道行旅路の花聟
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道行旅路の花聟(みちゆきたびじのはなむこ)は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の四段目(判官切腹)と五段目(山崎街道)のあいだに挿入される所作事。三升屋二三治作。曲は清元節で、清元の曲名として落人と呼ばれることもある。お軽勘平の通称も。
[編集] 概要
天保四年(1833年)河原崎座で初演された。初演時の配役は、勘平が市川團十郎 (7代目)、おかるは尾上菊五郎 (3代目)であった。
原作『仮名手本忠臣蔵』の八段目が加古川本蔵女房戸無瀬と娘小浪の嫁入り道中を描く所作事「道行旅路の花嫁」であるのに対して、判官刃傷のきっかけとなる手紙を渡してしまったお軽と、彼女と逢引していたために大事の場に居合わせなかった早野勘平が、判官の切腹、お家お取潰のさなか、家中の人々に合わせる顔もなく、お軽の実家へと落ちてゆくさまを描いたもの。歌舞伎所作事の代表的作品として知られ、お浚い会などでも一二を争う人気曲である。
[編集] 梗概
本来は花道から両人が登場するのが正しいが、現在では本舞台で浅葱幕を切って落とすと一面の菜の花、春景色。遠くに富士が見えるのを背景にお軽勘平が立っている。お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中のこしらえ(場合によっては景事であることを重んじて好みの振袖)、勘平は黒の紋付の着流しに東からげで、両人とも旅支度。場所は戸塚山中という設定である。
駆け落ちの理由を浄瑠璃がよろしく語り、勘平はしばしここで旅の疲れを休めようとお軽に言い、やがて二人は将来のことを語りあう。勘平が武士としての不心得、申しわけなさのあまり、ここで切腹して死にたいというと、お軽は短気をおこさずともかくも自分の在所までいっしょに落ちのびてくれ、あなたを亭主として充分暮しのたつようにしてみせるとかき口説く。このクドキがひとつの見せどころ、聞きどころである。
このまま腹を切ればわたしも生きておれぬ、それでは人は勘平は不義の心中をしたと言うだろうというお軽の言葉に、生きていればお詫びのかなう日もきっとこようと勘平も気をとりなおして道を急ぐことにする。折からそこへ高師直の家臣でかねてよりお軽に横恋慕をしている鷺坂伴内が手勢(花四天)を引きつれて登場し、お軽をさらってゆこうとするが、勘平の武勇にはかなうべくもない。立回りよろしくあって伴内は散々にやっつけられ、勘平はお軽を連れて意気揚々と去ってゆく。丸谷才一『忠臣蔵とは何か』によれば、この勘平、お軽、伴内の三角関係は判官、顔世、師直のもどきであり、春の王(勘平=判官)と冬の王(伴内=師直)のカーニバル的対決の構図がここにはあるという。
この演目に限り幕が舞台下手から上手に向かって引かれ(通常は逆)、これを逆幕と称する。花道ツケ際で両人を見送る判内は引かれてくる幕に押されて上手側へ逃げてゆくうちに、いつの間にか客席側へ出て幕引きになってしまうという非常にめずらしい演出があり、これはベジャールの『カブキ』にも踏襲されている。
[編集] 詞章
落人も、見るかや野辺に若草の、すすき尾花はなけれども、世を忍び路の旅衣、着つつなれにし振袖も
どこやら知れる人目をば、隠せど色香梅が花
散りてもあとの花のなか、いつか故郷(こきょう)へ帰る雁、まだ肌寒き春風に、柳の都後(あと)に見て、気も戸塚はと吉田橋、墨絵の筆に夜の富士、余所目にそれと影暗き、鳥の塒(ねぐら)をたどりくる
勘平「鎌倉を出でてやうやうと、此処は戸塚の山中、石高道で足は痛みはせぬかや
お軽「何のまあ、それよりはまだ行先が思はれて
勘平「さうであろう、昼は人目をはばかる故
お軽「幸ひここの松影で
勘平「暫しがうちの足休め
お軽「ほんにそれがよかろうわいナァ
