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河本敏夫 - Wikipedia

河本敏夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本の政治家
河本敏夫
こうもと としお
生年月日 1911年6月22日
出生地 兵庫県相生市
没年月日 2001年5月24日(満89歳没)
死没地 東京都港区
出身校 日本大学法文学部
前職 {{{前職}}}
現職 {{{現職}}}
所属政党 自由民主党
称号・勲章 正三位
勲一等旭日大綬章
相生市名誉市民
法文学士
世襲の有無 {{{世襲の有無}}}
親族(政治家) {{{親族(政治家)}}}
配偶者
サイン
公式サイト
日本の旗第16代沖縄開発庁長官
内閣 第2次中曽根内閣
選挙区
当選回数
就任日 1984年11月1日
退任日 1985年8月14日
退任理由
所属委員会 {{{所属委員会}}}
議員会館 {{{議員会館}}}
元首
日本の旗第34代経済企画庁長官
内閣 第2次中曽根内閣
選挙区
当選回数
就任日 1983年12月27日
退任日 1984年11月1日
退任理由
元首
日本の旗第32代経済企画庁長官
内閣 鈴木善幸内閣
選挙区
当選回数
就任日 1980年7月17日
退任日 1982年11月27日
退任理由
元首
日本の旗第38代通商産業大臣
内閣 福田赳夫内閣改造内閣
選挙区
当選回数
就任日 1977年11月28日
退任日 1978年12月7日
退任理由
元首
日本の旗第36代通商産業大臣
内閣 三木内閣
選挙区
当選回数
就任日 1974年12月9日
退任日 1976年12月24日
退任理由
元首
その他の職歴
日本の旗 第28代郵政大臣
(1968年11月30日 - 1970年1月14日)
日本の旗 衆議院議員
( - )
その他の職歴

河本 敏夫(こうもと としお、1911年6月22日 - 2001年5月24日)は、日本政治家実業家正三位勲一等旭日大綬章

新政策研究会(河本派)元会長、三光汽船元オーナー。「世界のタンカー王」 「日本のオナシスと呼ばれ、三光汽船を世界最大の海運会社に育て上げる。一時は株式時価総額新日本製鐵を抜き日本一になった。政界きっての政策通、経済通として知られ、「合理主義者」・「反骨の人」・「笑わん殿下」と称される。しかし、1985年に海運不況の煽りを受け、三光汽船は倒産。河本は倒産の11年前にすでに会社の経営から身を引いていたが、実質的なオーナーであったため責任を取り、沖縄開発庁長官を辞任した。

1949年衆議院議員に初当選以来、連続17回当選。この間、通産大臣郵政大臣経済企画庁長官自民党政調会長など、党、内閣の要職を歴任。三木武夫と政治行動を共にし、巨額の派閥運営資金調達を一手に引き受けていたことから三木派の大番頭と呼ばれた。

