平手政秀
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 明応元年(1492年) | |||
死没 | 天文22年閏1月13日(1553年2月25日) | |||
墓所 | 政秀寺 | |||
官位 | 監物、中務丞 | |||
主君 | 織田信秀→信長 | |||
氏族 | 平手氏 | |||
父母 | 父:平手経英 | |||
兄弟 | 政秀、野口政利、季定、長成 | |||
妻 | 不詳 | |||
子 | 長政?、久秀、汎秀?(久秀の子?) |
平手 政秀(ひらて まさひで)は、戦国時代の武将。織田信秀、織田信長の2代に仕える。
[編集] 生涯
織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。
天文12年(1543年)5月、信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。
信長が誕生すると2番家老として教育係を担当し、天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌天文17年(1548年)には犬猿の仲である美濃国斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。三河の安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。
若年のうつけ者と言われた信長の奇行に手を焼きつつも根気良く諭し常々諌めてきたが、信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年(1553年)閏1月13日に自刃。享年62。
[編集] 自刃の理由
- 信長の奇行を諌めるため - 美談として有名
- 長男の平手五郎右衛門(平手久秀か)が所有する駿馬を信長が所望した時にこれを譲らなかったため、主従間で不和が起きたため
- 他の重臣との権力争いのため
- 信長の行状が改まらない事に対する責任を感じたため
- 嫡男の五郎右衛門が信長と対立していた信勝の謀反に加担したことが露見したため、長政の助命のために責任を負ったため
自刃の理由には上記の理由が挙げられるが、諸説ありはっきりとしない。
[編集] 没後
信長の行状は改まらなかったが、信長は政秀の死後に沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔った。
政秀には『信長公記』によると三人の子(五郎右衛門、監物、甚左衛門)があったとされるが、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされている。『信長公記』に挙げられている三人が誰に当てはまるかは見解が分かれている。系図の位置が不明な平手長政(孫右衛門)という人物を長男の五郎右衛門に当てはめる場合もあれば、五郎右衛門は養子として弟の政利のことであるともされる。