市村羽左衛門 (15代目)
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15代目市村羽左衛門(じゅうごだいめ・いちむら・うざえもん、明治7年(1874年)11月5日 - 昭和20年(1945年)5月6日)は戦前の歌舞伎を代表する名優。本名市村録太郎。屋号は橘屋。俳名は可江。二枚目や若衆役を中心とする立役として活躍し、当時の代表的な美男子として有名だった。その美貌から「花の橘屋」「いい男の羽左衛門」などと呼ばれることもある。
東京生れ。出生の事情については長らく謎のままであったが、没後里見弴の『羽左衛門伝説』によってフランス系アメリカ人ル・ジャンドル将軍と旧福井藩主松平慶永の庶子池田糸の実子であるとされて以来、これがほぼ定説になりつつある。
4歳にして14代目市村羽左衛門(後の初代坂東家橘)の養子となり、明治14年(1881年)1月、坂東竹松を名乗って初舞台。後に2代目坂東家橘と改名、明治26年(1893年)7月に10代目市村家橘を襲名。明治33年(1900年)10月に15代目市村羽左衛門を襲名。
襲名の口上は当然、9代目市川團十郎が述べる所であったが、その直前に急逝してしまう。幕内では、誰が披露の口上をするか、大騒ぎになったが、本人は至って冷静で、やはり亡くなっていた叔父5代目尾上菊五郎と、9代目市川團十郎の写真を舞台上に置き、その真ん中に羽左衛門が座って、一人で口上を述べた。
当時は襲名する本人が口上を述べることは珍しく、世間で話題を振りまいた。なお、襲名の際、配り物の扇子の中に「橘や 細い幹でも 十五代」と自作の歌をのせたといわれている。
青年期にはあまりに不器用な芸のために「棒鱈役者」とさえいわれたが、その美貌と高音の利いたさわやかな調子のよさによって大正・戦前期を代表する歌舞伎役者となった。芸域は狭く、白塗りの二枚目が中心であったために「永遠の前髪役者」といわれたが、所演の役々はいずれもきわめつけの傑作ばかりで、今なおその芸風を慕う声は多い。特に6代目尾上梅幸との名コンビが名高い。あたり役を集めた可江集がある。『与話情浮名横櫛』の切られ与三・『天紛衣上野初花』の直侍・『江戸育御祭左七』のお祭り左七などの生世話物や『源平布引瀧・実盛物語』の斎藤実盛・『本朝廿四孝・十種香』の勝頼・『義経千本桜・すし屋』のいがみの権太などの丸本物、あと助六・『勧進帳』の富樫などが主な当り役。
実際の生活ではきわめつけの艶福家で、江戸っ子らしい意気な性格の持主だったと伝えられる。また周囲の人々に対して心配りの行き届いた情の深い性格で、多くの人から慕われた。
後の名脇役3代目尾上多賀之丞が初めて羽左衛門と共演した時、若手で経験の少ない多賀之丞は緊張して「あのう。わたしは舞台でどうしたらいいのでしょうか」と尋ねた。羽左衛門は笑って「何にもしなくていいんだよ。どうせお客は俺しか見ないんだから」と答えた。
2代目市川猿之助とともに、日本人でチャップリンの「街の灯」(1931年公開)を最初に観た人間と見られている(なお、日本での「街の灯」公開は諸権利クリアに手間取り、1934年と遅れた)。羽左衛門と猿之助が得た知識を元に木村錦花が翻案、『蝙蝠の安さん』として1931年8月に新作歌舞伎として上演された。
日本舞踊家の藤間政弥との間にもうけたとされる長女が日本舞踊家の吾妻徳穂。*16代目市村羽左衛門は養子。姪にはオペラ歌手の関屋敏子がいる。
[編集] エピソード
花道の出で、照明をつけないように申し入れた。いぶかる関係者に「俺が出るだけで明るくなるンでえ。」と答えた。実際、彼の周囲は照明がなくても雰囲気が明るくなった。
70近くなって、シワが目立つからと花道の面明かり(いわばスポットライト)を止めさせたが、照明のない花道に登場した羽左衛門のまわりがぼーっと発光して、真っ暗い空間に羽左衛門の白い顔が浮かび上がる奇跡を実際に見た、と戸板康二が書いている。
欧米旅行中、パリのルーブル博物館で「ミロのビーナス」を見て「ふん。手の切れた女にゃア用はねエ。」とつぶやいた。
安藤鶴夫が頭痛をこらえて羽左衛門の芝居を見に行ったらいつの間にか頭痛が治っていた。
華やかさでは歌舞伎界一二を争う羽左衛門であったが、初代中村鴈治郎の芸風には一目置いていた。自身と全く違う性質の華やかさに「成駒屋には勝てねえ。」と認めていた。
湯田中に疎開する前夜、国民服に鉄兜をつけた羽左衛門は歌舞伎座の舞台に名残惜しそうに立ち続けていた。