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歌舞伎 - Wikipedia

歌舞伎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸時代の歌舞伎小屋、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版
江戸時代の歌舞伎小屋、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版

歌舞伎かぶき)は、日本独特の演劇で、伝統芸能の一つである。重要無形文化財。無形文化遺産保護条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載されており、2009年9月に予定される初の登録での世界無形遺産への登録が事実上確定している。

目次

[編集] 語源

語源カブく(「傾く」が原義)の連用形からとされる。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味が“外連(けれん)味のある演出”といわれるのは、こういった背景にも由来する。

つまり歌舞伎というのは当て字であるが、い、い、(技芸、芸人)を意味する、この芸能を表現するのに適切な文字である。ただし当初はその発生史からではなくの字が使われ、江戸時代には混用していたようであるが、明治時代以降、現在のように統一した表記になった。

[編集] 歴史

1603年北野天満宮興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされる。阿国は出雲大社巫女であったとも河原者でもあったというが、定かなことは明らかでない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。このころは舞台などでおこなわれており、歌舞伎座花道は(下手側が本花道、上手側が仮花道であることなども含め)ここから来ていると考えられる。

阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は1629年に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから1652年に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となった。そのため、歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の爛熟のなかで洗練されて完成し、独特の美の世界を形成するに至っている。

歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊り歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎はアクロバットなども見せていたとされる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊の項目も参照)。一方、後者は江戸時代の町民に向けて製作されるうちに、現代に見られるような、舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたことも演劇的発展の一因になった。つまり、幕府は舞踊主体の公演は売色などをともない、風紀上望ましくないと考えていた。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。これは現代における映画テレビドラマに相当するだけでなく、さらにはワイドショー的な好奇心を満たす視覚聴覚を動員したエンターテイメントとして形成されていった。それはいわゆる歌舞伎座、専用形式の劇場への移行と無関係ではない。引き幕によって時間を区切るという演出は物語に時の流れを自然に導入し、複雑な劇の展開を可能にした。また、客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道によって他の演劇には見られないような2次元性(奥行き)を、またセリと宙乗りにより3次元性(高さ)を獲得し、高度な演劇へと進化した。

江戸時代の中期までは、上方で創作された歌舞伎狂言の比重は大きい。それは、上方が中心であった人形浄瑠璃から移植された演目の数からもわかる。その後、文化・文政期に鶴屋南北が江戸において多くの作品を創作している。また、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、河竹黙阿弥が多数の作品を創作している。江戸時代後半から、上方と比較して、江戸の文化的発信地としての地位が向上したことがうかがえる。

このような歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれた。

また、江戸時代までは、歌舞伎は被差別階級の仕事という考えが強く、差別も根強く残っていた。

[編集] 歌舞伎狂言の演劇的要素

現在伝承されている江戸時代に創作された歌舞伎狂言の演目は、大きく分けて人形浄瑠璃(文楽)の演目を移植したものと、歌舞伎狂言として創作されたものがある。人形浄瑠璃の演目を移植したものは丸本物と呼ばれる(義太夫狂言と呼ぶ場合も多いが、これは義太夫を用いる歌舞伎の称であり、意味するところは多少異なる)本来的に歌舞伎狂言として創作されたものは、基本的に下座での音楽が演劇を演出する。

演劇的な内容としては、歴史的事実を演劇化した時代物、その当時の世界を描写した(現在なら民放のテレビドラマに相当する)世話物などに分けられる。また、世界と呼ばれる約束事があり、演目の背景となっている物語の基本的な大枠が決まっていた。例えば「太平記の世界」、「平家物語の世界」、「義経記の世界」、「曾我物の世界」、「隅田川物の世界」などがあり、登場人物やその関係などは初めて見物する観客にとってもよく知っているなかで、観客は戯作者がどのようにストーリーを展開させるかを楽しむようになった。

