大和民族
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大和民族(やまとみんぞく)は古代から日本本土(本州、四国、九州)と、その周辺離島を含む日本列島の全域に住む民族とされる。中世後期から近代にかけて、主に本州から琉球(現在の沖縄県)や蝦夷地(現在の北海道)へ移住した者の子孫も含む。
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概要
大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシア大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成したヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない)。現在では日本民族(にほんみんぞく)と表されるほうが多い。戦前は天孫民族とも称された。
近年注目されるミトコンドリアDNA研究によると、縄文人も弥生人もどちらも北東アジア(中国、シベリア、ブリアート、朝鮮半島)に類似したDNAが多く分布しており、縄文人を南方系、弥生人を北方系とする埴原和郎の説は疑問視されてはいるが、二重構造自体は肯定的な意見が強い[1][2]。
原義は古墳時代に近畿地方の有力氏族が中心となって成立したヤマト王権から来ている。民族としての同一性が、ヤマト王権による政治的統合に由来するからである。一般に、政治的統一は民族的等質性の結果ではなくむしろ原因である。
東日本と西日本の文化の差異を強調して、それぞれ別個の民族であるとする見解が民俗学者の宮本常一や歴史学者の網野善彦などから出されているが、少なくとも近代においては、東日本と西日本の住民が異民族であるという感覚はほとんど存在しないので、一般的な見解であるとは言えない。大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。
分布
主に日本列島に居住しており、日本国を形成し、日本国の大多数民族である。
日本以外には、日系人としてブラジルを始めとするラテンアメリカ諸国、アジア、ヨーロッパ、アメリカ合衆国など世界中に分布してはいるが、近隣の民族である漢民族や朝鮮民族と比べると日本国外への移住者は比較的少ない。
また、大日本帝国時代には台湾と朝鮮半島を領有し、さらにアジアや南洋の各地に進出して分布域を広げ、その地域に一定の社会基盤を築いていったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の終結した時、日本の主権が失われたため日本本土へ帰っていった。
ただし、終戦の混乱によって本人の望む望まないに関係なく、日本に帰らずその土地に残った者が存在する。彼らの中には、中国残留日本人となったり、またインドネシア独立戦争等に参加した者などがいるが、そのほとんどは現在高齢化している。
言語
上代より、日本語が話されてきた。古代に語彙面で中国語の大きな影響を受け、漢語が大量に入り込んだ。語彙ほどではないが、拗音や語頭ラ行音・語頭濁音・母音連続の許容等、音韻面で受けた影響も少なくないが、日本語については日本語の項目を参照のこと。
方言差については、東西に長い日本列島(主に本州・九州・四国と周辺離島)の地理的制約もあって、近代以前は東西に離れた者どうしでは意思疎通に困難を来すほどの差異があったが、現在では標準語の普及もあって、音韻や語彙を中心とした相違にとどまり、特に文法面では大きな差はない。
表記については、漢字が伝わる以前の独自の文字は現在まで見つかっていない。漢字流入以前に神代文字と呼ばれる文字があったとする説もあるが、学術的な根拠は存在しない。絵文字とも思われる模様が刻まれた土器が発見された事例はあるが、発掘例も少ないため、文字と呼べるだけの規則性は見受けられないとされている。
漢字の伝来語はこれを表記に用い、後に、漢字を元にした表音文字の一種である平仮名、片仮名が成立する事によって、これまで全て漢字や万葉仮名で記述されていた日本語をそのまま文章にすることが可能となり、日本文学が発生・発展した。現在では、漢字、仮名の他に企業名や単語の略称などにラテン文字が使われる機会も多い。さらに数字の表記には漢数字の他、アラビア数字を使用している。
宗教
日本の宗教も参照
古代においては在来の神祇信仰であり、その後はその発展形態である神道が信仰されるようになった。また日本仏教も同時に信仰される場合が多く、祖先崇拝などでは儒教の影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。信仰のあり方は一神教的な救済論的なものではなく、習俗的な穏やかなものであり、自らを「信者」とはみなさない場合も多い。しかし、広い意味での宗教的な感覚は、冠婚葬祭や年中行事などの場面で、他宗教とは異質な独自の信念が意識されることがある。時には、臓器移植に対する抵抗などが独特の文化であると主張されていたが、実際にはどの国でも、生命倫理上移植手術は導入時に抵抗があった。これは単なるキリスト教圏や、イスラム教圏など異文化の無知に基づく偏見である。
文化
日本の文化を参照
歴史
日本の歴史も参照
前史
日本列島では、まだユーラシア大陸と陸続きの時代に石製加工具類が発掘されており、約3万年前に人類が存在したとされる。この時代の人類には、ホモ・サピエンスやホモ・ネアンデルターレンシスが含まれる。ただし、火山を多く持つ日本列島は火山灰に覆われており、土壌が酸性であるため化石が残りにくい事からこの時代の人類の化石は未だに発見されていない。
