YKK (政治同盟)
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YKK(ワイケーケー)は、自由民主党に所属する衆議院議員3名(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)による盟友関係。 この名前はローマ字表記した際の3人の頭文字 (Yamasaki, Katô, Koizumi) に由来する。
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[編集] 沿革
1991年、自民党で実権を握っていた竹下派(経世会)に対抗する勢力として、加藤が同期のグループをつくろうと山崎と小泉に呼びかけたのが始まり。
この三人は1972年初当選の同期組であり、一回生の頃、国会での議席が隣り合っていたため、仲が良かったと同時に宿命のライバル(山崎の師は中曽根康弘、加藤の師は大平正芳、小泉の師は福田赳夫)でもあった。
一時期中村喜四郎を加えNYKKと呼ばれた事があったが、1994年に中村が斡旋収賄罪で逮捕され、外された。同年3人が中心となって政策集団「グループ・新世紀」を旗揚げ、ここを3人の足場とし、1995年5月にYKKと船田元(当時新進党所属)らが、保・保連合を模索する「首相公選制と首相の資質を考える会」を結成した。
橋本龍太郎内閣を支えていた頃は森喜朗を含めてMYKK、またはYKKに近い存在だった高村正彦を加えてMY3Kと称されることもあった。各派内のホープだった3人が、実際に派閥の長や幹部などに就任したことで、YKKを牽制する動きも多数出始めた。
1990年代、自民党内の政治力学に大きな影響力を与えた存在のひとつであった。YKKは基本的に一貫して財政再建を唱えた。
2007年2月、小泉の後継である安倍内閣に批判的なスタンスを取る山崎・加藤(KYコンビ)に、古賀誠を加えた新YKKの会合が報道された。3月には二階俊博を交えて会合し、NYKKとも言われた。加藤は新YKKを「外交非主流派」であると説明している。また、2008年3月には山崎、加藤が亀井静香元建設相、菅直人元厚相と都内で会談し、3KYと称された。
[編集] 反経世会
それぞれの経世会との距離は時代ごとに多少変化してはいるが、反経世会ムードが高まる度にYKKの動向がクローズアップされた。また、経世会から飛び出した当時の羽田派とも敵対していた。
3人とも、主流派に身を置く前には首相公選制を主張していた。
[編集] 加藤の乱前後
YKKの人間関係の軸はあくまでも加藤・山崎であり、二人のつながりは初当選以来深い。
加藤の乱以前は、橋本政権下で加藤が自民党幹事長、山崎が自民党政務調査会長に就任して、名実共に総裁候補として名乗りを上げ、YKKで首相に近いのはこの2人との認識が大勢を占めていた。1998年には加藤が派閥会長に就任、翌1999年には山崎が独自の派閥を立ち上げ、同年、二人揃って小渕恵三に対抗すべく自民党総裁選に出馬し、「ポスト小渕」の筆頭格に躍り出た。 一方、小泉は1995年、1998年の二度に亘って総裁選に出馬しているが、いずれも所属派閥の三塚派の意向による負け戦で、勝敗は度外視したものであった。また、同一派閥には兄貴分の森がいたことから、当時、小泉が総理・総裁候補と目される論評はあまり見受けられなかった。
加藤の乱を境に、徐々に小泉と加藤が疎遠になり、小泉が総裁就任後は山崎と小泉の蜜月時代になった。山崎は加藤との関係は引き続き続いていた。その後、小泉と山崎が距離を置き始め、現在では加藤と山崎が共同歩調をとる姿が目立っている。
[編集] 加藤が語るYKKの始まり
- 『山崎拓今-近未来への政治宣言「2010年日本実現」-』より引用
YKKは平成2年の大晦日の晩に、ボクが山拓さんの福岡の自宅に電話して、我々も当選回数を重ねて一応大臣にもなったし、党のこと、国のことをのびのびと語り合う会を持ちたい。伊東正義、藤尾正行、奥野誠亮と、まったく思想信条の違う先輩政治家たちが、何ヶ月かにいっぺん嬉々として集っているではないか。うらやましいね。ボクらもやろうよ、と紅白歌合戦のテレビの音が聞こえる中で言い合ったのが最初なんですよ。もうひとり、誰にするというから、小泉純一郎はどうだ、と言ったら、あれは変わり者でエキセントリックでねえ、と言う。いや待て待て、ああいうタイプがメディアにもてはやされる時代が来るぞ、と。(笑い)そうかもしれんなあ、ということで始まって、もうすぐ10周年です。かつて、大福関係、安竹関係というのがあったけど、よく見ると最高で3年続いた程度のものなんです。だから、10年の間には政局的には互いに対立することもいっぱいあったが、続いているのは、自分にとっても誇りだと思っている。