江戸時代には歌舞伎狂言の公演は公許制度の下にあり、多くの時代において日の出から日没までにすべてを公演するという幕府によって定められた規則の下で公演された(理由は、日没後に大衆が集まることで不穏な政治行動に発展することを幕府が恐れたためとされる)。したがって、当時創作された演目は、休憩時間や舞台転換などの幕間を考慮しても、比較的長大なものが多い。観客にとっても歌舞伎狂言を観劇することは一日がかりの行楽であった。そのなかで時代物を好む観客や世話物を好む観客など、さまざまな観客を楽しませることが、歌舞伎狂言の公演に求められた。そのためにひとつの演目で、時代物と世話物が幕間をはさんで混在するような、複雑なストーリー展開をみせるものも少なくない。なお、今日では演目のすべてを上演することは多くない。人気のある場面を抜粋して上演することをみどり狂言と呼ぶ(「よりどりみどり」から来たとされる)。全編を通して上演することを通し狂言と呼ぶ。

[編集] 歌舞伎音楽

歌舞伎には、多彩な音楽が用いられる。先述の通り「歌舞伎」はもともと、最初から劇として作られた演目、人形浄瑠璃を原作とした演目、さらには舞踊といったさまざまのジャンルの舞台を総称したものであり、各分野に適応した音楽が存在するためである。大きく分けて歌物である長唄と語り物である浄瑠璃がある。

長唄
歌舞伎の伴奏音楽として発達した音楽。舞踊劇や舞踊で演奏される(例:『勧進帳』『連獅子』など)ことが多いが、歌舞伎劇中に演奏される例(『吉田屋』など)もある。また、劇中音楽(BGM)を担当し、舞台下手脇の専用の区域(黒御簾(くろみす)と呼ばれる)で伴奏音楽や効果音を演奏する。これを黒御簾音楽もしくは下座音楽という。効果音では、太鼓を使った水辺を表す音や鉦による寺院の鐘の音など、楽器を使ってさまざまな効果を表す。
義太夫節
人形浄瑠璃は、義太夫節(浄瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目(『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など)は同様に義太夫節が演奏される。人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明を全て義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、太夫は状況の説明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を竹本(チョボ)といって区別することがある。義太夫狂言での義太夫節は主に舞台上手に専用の舞台((ゆか)という)で演奏する。
常磐津節・清元節
共に浄瑠璃の一つ。大阪で発展した義太夫節に対し、これらは江戸で発展したもので江戸浄瑠璃と呼ばれる。重厚な義太夫節に比べ軽妙洒脱な芸風が特徴で、清元節は更に繊細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。ぞれぞれ、常磐津節清元節を参照。(常磐津節『関の扉』『戻駕』、清元節『落人』『保名』など)
その他
上記の他、大薩摩節、河東節新内節などが使われる演目がある。江戸浄瑠璃の一つ富本節は江戸時代に盛んに用いられたが、近代以降衰退し現在では演奏されることは無い。

黒御簾や床以外での演奏は出囃子または出語りといい、舞台に置かれた台に座って演奏される。常磐津や清元は基本的にこの形になる。また、各流派の演奏は単独で行われる他、一つの演目で違う流派が順番に演奏を担当する演目(『京鹿子娘道成寺』…義太夫節の後長唄)や、合奏をすることもある。舞踊劇『紅葉狩』では常磐津節、長唄、義太夫節が合奏しこれを三方掛合いという。また、長唄や浄瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や単独での演奏会も行われており、単立の芸術としての側面もある。

[編集] 外題

歌舞伎の演目の題名のことを外題(げだい)という。「芸題」(げいだい)が詰まって「げだい」になったとする説もあるが、古代から中世にかけては絵巻物の外側に書かれた短い本題を「外題」、内側に書かれた詳題を「内題」といっており、これが起源だとする説もある。

外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江戸歌舞伎では名題(なだい)といっていた。こちらにも「内題」(ないだい)が詰まって「なだい」になったとする説があり、上方の「外題」と江戸の「内題」で対になることが、絵巻物起源説の根拠となっている。

