中国残留日本人
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中国残留日本人(ちゅうごくざんりゅうにほんじん、日本の法律やメディアでは一般に中国在留邦人・—ほうじん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期のソ連軍進攻による中国東北部における混乱で、日本(いわゆる「内地」)に帰ることが出来ず中国大陸への残留を余儀なくされた日本人のことである。
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[編集] 概要
[編集] 満蒙開拓団
1931年9月18日以降の満州事変後、直ちに日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)で満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住(満蒙開拓移民)が実行され、日本は1936年の廣田内閣の計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。
[編集] ソ連の対日参戦
しかし、第二次世界大戦末期の1945年8月に日本と中立条約を結んでいたソ連が条約の一方的破棄を宣言し、8月9日、ただちに満州国への戦車による南下侵攻や空襲を開始した。これを既に予測していた関東軍はトラックや車を民間人より徴用を済ませ、列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難したが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難した。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の指示により「国境警備軍」を結成しソ連軍に対峙した。避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。
ソ連侵攻によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は中国人の妻となる他に生き延びる術はなかった(残留婦人)。
満州からの集団引き上げは1946年春から一時期の中断を含め行われた。葫蘆島などの港から100万人以上の日本人が帰国したが、国共内戦が激化したことや、その果てに中国大陸を支配した中国共産党政権と日本政府が国交を結ばなかったという背景もあり、日本政府は1953年に未帰還者留守家族等援護法を施行すると1958年には集団引揚げを打切った。1959年には未帰還者に関する特別措置法を施行し本来は残留者調査の為の「究明カード」を手に給付金を圧力にして家族に死亡宣告を迫り、残留者対策の終息を図った。彼らは一般の中国人と同じように、戦後の日本では想像も出来ない「大躍進」による大飢餓や、文化大革命等の厳しい政治運動を経験した。また日本人であることから中国で進学や就職など様々な差別を受けた(中国には档案という個人資料があり、その中に「民族」の項目がある〔中国は多民族国家のため〕。いくら中国人の名前にしても、就職進学すれば档案は就職先進学先に回され、民族の項目が「日本」となっているために、自らが日本人であることが容易にわかってしまう)。
日中国交正常化により中国の国内事情が明らかになるにつれ、中国に残留させた子供達,兄弟達の消息を確かめたいという活動が肉親の間で起こる、活動の中心となっていた山本慈昭(長岳寺住職)が書いた手紙が周恩来へ届き中国での残留孤児探しが始った。しかし文化大革命の影響や周恩来の死去、日本政府が残留孤児探しに積極的でなかったことが、問題の解決を遅らせ山本慈昭を中心とした肉親の訪中が実現したのは1980年になってからだった(この訪中によって中国国内に残留孤児が多数生存し肉親との再会を望んでいることが広く日本社会に知れ渡ることとなる)。翌年の1981年より厚生省が中心となって中国残留孤児・訪日肉親捜しが開始され、多くの残留孤児が日本を訪れ肉親を探すようになるが、肉親と再開できた者、肉親が見つからなかった者、日本への帰国を望む者、中国での生活を選ぶ者など、残留孤児となってからの歳月は残留孤児問題の抜本解決にはあまりにも長すぎたと言える。
[編集] 問題
彼らの多くは壮年を過ぎてから日本に帰国したために現在でもその約9割が日本語を習得できず、また幼い頃から現地での労働力として扱われ教育を受けなかったり、こども時代は中国人として育てられるなどもあり、殆ど日本語は身につけておらず、キャリアアップ等日本での社会適応能力に乏しいとされ、生活保護を受けている例も多い。
歴史的な経緯から孤児達は国を訴え「残留孤児は日本政府の棄民政策の犠牲であった」として損害賠償と福祉の充実を求めている。
残留孤児の総計は2700人で、うち2476人と残留婦人等3775人が日本に帰国しているが、残留孤児の中国人家族約19000人が日本の援助で来日し、更にその数倍の人間が自費帰国したことが問題とされる場合もあり(入国管理局により家族が強制送還されるなど)、元孤児が安心して暮らせる例の方が少ない。2005年の衆議院総選挙に於いて、選挙権を有しているのに日本語を解せず選挙権を行使できないのは人権侵害であるとして、中国語での公示を求める訴えを起こした。永い年月を経ても日本に順応できない元孤児たちの問題の根深さを物語っている。
また2005年9月に、中国陝西省に住む残留日本人とみられる女性が、既に同姓同名で同じ戸籍を持つ別人が日本に入国しているため、日本への帰国が認められないという椿事も起こっている。
[編集] 中国残留日本人損賠訴訟
国が早期の帰国、帰国後の自立支援を怠った、生活保護自体の受給額が少ないなどとして全国各地で訴訟が提起されている。2005年大阪地方裁判所は請求を棄却したが、2006年に神戸地方裁判所は、原告65人中61人について国の責任を認め、4億6860万円を支払うよう国に命じた。判決文では「拉致事件被害者への手厚い保護及び支援に比べて差別的である」と判断が示された。 [1]
2007年1月30日の東京訴訟では裁判所が請求を棄却したためこれに反発した原告団が2月に入り控訴している。安倍首相は請求を棄却された直後に原告団と面会し、新たな支援策の検討を指示する旨を明らかにしている。
2007年3月23日、徳島地方裁判所(阿部正幸裁判長)も原告らの請求を棄却し、原告側にとって厳しい判断が続けて示された。
[編集] 中国人の不法入国への利用
この問題を隠れ蓑にして、一時中国人が日本に不法入国していたこともあったが、現在はほとんどない。
[編集] 日本の法律などによる支援
- 改正中国在留邦人支援法:2007年11月28日帰国が遅れ国民年金に加入できないなど不都合があったが 「改正中国在留邦人支援法」が成立し、2008年1月以降特例として継続し老齢基礎年金の満額月額約68,000円(2007年現在の水準)の給付と生活支援給付などが順次施行される。