正三位勲一等旭日大綬章相生市名誉市民

目次

[編集] 実業家・政治家としての歩み

  • 1911年6月22日 兵庫県揖保郡神部村那波野町(現・相生市那波野)にて出生
  • 1928年4月 旧制姫路高等学校(戦後、神戸大学に併合)入学
  • 1929年 姫路高等学校中退
  • 1931年 日本大学法文学部入学
  • 1934年8月31日 吉田市ノ助により三光海運設立。所有船1隻
  • 1935年2月 所有船2隻に
  • 1936年 日本大学法文学部卒業、三光海運経営に参画
  • 1937年7月 三光海運社長就任。日華事変勃発
  • 1938年4月 社名を三光汽船に改称。12月にかけて4隻の新造船。
  • 1940年11月 中田造船所経営引受
  • 1941年2月 太平洋戦争開始。所有船18隻(2万1千重量トン)小型船主で日本最大。
  • 1943年9月 中田造船所を三光造船所と改称し社長就任。岡庭博三光汽船入社。
  • 1945年8月 終戦。三光汽船の戦争被害40隻(5万8千重量トン)沈没、犠牲者300人
  • 1949年1月 第24回衆議院議員総選挙にて初当選、以降連続17回当選。
  • 1955年11月 自由民主党結成
  • 1958年6月 初の政務次官就任。このころ三光汽船所有船13隻(13万7千重量トン)
  • 1960年 初の鉄鉱石専用船建造
  • 1961年7月 海運再建二法施行
  • 1964年1月 初のスーパータンカー(8万重量トン)竣工
    • 4月 海運集約体制スタート。三光汽船は不参加。
  • 1966年3月 初の大型鉱・ばら・油兼用船(9万重量トン)竣工
  • 1968年3月 売上初の100億円台乗せ。運航船腹100万重量トン突破
  • 1969年 本社機能東京に
  • 1970年4月 初のVLCC(22万重量トン)竣工
  • 1971年3月 運航船腹100隻突破、500万重量トン乗せ
  • 1972年 ジャパンライン株買占め表面化
    • 9月 ジャパンライン株の41%買占め
    • 12月 46年11月以来、3回目の第三者割当増資実施、調達資金総額762億円
    • 28日 三光汽船株価、2560円の最高値。時価総額新日本製鐵を抜いて日本一に
  • 1973年4月 ジャパンラインと和解
    • 11月 第一次石油ショック
  • 1974年3月 売上初の1000億円台乗せ、経常利益269億円で最高。
    • 運航船腹1千万重量トン突破
    • 6月 岡庭 副社長就任
    • 8万―9万重量トンの中型タンカー56隻を52年までの間に集中建造
    • 12月 三木内閣成立。通産大臣就任、三光汽船社長辞任。後任に大和銀行出身の亀山光太郎が就任
  • 1975年3月 売上2000億円突破、年16円配当
  • 1976年 ロッキード事件
  • 1977年3月 運航船腹316隻、2千5百2十万重量トンで最高
  • 1978年3月 52年度決算、81億円の赤字転落
  • 1980年3月 54年度決算、52億円の黒字浮上
  • 1981年6月 岡庭、会長就任、社長は甥の吉田寛
  • 1982年3月 56年度決算、再び赤字転落(71億円)、無配
  • 1983年3月 小型ばら積み貨物船大量建造計画発表(14隻)
    • 57年度決算、560億円の大幅赤字
    • 5月 1億株の第三者割当増資(240億円調達)
      • 小型ばら積み貨物船大量建造計画 計86隻に
    • 6月 小型ばら積み貨物船大量建造計画 計103隻に(最終的には125隻)
    • 10月 1億4千万株の第三者割当増資(322億円調達)
    • 12月 125隻の小型ばら積み貨物船大量建造計画の第一船完工
  • 1984年4月 第一次再建計画スタート。金融支援とタンカー分離が骨子
    • 5月 58年度決算も550億円の赤字、累積999億円
    • 6月 新設子会社サンコウタンカーに超大型タンカー移管
    • 11月 沖縄開発庁長官就任(第2次中曽根内閣第1次改造内閣)。運輸相に河本派の山下徳夫
      • 磯村社長、病気療養。秋篠洋一副社長が社長代行に
    • 12月 主力三行頭取、河本と非公式に会談。以下運輸相、松井事務次官とも
  • 1985年1月 山下運輸相、三光汽船幹部から非公式に事情聴取
    • 下旬 大蔵省が主力三行から事情聴取
      • 25日 三光株100円割れ
      • 大和銀行安倍川頭取、一月以降、河本と頻繁に接触
    • 2月1日 三光株63円の安値。経営危機説流布
    • 3月 第二次再建計画策定。主力三行に742億円の追加融資要請。運輸省にOBの派遣を
      • 株価130円台持ち直す
    • 4月 東海銀、追加融資拒否。長銀も同調。「金融支援」に限界
      • 下旬 安倍川大和銀頭取が酒井長銀頭取、加藤東海銀頭取と個別会談
    • 5月 河本、山下運輸相とともに主力三行に支援要請。三行は政府の海運業界救済策を要望、東海銀首脳「タンカー買上機関が必須」と強調
    • 6月3日 59年度決算は累積赤字683億円と史上最悪、債務超過スレスレ
      • 株価100円割れ
      • 28日 秋篠社長代行、社長就任。大和銀は専務を副社長に派遣。運輸相OBは入社せず
    • 7月23日 主力三行副頭取が大和銀東京本部で会合「8月以降の追加融資打ち切り」内定
      • 31日 59年度連結決算債務超過転落
    • 8月7日 運輸省、海運構造不況対策内定。タンカー買上機関は見送り
      • 8日 主力三行の「追加融資打ち切り合意」表面化。安倍川大和銀頭取、河本と会談。株式売買停止
      • 9日 株式売買再開、ストップ安の42円に暴落
      • 10日 運航不能船舶30隻に迫る
      • 12日 秋篠社長、主力三行に「明日会社更生法申請」通告。山下運輸相「更生法申請を了解」
      • 河本、沖縄開発庁長官の辞表提出
      • 13日 神戸地裁尼崎支部に会社更生法申請
      • 19日 東京地裁、保全管理人選任
  • 1996年10月 政界引退
  • 2001年5月24日 心不全のため死去