外題には縁起を担いで伝統的に「割れない」奇数の字数が好まれる。このため『義経』や『四谷怪談』のようにどうやっても割れてしまう字数には、あえて「千本櫻」や「東海道」などの奇数の字を付け足して『東海道四谷怪談』や『義経千本櫻』などいった長い外題とした。しかも作者や興行主は当て字や当て読みを駆使してを競ったので、外題には凝った漢字五文字か七文字のものに長大な読みを無理に付けたものが多く、今日のわれわれから見ると字面だけでは何と読めば良いのか分らないようなものある。このため五文字以上の外題がついた演目には、より親しみやすい通称がついていることも多い。

  • 『都鳥廓白波』(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)
  • 『大塔宮曦鎧』(おおとうのみや あさひの よろい) →『身替り音頭』(みがわり おんど)
  • 『慙紅葉汗顔見勢』(はじ もみじ あせの かおみせ) →『伊達の十役』(だての じゅうやく)
  • 『刈萱桑門筑紫𨏍』(かるかや どうしん つくしの いえづと) →『刈萱同心』(かるかや どうしん)
  • 青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ) →『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)
  • 与話情浮名横櫛(よはなさけ うきなの よこぐし) →『切られ与三』(きられ よさ)
  • 蘆屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうち かがみ) →『葛の葉』(くずのは)

また歌舞伎は通し狂言として上演されることが稀で、通常は各演目の中から人気のある場面(など)のみが単独で上演されるが、その場合、外題でも通称でもその場面本来の名称でもない、全く別の通称が用いられることがある。

  • 心中天網島』「天満紙屋内」の段 →『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)
  • 国性爺合戦』二段目「獅子ヶ城楼門の場」→『楼門』(ろうもん)
  • 楼門五三桐』二段目返し「南禅寺山門の場」→『山門』(さんもん)
  • 平家女護島』二段目「鳥羽の作り道の場」 + 二段目切り「鬼界が島の場」→『俊寛』(しゅんかん)
  • 義経千本桜』四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』(よしのやま)
  • 『義経千本桜』四段目切り「河連法眼館の場」→『四ノ切』(しのきり)

なお返しとは明るいままで幕を引かずに場面が換わるところ、切りとは幕切れ前に舞台が盛り上がるところをいう。『義経千本桜』の四段目の切りは派手な演出で有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。

[編集] 歌舞伎から派生した言葉

  • 差金(さしがね)
蝶や鳥などを舞台上で表現する場合に、小道具で創り、後見(舞台上で補佐する役。黒衣のときもある)が長い棒にさして動かす。この小道具一式を差金と呼ぶ。ただし人形浄瑠璃でも人形を動かす部分に差金と呼ばれる部分がある。
歌舞伎で用いられる黒幕は、通常夜を表すための幕である。そのものに「悪」の意味はないが、「政界の黒幕」のように、「黒」から「悪」への連想から、いわゆる陰に隠れた人、のような用いられ方になったと考えられる。
  • 二枚目・三枚目(にまいめ・さんまいめ)
一座を構成する配役の番付の上で、座頭にあたる思慮分別をわきまえた貫禄のある役を演じる役者を「一枚目」、女性にもてる美男子の役どころを「二枚目」、面白おかしい役を演じる役者を「三枚目」としていたことが起源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
  • 幕切れ・大詰め・大団円(まくぎれ・おおづめ・だいだんえん)
それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、通し狂言で最終幕にさしかかる頃の盛り上がりを大詰め、すべてが丸く収まりめでたしめでたしとなることを大団円といった。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」、「物語が大団円を迎える」のように使用される。

[編集] 明治時代以降の歌舞伎

明治時代以降も相変わらず歌舞伎の人気は高かったが、知識人などからは文明国にふさわしい内容でないと批判も受けるようになった。歌舞伎界内外から革新を訴える動きも起こり、興行形態も時代とともに変わっていった。批判の内容は、筋書きが荒唐無稽で、前近代的であるとか、宙乗りや早替わりなどの、見た目には奇抜な演出(ケレンと呼ばれる)が、演劇として本来あるべき演出ではない、などであった。

