尾上松緑 (2代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
にだいめ おのえ しょうろく 二代目尾上松緑 |
|
本名 | 藤間豊 |
---|---|
生年月日 | 1913年3月28日 |
没年月日 | 1989年6月25日(満76歳没) |
出生地 | 東京 |
職業 | 歌舞伎役者 |
活動期間 | 1918年-1989年 |
家族 | 初代尾上辰之助 |
主な作品 | |
『花の生涯』 『草燃える』 |
|
二代目尾上松緑(にだいめ おのえ しょうろく、大正2年(1913年)3月28日 - 平成元年(1989年)6月25日)は昭和期の歌舞伎役者。日本舞踊藤間流四世家元藤間勘右衛門を襲った。六代目尾上菊五郎の薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代・世話を問わず立役として活躍し、また踊りの名手としても知られた。屋号は音羽屋。本名、藤間豊(ふじま ゆたか)。
[編集] 来歴・人物
1913年3月28日、名優七代目松本幸四郎の三男として東京に生れる。長兄が十一代目市川團十郎、次兄が初代松本白鸚。1918年、帝国劇場において松本豊で初舞台。1927年、父の意向により六代目菊五郎のもとへ修行に出される。以後師によって立役としての厳しい薫陶を受け、1935年音羽屋所縁の名跡二代目尾上松緑を襲名する(歌舞伎座『伽羅先代萩』荒獅子男之助ほか)。
1937年、父七代目幸四郎より譲られて、四世藤間勘右衛門襲名。藤間流の家元となる。戦中は中国戦線に出征し、終戦を挟んで、長男亨の誕生(1946年。後初代尾上辰之助)、父七代目松本幸四郎と六代目尾上菊五郎の死(1949年)など身辺多端であったが、六代目の死後ただちに菊五郎劇団を結成し、旺盛な活躍を見せるようになる。
またその芸もすぐれ、多くの受賞歴をもつ。1952年、毎日演劇賞劇団賞受賞。また『若き日の信長』の平手中務で芸術祭奨励賞。1955年、第一回テアトロン賞。1964年、第九回テアトロン賞。1965年、芸術院賞。1967年、NHK放送文化賞。1972年、重要無形文化財各個指定(人間国宝)。1973年、芸術院会員就任。1984年、文化功労者。1987年、文化勲章と数々の賞を受けた。
芸風は、立役の後継者に恵まれなかった六代目菊五郎のそれをよく受継ぎ、七代目尾上梅幸、三代目市川左団次、十七代目市村羽左衛門らとともに菊五郎劇団を支え、菊吉時代の歌舞伎を伝えることに大きな功績があった。恰幅のいい体つきと、明るく豪放磊落な仁で、『勧進帳』の弁慶『暫』鎌倉権五郎、『毛抜』の粂寺弾正のような荒事や、『義経千本桜』の権太、『髪結新三』、『加賀鳶』、『魚屋宗五郎』といった世話物、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、寺岡平右衛門、『熊谷陣屋』の熊谷直実、『『義経千本桜』の知盛、狐忠信などの時代物にも定評があった。
また踊りは同世代のなかでも抜きんでた名手で『土蜘』『茨木』『関の扉』など代表作は数多い。テレビや映画の出演も多く、NHK大河ドラマでは『花の生涯』で井伊直弼、『勝海舟』で勝小吉、『草燃える』で後白河法皇を好演して評判を取った。国立劇場開場後は積極的に埋もれた古典の復活上演を行い、歌舞伎十八番の『象引』『七つ面』『解脱』『関羽』『不動』や初代桜田治助作『御摂勧進帳』などで話題を集めた。また、『宿無團七』などの上方狂言に挑戦したり、東大寺二月堂お水取りに取材した新作舞踊『達陀(だったん)』の初演、さらには『オセロ』『シラノ・ド・ベルジュラック』などの欧米演劇で新劇俳優と共演するなど芸域の広さを見せた。
1975年、二世藤間勘斎を名のって五世家元を長男辰之助に譲ったが1987年期待をかけていたその辰之助に先立たれ、晩年は必ずしも後継者に恵まれたとは言いがたいものだった(それでも弟子には七代目尾上菊五郎や六代目尾上松助などがおり、とくに七代目菊五郎は辰之助の死から立役に転じたとされる)。辰之助の忘れ形見で孫の二代目尾上左近(現・四代目尾上松緑)の成長を気にかけながら1989年6月25日、辰之助の後を追うかのように急性肺炎のため没した。享年76。死後従三位勲一等瑞宝章追贈。