[編集] 生い立ち

1911年明治44年)、兵庫県揖保郡神部村那波野(現在の相生市那波野)で神部村の村長や小学校長をつとめた地元の名士、父・光(あきら)、母・たつの長男として生まれた。子供のころは、相生の海岸に行っては、現在の石川島播磨重工業の工場となっている造船所を眺めて船に親しんでいた。地元の神部小学校を経て竜野中学校に5番で入学。同中学は当時の兵庫県では神戸一中などと並ぶ名門校だった。成績は極めて優秀で三年になると平均95点で、級長に推された。中学4年で姫路高校文科甲類にパスし、1928年旧制姫路高校神戸大学の前身校)にトップの成績で入学する。同級生に後の神戸市長の宮崎辰雄、一級上に哲学者三木清の弟の三木繁、一級下には後の三光汽船会長の岡庭博らがいた。特別高等警察による思想取締りが厳しさを増していた時期の高校2年の秋、姫路歩兵隊の射撃演習中、昼食をとっている際に乗り込んでいき、戦争反対演説をした。当時クラスの総代をしていたので戦争反対演説者の身元はすぐにばれ同校を放校処分になった。この時に同級生の宮崎辰雄らが先頭にたって学校側に決議を突きつけたところ、その宮崎も放校処分になってしまった。その後家を飛び出し、奈良の山奥で土工をしたり、大阪で職工など1年半ほど職を転々としたが、やはり大学へ入って勉強しなければならないと考え、当時村長をしていた父のもとへかえり頭を下げて進学を頼んだが高校から全国の学校に連絡が入っていて簡単に入学できそうもないということで郷土の衆議院議員の原惣兵衛のつてで日本大学法文学部に入学する。原は河本を書生として自邸に住むことを認め、大学卒業まで親代わりとなって面倒をみた。卒業後、三光海運に入社するが、姫路高校放校処分の影響で、大学を出てからもまともに就職ができなかった。会社に入ってからの1年目は、日本海運集会所が募集した「世界海運戦とわが国トランパーの進路」という懸賞論文に応募するため、大阪・中之島の図書館に数ヶ月間通いつめ、海運の勉強に励んだ。100編近い応募の中から、河本の論文は3等に入選した。こうした経験を経て、河本は26歳の若さで三光海運の社長に就任した。1937年昭和12年)7月のことである。

[編集] 実業家として

三光汽船の前身の三光海運は、昭和9年、河本の姉の夫、つまり義兄の吉田市之助によって創立された。日本大学在学中の河本も、取締役に名を連ねていた。三光海運は、海運業というよりむしろ海運仲立業の方が中心だった。河本が社長になった前後から、会社の業務を船舶の所有、運営を中心とする海運業に切り替えることにし、一連の発展計画をうちたてた。河本が社長になったころの三光海運は、所有船はいずれも八百重量トンのボロ船二隻のみで会社は創業以来ずっと赤字続きで破産寸前だった。そこへ、社長となって1ヶ月足らず、昭和12年に、河本は姫路歩兵第三十九連隊に招集されてしまった。ところが、その時は日中戦争の勃発直後で、員数も十分計算しないで召集した面もあり、1ヶ月後に除隊になった。そこで念願の新造船計画に着手し、資本金は10万円で払込済二万五千円にすぎなかったものを、30万円払込済にまで持っていくべく資金作りに奔走した。そのころ、保有の二隻の乗組員が各16人、陸上勤務は河本社長の他はたった3人のみである。事務所を大阪・南堀江の民家を借り、一階を事務所に改造した。とにかく社長が先頭にたっての突貫精神であった。昭和12年秋を皮切りに、昭和13年春にかけて、五隻の新建造を計画した。これが三光汽船の第一次新造船計画と呼ばれるものだった。総額で140万円である。とくにその第一号となった初代陽光丸については、26歳の社長河本が前年に自分が書いた論文をみせたりして、野村銀行(後の大和銀行)堀江支店に融資を頼んだ。その結果、堀江支店の竹村武支店長代理が、引き受けてくれた。この初代陽光丸は、昭和13年8月中旬に竣工することになった。ところが、河本は陽光丸完成を目前にして同8月1日、再び召集されたのである。河本はもう我慢しきれない気持ちで、造船所に頼み込み、まだ艤装中で足の踏み場もない船の予行運転をやってもらった。ところが、この時は身体検査の結果、軍医が「心臓が少し弱っている」と診断して、再び1週間後に除隊となった。除隊して4,5日後に陽光丸は完成する。ところで、昭和12年7月には、支那事変が起こり、事変は長期化する様相だった。中国大陸への物資輸送は、大部分が天津港から陸揚げされていた。しかし天津港の場合は、白河の50マイル上流にあり、しかも川は浅いので大型船では航行できない。そこで船型を千トン前後までとすれば直接天津港まで行くことができる。河本はここに直目した。急いで新船建造することにしたのはこのためであった。第一次新造船の五隻は、陽光丸を皮切りに13年末までに次々完成する。河本はこれらを中心に天津航路を運航した。当時、郵船、商船などの中国航路と東亜海運などを除けば、天津航路を大々的に経営するものはなく、三光汽船の船は常に荷物が超満船の状況であった。このため、他社が驚くほど利益をあげることができた。天津航路の河本の見通しは全く正しかったのである。ずっと赤字続きだった会社はおかげで昭和13年後半から黒字になった。社屋も大阪・白髪橋の事務所へ引越した。

