三木おろし
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三木おろし(みきおろし)とは、1975年から1976年にかけ起こった、三木武夫内閣総理大臣の退陣を狙った自由民主党内の倒閣運動である。
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[編集] 経緯
1976年8月19日、反主流6派(田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派)が中心となって自民党議員277人で挙党体制確立協議会(挙党協)を結成し、代表世話人に船田中元衆議院議長が就任、挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。挙党協は反三木では一致していたが、三木退陣後の構想については福田赳夫と大平正芳のどちらが次期首相になるかで絞りきれていないもろさが存在していた。
三木首相は1976年9月10日、臨時国会召集を決める閣議で衆議院解散で対抗しようとする。一方、挙党協に参加している15名の閣僚は、解散の文書に署名しないことで対抗する。三木首相は解散に反対する閣僚15名を罷免してまでして、解散権を行使することも考えていた。結局、三木首相は閣僚を罷免してまで解散権を行使せず、結局、執行部は9月15日に内閣改造で一旦は決着を付けた。
その後、三木は解散権を行使できないまま、日本国憲法では初の任期満了による総選挙となった。挙党協議員は自民党公認を受けたものの、挙党協は党本部と別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相を見せた。総選挙で自民党は過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、それでも改選前8議席減の惨敗であった)、三木内閣は責任を取って退陣した。
その後、福田赳夫と大平正芳はポスト三木を福田とする大福密約を締結、大角両派と福田派がポスト三木の総理総裁に福田赳夫で一致し、挙党協の総裁推薦候補を福田とする。福田は総理総裁に就任し、福田内閣が発足した。
なお、この抗争中である9月6日にベレンコ中尉亡命事件が勃発したが、政府が三木おろしで忙しくてそれどころではなかったので対処に不都合が生じたという。
[編集] 1976年9月10日閣議における15閣僚の対応
役職 | 氏名 | 派閥 | 解散 賛否 |
---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 三木武夫 | 三木派 | 賛成 |
副総理 経済企画庁長官 |
福田赳夫 | 福田派 | 反対 |
法務大臣 | 稲葉修 | 中曽根派 | 賛成 |
外務大臣 | 宮沢喜一 | 大平派 | 反対 |
大蔵大臣 | 大平正芳 | 大平派 | 反対 |
文部大臣 | 永井道雄 | 非議員 | 賛成 |
厚生大臣 | 田中正巳 | 福田派 | 反対 |
農林大臣 | 安倍晋太郎 | 福田派 | 反対 |
通商産業大臣 | 河本敏夫 | 三木派 | 賛成 |
運輸大臣 | 木村睦男 | 田中派 | 反対 |
郵政大臣 | 村上勇 | 水田派 | 反対 |
労働大臣 | 長谷川峻 | 旧石井派 | |
建設大臣 | 竹下登 | 田中派 | 反対 |
自治大臣 国家公安委員会委員長 北海道開発庁長官 |
福田一 | 船田派 | 反対 |
内閣官房長官 | 井出一太郎 | 三木派 | 賛成 |
総理府総務長官 沖縄開発庁長官 |
植木光教 | 大平派 | 反対 |
行政管理庁長官 | 松沢雄蔵 | 椎名派 | 反対 |
防衛庁長官 | 坂田道太 | 旧石井派 | |
科学技術庁長官 | 佐々木義武 | 大平派 | 反対 |
環境庁長官 | 小沢辰男 | 田中派 | 反対 |
国土庁長官 | 金丸信 | 田中派 |
[編集] その他
- ロッキード解明を掲げて閣僚罷免してでも衆議院解散を断行していれば、三木内閣は存続できたとする意見もある。しかし、三木自身は後年において閣僚罷免してまで衆議院を解散することは、「議会の子」と呼ばれていたこともあり憲政に反するとして、行わなくてよかったと述懐している。
- 三木武夫の秘蔵っ子だった海部俊樹は官房副長官として党内反対勢力に対する解散構想と解散断念を目の当たりにした。15年後の1991年に海部は首相として、15年前の三木と同じく党内反対勢力に対する解散構想をする政局になるも、結局解散権を行使できず、退陣となった(海部おろし)。
- 29年後の2005年、小泉純一郎は首相として党内の反対勢力を一掃するため、衆議院解散の行使を決断。解散詔書の閣議決定に署名しない閣僚1人を罷免してまで解散を断行した(郵政解散)。なお、小泉は三木おろし時は一回生議員であり、解散をする際、大勝負で解散できなかった三木に触れている。