このような批判を受けて、明治時代から、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が進められた。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見ともかさなり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また、新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立したことも成果といえる。

このような運動の中で創作された歌舞伎演目は、最初、河竹黙阿弥らの旧来の作者や福地桜痴ら文化人によって、歴史的事実をありのままに演じる活歴物や、西洋風の新しい風俗を描いた散切物などが作られたが成功しなかった。その後、演劇改良運動の影響下において、新歌舞伎と呼ばれる多くの作品が昭和戦前期にかけて生まれた。代表作には坪内逍遥の『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』、小山内薫の『息子』、岡本綺堂の『修善寺物語』『鳥辺山心中』、岡鬼太郎の『今様薩摩歌』、真山青果の『元禄忠臣蔵』、池田大伍の『西郷と豚姫』などがあるが、全体としては歌舞伎愛好家の支持を得られず、今日では上演される作品はあまり多くない。

また、明治の名優九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が古典の型を整備。大正期には二代目市川左團次が埋もれていた古典の復活を行い、上方では初代中村鴈治郎が和事の芸を大成するなど従来の作品の見なおしも行われた。昭和期には六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門十五代目市村羽左衛門二代目實川延若三代目中村梅玉など多くの名優が活躍し今日の歌舞伎に大きな影響を与えた。だが、太平洋戦争の激化にともない劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われ歌舞伎の興行も困難になり、空襲で劇場が焼失するなど物的人的被害も多かった。

終戦後、今度は封建的で民主主義に合わないとの理由でGHQによる規制が始まる。だが、マッカーサーの副官で親日家フォービアン・バワーズの尽力により歌舞伎は保護され、昭和22年(1947年)11月、東京劇場で東西俳優総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われ、危機を脱した。

1950年代、人々の生活に余裕が生まれ娯楽も多様化しはじめた。プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画やテレビ放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎俳優の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時期が始まった。

そのような社会の変動の中、昭和38(1962)年の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。俳優も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門二代目尾上松緑二代目中村鴈治郎十七代目中村勘三郎七代目尾上梅幸八代目松本幸四郎十三代目片岡仁左衛門十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。国内の興行もさかんとなり欧米諸国での海外公演も行われる。

戦後の全盛期をむかえた1960~1970年代には次々と新しい動きがおこる。特に明治期以降、軽視されがちであった歌舞伎本来の様式が重要であることという認識が広がった。昭和40年(1965年)に歌舞伎が重要無形文化財に総合指定され(対象は伝統歌舞伎保存会)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時的には蔑まれたケレンの要素を存分に復活させた(猿之助は、さらなる演劇形式としての歌舞伎を模索しスーパー歌舞伎と呼ばれる、より大胆な演出を強調した歌舞伎にも挑戦した)。近年では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興のプロジェクトなどが、歌舞伎本来の姿と新しい時代にふさわしい歌舞伎の姿を同時に模索する活動といえるだろう。歌舞伎の演出にも野田秀樹蜷川幸雄串田和美三谷幸喜わかぎえふら現代劇の演出家が迎えられるなど、現代劇のテイストを加えられた歌舞伎公演も行われている。

現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

[編集] 伝統歌舞伎保存会

社団法人伝統歌舞伎保存会は歌舞伎関係者のうち技能に優れたものを会員として構成されている団体。重要無形文化財の総合指定を受けている。2007年10月25日現在の現役会員数は162名。会員としては十八代目中村勘三郎十一代目市川海老蔵などが有名。

[編集] 地芝居

専門の演者による公演の他、地域住民が祭礼の奉納行事などとして江戸時代以来の伝統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを地芝居と呼び、歌舞伎と人形浄瑠璃のどちらかかが演じられる事が多い。歌舞伎では農村で行われる芝居(農村歌舞伎)や都市における曳山の上で芝居(曳山祭り)等がある。地芝居における演目の多くは専業の演者による公演と重なり、その影響が強く見られる。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展をみせている公演も存在する。

[編集] 関連項目

[編集] 関連書

[編集] 外部リンク

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