實川延若 (2代目)
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二代目 實川延若(にだいめ じつかわ えんじゃく、1877年 (明治10年) 12月11日 - 1951年(昭和26年)2月22日)は、大阪府の歌舞伎役者。本名、天星庄右衛門。俳名、正鴈。屋号、河内屋。
[編集] 略歴
初代實川延若の長男として大阪に生まれる。8歳で父と死別。明治19年(1886年)実川延二郎の名で初舞台。十一代目片岡仁左衛門らの引きたてもあったが、ほとんど独力で歌舞伎役者としての実績を積み、大正4年(1915年)浪花座の『桜鍔恨鮫鞘』の古手屋八郎兵衛で二代目実川延若を襲名。松竹の初代中村鴈治郎重視の経営方針に合わず、一時東京に行き、二代目市川左團次一座に加わるときもあった。鴈治郎死後、三代目中村梅玉・初代中村魁車とともに戦前期の上方歌舞伎をリードする。
戦後は脚が不自由になるも芸格は高まった。昭和25年(1950年)5月に東京劇場で演じた『山門』の石川五右衛門は歌舞伎史上に残る名舞台で、映画に記録された。当時すでに歩くことも困難な状態で、両脇を支えてもらいながら関係者に挨拶するほどだだったが、いざ金爛褞袍に大百日鬘で南禅寺山門上に立つと別人のように背筋がしゃきっと伸びたという。
同年日本芸術院会員になる。翌昭和26年(1951年)1月大阪歌舞伎座の『八陣守護城』で佐藤正清役。1月23日、松竹会長白井松次郎の葬儀に参列して風邪を引き病の床につく。2月22日死去。「最後の上方役者」と呼ばれた延若の死は一つの時代の終わりでもあった。
役の幅は広く、『仮名手本忠臣蔵』の寺岡平右衛門、高師直、勘平、由良之助、戸無瀬、与市兵衛、定九郎を演じた記録があり、前述の五右衛門のほか、『雁のたより』の三二五郎七、『積情雪乳貰』の狩野四郎五郎、『封印切』の忠兵衛、『時雨の炬燵』の治兵衛、『いろは新助』の新助など父譲りの和事、『夏祭』の團七、『義経千本桜すしや』の権太、『本朝廿四孝』の横蔵、『盛綱陣屋』の佐々木盛綱、『敵討襤褸錦・大晏寺堤』の春藤次郎右衛門、『神霊矢口渡』の頓兵衛などの丸本物、世話物では『乳房榎』の菱川重信・正介・三次の三役早変わり、『樟紀流花見幕張』の丸橋忠弥、女形では『西郷と豚姫』の仲居お玉などが当り役だった。類い稀な演技力もさることながら、立派な押し出しと色気の有る目元が、えも言われないエロチシズムを産み出し、「油壷からでたような」という評が与えられていた。
色気の有る芸については、延二郎時代、初めて東京の舞台に立ったときに「上味醂で煮上げたような」と評されている。また、六代目中村歌右衛門が若い頃、大阪中座で『仮名手本忠臣蔵』の顔世御前で共演したとき、「…後から顔世の肩を抱いて、いかがでござる。(略)と耳許にささやきながら肩を揺する。だんだん力がこもってきて、ギュ―ッと抱きすくめられると、何だかクラクラしてきて、ゾクゾクと気が遠くなりそうで、思わず目をつむってしまったものですよ。まことに立派で色っぽかった」(関容子『芸づくし忠心蔵』より)と証言している。彼を贔屓にした国文学者折口信夫は「…まことにとろけるような、無言の口ぜつ、怨嗟の流れ、それほど美しく歌舞妓の世界に取り上げられ、弄ばれ、洗い上げられ、身につまされる力を持ってきたながし目の響きである。この目の芸を、この後誰が伝えてくれるだろうか」(『実川延若讃』より)と書いている。
艶福家として有名で、長男の三代目實川延若は「その数は一千人もあり、ほとんどが私が知っているおばさんだった」と述懐している。また十三代目片岡仁左衛門は「楽屋に行っても華やかで、いつも若い女性がそばにいられるし……そしてまた話術のうまいこと」(『仁左衛門楽我記』)と、延若の人間的魅力を特筆している。