市川左團次 (3代目)
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3代目市川 左團次(いちかわ さだんじ、1898年(明治31年)8月26日 - 1969年(昭和44年)10月3日)は、歌舞伎役者。本名は荒川清(あらかわ きよし)、俳号は「新車」、屋号は「高島屋」。四代目市川左團次は子息。
日本橋浜町の料亭の子に生まれ、後に六代目市川門之助の養子となる。父の師である九代目市川團十郎の門人となり、1902年(明治35年)9月、歌舞伎座で四代目市川男寅の名で初舞台。1907年(明治40年)より六代目尾上菊五郎門下で舞台活動を始め、1917年(大正6年)には市村座にて三代目市川男女蔵を襲名。六代目菊五郎の薫陶を受けながら二枚目や若女形を勤めた。
戦後、1949年(昭和24年)に菊五郎が死去し、菊五郎劇団が再結成されると劇団理事となり、脇役として七代目尾上梅幸、二代目尾上松緑、十一代目市川團十郎らを支える。
1952年(昭和27年)、二代目左團次未亡人の希望もあって、名跡を受け継ぎ三代目市川左團次を襲名。5月歌舞伎座の『女鳴神』の鳴神尼がその披露狂言であった。その後、歌舞伎会の重鎮として舞台に活躍、1962年(昭和37年)日本芸術会員に選出、翌1963年(昭和38年)には日本俳優協会会長に就任、さらに翌1964年(昭和39年)に重要無形文化財(人間国宝)に選定された。1969年(昭和44年)6月国立劇場『妹背山婦女庭訓・道行』の烏帽子折求女が最後の舞台となった。
役柄は大変広く『髪結新三』の手代忠七、『籠釣瓶』の栄之丞、『本朝廿四孝・十種香』の勝頼などの二枚目役や『加賀鳶』の松蔵、『め組の喧嘩』の喜三郎などの立役、『夏祭浪花鑑』の三婦、『野崎村』の久作、『髪結新三』の家主長兵衛などの老役、『先代萩』の栄御前、『暗闇の丑松』のお米、『桐一葉』の淀君などの女形が挙げられる。
初代・二代と続いてきた左團次の芸風とは異るが、長いキャリアと教養に培われてきた技術で、戦後歌舞伎を盛りたてた名優であった。