何もわけなきうさばらし、憂きが中にも旅の空、初ほととぎす明け近く、(註。ここからおかるのクドキ)色で逢ひしも昨日今日、かたい屋敷の御奉公、あの奥様(註。顔世御前)のお使ひが、二人が塩谷の御家来で、その悪縁か白猿(註。七代目市川団十郎の俳名。初演では勘平はその団十郎がつとめた)に、よう似た顔の錦絵の
こんな縁が唐紙(からかみ)の、鴛鴦(おし)のつがひの楽しみに
泊り泊りの旅籠屋(はたごや)で、ほんの旅寝の仮枕、嬉しい仲ぢやないかいな
空定めなき花曇り、暗きこの身の繰言は
恋に心を奪はれて、お家の大事と聞いたとき、重きこの身の罪科(つみとが)と、かこち涙に目もうるむ
勘平「よくよく思へば後先の、わきまへもなくここまでは来たれども、主君の大事をよそにして、この勘平はとても生きてはゐられぬ身の上、そなたは言はば女子の事、死後の弔ひ頼むぞや、お軽さらばぢや
お軽「アレまたそのやうなこと言はしやんすか、私故にお前の不忠、それがすまぬと死なしやんしたら、私も死ぬるその時は、アレ二人心中ぢやと、誰がお前を褒めますぞえ、サここの道理を聞きわけて、一とまづ私が在所(註。おかるの生地の山崎村)へ来て下さんせ、父(とと)さんも母(かか)さんもそれは頼もしいお方、もうかうなつたが因果ぢやと諦めて、女房の言ふこともちつとは聞いてくれたがよいわいナア
(註。ここからおかるのクドキ)それそれその時のうろたへ者には誰がした、みんな私が心から、死ぬるその身を長らへて
思ひなほして親里へ、連れて夫婦が身を忍び
野暮な田舎の暮しには、機も織りそろ、賃仕事、常の女子と言はれても、取乱したる真実が
やがて届いて山崎の、ほんに私がある故に、今のお前の憂き難儀
堪忍してとばかりにて、人目なければ寄り添うて、言葉に色をや含むらん
勘平「成程聞きとどけた、それほどまでに思うてくれるそちが親切、一とまづ立ちこえ、時節を待つてお詫びせん
お軽「そんなら聞きとどけてくださんすか
勘平「サ仕度しやれ
お軽「アイ
身ごしらへするその所へ
伴内「見付けたオお軽もゐるな、ヤア勘平、うぬが主人の塩谷判官高貞と、おらが旦那の師直公と 、何か殿中で、ベッちやくちやくつちやくちやと話しあひするその中に、ちいちや刀をちよいと抜いて、ちよいと切つた科によつて、屋敷は閉門、網乗物にてエッサッサエッサッサエッサエッサッサと、ぼつけえしてしまうた、サアコレ烏鶉、お鴨をこつちへ鳩鷺葭切ひわだ雁だと孔雀が最後とつ捕めえちやひつ捕めえちや、やりやあしねえが、返答は、サァサァサッササ勘平返事は丹頂(註。以上は鷺坂にかけた鳥尽しの文句で本来は「サアコレ勘平、お軽をこつちへ渡せばよし、いやだ何だとぬかすが最後……、サァサァサッササ勘平返事は何と」である。このほかにも役者の趣向でさまざまな尽しものがある)
丹頂と呼ばはッたり、勘平フッと吹きいだし
勘平「よい所へ鷺坂伴内、おのれ一羽で食ひたらねど、勘平が腕の細ねぶか料理塩梅喰うて見よェ
大手をひろげて立つたりける
伴内「エエ七面鳥なもちで捕れ(註。同じく「エエ七面倒なからめ取れ」。「もち」は鳥もち)
四天「ドッコイ
桜々といふ名に惚れて、どつこいやらぬはそりや何故に、所詮お手には入らぬが花よ、そりやこそ見たばかり、それでは色にはならぬぞえ、桃か桃かと色香に惚れて、どつこいやらぬはそりや何故に、所詮ままにはならぬが風よ、そりやこそ他愛ない、それでは色にはならぬぞえ
勘平「サかうなつたらこつちのもの
耳から切ろか、鼻からそごうか、エエモ一層のことに
お軽「アモシそいつ殺さばお詫びの邪魔、もうよいわいナァ
伴内「へヽもうよいわいナァ
口のへらない鷺坂は、腰を抱えてこそこそと、命からがら逃げてゆく
勘平「彼奴を殺さば不忠の上に重なる罪科、最早明け方
お軽「アレ山の端の
勘平「東がしらむ
お軽「横雲に
塒(ねぐら)を離れ鳴く烏、可愛い可愛いの夫婦(めおと)づれ、先は急げど心は後(あと)へ、お家の安否如何ぞと、案じゆくこそ道理なれ