[編集] 加藤と小泉
2000年11月21日に起こった政局、「加藤の乱」に際しては、山崎が加藤と行動を共にして不信任決議を欠席したが、小泉は森首相を支持して不信任案に反対票を投じた(加藤に決起の相談を持ちかけられた際、小泉は「俺ならとっくにやっている」と答える。加藤はこれを小泉の支持を得たと思い込んだ節がある)。小泉は森派の会長職に就いていたという事情があったにせよ、YKKが必ずしも一枚岩ではないことを露呈した出来事だった。加藤の乱後12月11日のパーティーでの小泉の発言「YKKは友情と打算の二重構造だ」が注目を集めた(この時、加藤・山崎は同列していたが、TVに映し出された加藤の苦難の表情も注目された)。
加藤は、小泉が2001年の総裁選に3度目の出馬をした際は小泉を支持したものの、小泉内閣には入閣しなかった(外相の要請を断ったとも一部では伝えられた)。当初は基本的に小泉支持を表明していたが、不支持とは言明しないものの、徐々に小泉政権を批判する言動が目立つようになった。
加藤は2005年1月にYKKは実質的に終焉していると述べている。加藤と小泉との間で、YKKはもうやめようという話が出た際に、終わったとコメントすれば終わるということになった旨、加藤が後日のTV番組で回想している。
[編集] 小泉と山崎
総理任期終盤は郵政解散での大勝で一気に絶大な力を持った小泉だが、総理就任直後は、世論の支持は絶大なものの党内の支持基盤が磐石ではなく、出身派閥内でも森会長を筆頭に小泉の急進的なやり方に反対・苦言を呈する者が多かった。ここで山崎が幹事長として、小泉首相に欠けていた党内人脈や・公明党とのパイプを生かし、全面的に小泉を支え続け孤軍奮闘した。政策面では竹中平蔵経済財政担当大臣に頼った小泉だが、党務・政局では唯一信頼・相談できる存在が山崎であった。党内から何度も更迭論が出る中、山崎は小泉を献身的に支え続け、小泉も山崎に信頼を置き、二人の盟友関係ぶりが一番際立った時期でもある。
しかし、内閣支持率が徐々に下がっていき、いよいよ自らの支持基盤を党内に求めなくてはならなくなった時に内閣改造(2003年9月)を迎え、ここで森、青木幹雄、古賀誠などの党内有力者や公明党から支持の見返りに、山崎、竹中のどちらか(もしくは両方)の更迭を再び決定的に突きつけられた。
ここで小泉は苦渋の決断で山崎を切った。副総裁に名前こそ昇格したものの副総裁は名誉職的意味合いが強い。衆智はこれを切ったとみなした(党運営には山崎が欠かせなかったが、当時竹中は「小泉改革」の象徴として位置づけられていたため、改革の旗を降ろさず国民支持をつなぎとめる為に、山崎の方を切ったとする見解が多い。また後任幹事長には国民的に人気の高かった安倍晋三を起用し支持率を回復させた)。
失意の中の山崎はスキャンダル騒動にもみまわれ、人事2ヵ月後の2003年の総選挙で落選してしまう。しかし、抵抗勢力への盾役、党・公明党へのパイプ、政治全般の相談役を担っていた山崎が小泉には欠かせなく、落選した山崎を民間人、非常勤の内閣総理大臣補佐官として起用する。後に当選した民主党議員がスキャンダルで辞職し、2005年に補選で議員として返り咲いた。この時、小泉は選挙区に応援に駆けつけ「私に盾を」と山崎の力が今尚必要なことを強調した。加藤も選挙に全面的協力をしている。
2人の関係がおかしくなり始めたのは、山崎派の武部勤を幹事長に起用したあたりからである。そして顕著になったのが、郵政解散後の人事であった。山崎派は森派以外で小泉内閣に一貫して全面的バックアップをしてきた唯一の派(加藤派、当時小里派は基本的には小泉内閣支持であったが、ときには内閣と距離を取ったケースもあった)であったが、解散総選挙後の人事で入閣が事実上のゼロであった(幹事長に武部が留任しているものの、この解散時には既に武部は山崎派とは疎遠に近い関係であった)。もともとこれまでの改造人事で、全面支持している割には森派に比べて人事で優遇されていないと不満があった山崎派は、選挙大勝のうえ小泉内閣最後の組閣となるこの人事に期待を寄せていた。しかし、冷遇されたため不満が爆発し、その矛先は会長である山崎にも向けられ、山崎もこの時から反小泉的行動が徐々に増えていき、総裁選が近づくにつれ二人の関係が終わったことは周知の事実となった。また、内閣改造とほぼ同時期に山崎は、日本歯科医師連盟からの献金をめぐり東京地検から任意で再聴取を受けており、このことはマスコミにも報じられる。山崎は、同事情聴取報道を首相官邸による意図的なリークと認識し、対立が決定的になったとされる。同献金事件で、検察は山崎に対する立件を行わなかったが、2005年7月27日に東京第2検察審査会は起訴相当との議決を行っている。