元。正太郎も前年末から体調がきわめて悪かったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』(「週刊新潮」2月号~7月号)、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』(「小説現代」12月号~)、『鬼平犯科帳 迷路』(「オール讀物」12月号~)の連載を開始する。5月には銀座和光で個展「池波正太郎絵筆の楽しみ展」が開催された。明けて1990年、かねてから待望されていた二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調はいっこう好転する兆しが見えなかった。3月、急性白血病で三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去。六十七歳であった。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 迷路』は同年4月号分で未完中絶となる。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。法名戒名は「華文院釈正業」。浅草西光寺(真宗大谷派)に葬られる。没後、勲三等瑞宝賞受章。
1998年11月、長野県上田市に「池波正太郎真田太平記館」が開館した。
[編集] 略歴
- 『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表。江戸風の歯切れの良い文章や人情味溢れる作風が支持を得、自らが手を加えてドラマ化された作品も多い。
- 美食家・映画評論家としても著名であった。
[編集] 受賞歴
- 1955年 『太鼓』で第2回新鷹会賞奨励賞
- 1957年 『錯乱』で第43回直木賞
- 1972年 『殺しの四人』で第5回小説現代ゴールデン読者賞
- 1973年 『仕掛針』で第7回小説現代ゴールデン読者賞
- 1977年 『市松小僧の女』で第11回吉川英治文学賞・第6回大谷竹次郎賞
- 1986年 紫綬褒章
- 1988年 第36回菊池寛賞
[編集] 池波正太郎を取り上げた番組
- グルメに関してのエッセーはNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」のアンカーコーナー「味なサウンド」(朗読・司会:立子山博恒アナウンサー)として1997年ごろに放送された他、ニッポン放送とABCラジオで2006年10月7日より2007年3月と、2007年10月から放送(2007年10月からはLFのみ)の「味な歳時記 池波正太郎その世界」(朗読・パーソナリティー:栗村智アナウンサー)で取り上げられた。
[編集] 池波正太郎記念文庫
[編集] 主要作品リスト
- 『鬼平犯科帳』
- 『剣客商売』
- 『仕掛人・藤枝梅安』
- 『あほうがらす』(初版:新潮社、1985年)
- 『真田太平記(一)~(十二)』(新潮文庫、1987年~1988年、初版:朝日新聞社、1974年~1983年)
- 『散歩のとき何か食べたくなって』
- 『むかしの味』(新潮文庫、1988年、初版:新潮社、1984年)
- 『男の作法』(新潮文庫、1989年、初版:ごま書房、1981年)
- 『新 私の歳月』(講談社文庫、1992年、初版:講談社、1986年)
- 『戦国幻想曲』
- 『味と映画の歳時記』
- 『銀座日記』
- 『その男』
- 『人斬り半次郎』
- 『夜の戦士』
- 『蝶の戦記』
- 『忍びの風』
- 『忍びの女』
- 『忍者丹波大介』
- 『火の国の城』
- 『闇の狩人』
- 『雲霧仁左衛門』
- 『編笠十兵衛』
- 『真田騒動 恩田木工』(短編集:『信濃大名記』、『碁盤の首』、『錯乱』、『真田騒動』、『この父その子』所収)
[編集] 外部リンク
- 台東区立図書館(中央図書館に池波正太郎記念文庫が開設されている。)
- 池波正太郎真田太平記館(長野県上田市)
- 池波正太郎の年譜