今日では、縄文時代の人骨のDNAの調査結果で、縄文人はシベリア北部の先住民に近いことが判っている。氷河期の時代には海水面が低く、シベリア北部から、樺太、北海道、本州と繋がっていたためと思われる。縄文末期、弥生時代にも人々が海を渡って日本列島にたどり着き、日本列島に在来の人々と同化していったようである。
有史
漢字が渡来するまでの文字は現在まで見つかっていないため、日本列島に居住していた人間に関すると思われる文書による記述は、山海経に初めて登場する。大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。
支配域の拡大と停滞
330年頃までに、ヤマト王権は現在の北部九州を勢力下においていたようである。ただし、ヤマト王権は独自性を持った様々な部族の連合政権的な物だったらしく、ヤマト王権の支配域と当時の大和民族の分布域をイコールで結ぶことは必ずしも適切ではないかもしれない。
5世紀には農業生産力が上がり国力が増大し、日本書紀には、この時期に朝鮮半島に兵を送り、一時期は朝鮮半島の一部を領有した(→任那日本府説)と記されている。ただし、5世紀後半から6世紀には既に朝鮮半島での利権は縮小化し、磐井の乱でヤマト王権も朝鮮半島への興味を失うこととなり、もっぱら日本列島内で徐々に勢力を拡大していくようになる。
日本列島内には、異民族とされている九州南部の隼人(熊襲)、奥州の蝦夷などがいたが、隼人の反乱の鎮圧や征夷大将軍坂上田村麻呂の活躍等によって、隼人は8世紀に、蝦夷は12世紀に完全に服従したとされる。これによって、現在の東北地方北部から南九州までを大和民族が支配することとなった。
この間、百済滅亡によって亡命してきた百済人や、仏教の僧侶など大なり小なり大陸(ユーラシア大陸)や朝鮮半島から海を渡ってきた人々(渡来人または帰化人)もいたが、それぞれ少数であったために大和民族に統合・同化され、国内での大和民族の優位性は変わらなかった。また、新羅の賊・高麗の賊・刀伊の入寇・元寇・応永の外寇・白村江の戦いなど外国との戦争もあったが、これらも領土を取ったり取られたりしなかったので、特に大和民族の影響力を増大・減少させるものではなかった。
13世紀以降は、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代を通じて、大和民族の分布域の拡大は、北海道の渡島半島南部に定着した(渡党を参照)程度で、拡大は停滞した。だが、独特の文化が国風文化として花開き、現在まで続く日本の文化もこの流れを汲むものが多い。
海外との関わり
この状況が一時的に崩れるのは戦国時代であり、大和民族は日本人として世界各国と貿易するようになり、これまでの価値観とは全く異なるものに触れるようになる。キリスト教が伝来して信者を集め、鉄砲などの最新技術が瞬く間に全国へと普及した。
また、移民としても進出し、東南アジアではアユタヤ日本人町のように一定の基盤を持つ社会を構成した。 さらには、支倉常長などのように遠くヨーロッパにも渡った者もいたが、これら海外への拡大の動きは江戸幕府の鎖国政策によって衰退することとなる。
江戸時代
江戸時代は鎖国と呼ばれる状態にあり、外国との交流は中国(明・清)やオランダなどを除いて断絶したが、250年に亘る「泰平」を築いた。この間、社会は幕府の強大な支配に置かれたが、逆に言えば安定した社会が築かれ、経済活動が活発化して庶民が台頭、町人文化が花開いた。
元禄文化や化政文化が発展し、現在は海外でも有名な日本的な物とされる文物の多くが作られた。また、薩摩藩による琉球王国制圧が起こり、王国は事実上幕藩体制の支配下へと組み込まれた。蝦夷地(現在の北海道)での勢力も増していき、渡島半島南部は内地化し、北海道全域が大和民族の勢力下に置かれるようになった(アイヌ等を参照)。
近代国家へ
明治維新によって新時代を迎えると、それまでの鎖国を取りやめ、海外と積極的に関わる「開国」の時代に入る。近代国家として大日本帝国を形成、強大な西洋諸国に対抗する形で各国に経済的・軍事的に進出していった。また対外的にも、琉球列島や小笠原諸島、千島列島や樺太といった列島周辺の諸島の領有を確立し、現在の日本の領土をほぼ確定させた。他に、国策として海外への移民を奨励して、ブラジルやアメリカ合衆国、ペルー、カナダ、ハワイ、メキシコ、アルゼンチン、パラグアイなどに多数の移民が渡った。
日清・日露戦争や第一次世界大戦で世界の列強と渡り合い、勝利した。結果、台湾を領有、大韓帝国を併合、満州国の建国などを行い、アジア各地に急速に分布域を広げて多民族国家となり、現地の住民との、大小の衝突を起こしながらも着実に社会基盤を築いていった。
この過程で、台湾や朝鮮から日本列島への他の民族の流入もおこった。この状況は、第二次世界大戦に敗北した事によって終わりを告げる。列島周辺の主権を失ったために、各地に移住していた者の大半は、日本列島に戻ることとなった。
戦後
第二次世界大戦後は平和国家として再出発し、アメリカ合衆国の軍事的な保護の元、急激に海外文化(主にアメリカ文化)を吸収して経済発展を成し遂げた(神武景気等)。最近では日本国の国力が世界有数になったため、国策としての海外移民は行われず、集団での移民も見られなくなっている。逆に近年では、少子高齢化の影響から移民の受け入れを唱える主張も一部には出てきている。