[編集] 初当選

三光汽船株が上場された1949年(昭和24年)に河本は、政界入りした。日大入学時に世話になった恩師・原惣兵衛は、終戦後、公職を追放されていたが、河本はその地盤を引き継ぐ形で同年1月の戦後3回目の総選挙に、保守系野党の民主党候補として兵庫4区から立候補、初挑戦にしてトップ当選を果たした。37歳だった。同じ選挙で初当選した民主党議員は23人いたが、このうち森山欽司大西正男は後に河本派の幹部となった。当時は保守政党の離合集散が繰り返されていたが、1950年4月の国民民主党結成で、河本はその後の政治行動をともにする三木武夫と出会う。1952年2月には改進党が結成され、総裁重光葵、幹事長三木武夫の下で2度目の選挙戦に突入した。2位当選だった。3度目の選挙は1953年の「バカヤロー解散」。このとき、河本は次点との差がわずか267票というきわどい得票で当選した。しかも、次点で落選したのは同じ改進党の現職幹事長である清瀬一郎だった。1954年、吉田時代が終わりを告げ、総裁鳩山一郎、副総裁重光葵、幹事長岸信介という布陣で日本民主党が結成された。鳩山内閣ができると三木武夫は運輸相として入閣する。河本にとって初めての与党経験だった。1955年11月の自由党との保守合同で、自由民主党が誕生するが、河本もこれに参加した。ただ政務次官になったのは遅く、1958年の岸内閣、三木武夫経済企画庁長官の下で起用されたのが初めてだった。その後も政界での活動は地味で、もっぱら三光汽船の経営に力を注いでいた。

[編集] 初入閣

1968年佐藤栄作内閣の郵政大臣として初入閣した後、政界の玄人筋からは、三木派の資金調達役(三木派の大番頭)として知られていたが、存在が一躍注目されるようになったのは三木内閣通産大臣に就任してからである。福田赳夫内閣でも通産相、鈴木善幸中曽根康弘両内閣で経済企画庁長官などを歴任した。自民党でも1976年1978年の2度にわたって政調会長を務めた。自民党屈指の政策通、経済通として知られ、三木に批判的な立場だった大平正芳後藤田正晴からも「一角の人物」と一目置かれた。政策としては積極財政論を唱えることが多かった。

[編集] 出遅れた総裁候補

「総裁候補・河本」はスタートから2つの大きなハンディを背負っていた。第一に1978年、総裁レースに初めて挑戦した時、すでに67歳という「出遅れた総裁候補」であった。大平正芳の2歳下、ライバルの中曽根康弘の7つ上。「三角大福」の既成実力者と安倍晋太郎竹下登宮沢喜一らニューリーダーの間に位置する中二階的存在だった。したがって政治的立場は必然的に不安定になる。特に同じような立場にあった中曽根が首相の座に就いてからは、ニューリーダーの間に「中二階の総裁は2人もいらない」との思惑が強まった。第二のハンディは、党内基盤が、保守傍流の小派閥、三木派であった点である。「数の論理」が支配する政界では、決定的と言える弱点だった。それまで、三光汽船を世界最大の海運会社に育て上げることに傾注し、他の実力者のように派内に堂々と人脈を築き、領袖として浮上するコースを歩まなかった。予備選を通じてその政治力は徐々に高まったが、抜本的な打開は難しかった。

上述の通り、1978年の自民党総裁予備選挙に初めて出馬するが、大平、福田、中曽根に続く4位で敗れた。

1980年には三木派が解散されたことに伴い、その大部分を集めて河本派を旗揚げした。三木派からの禅譲という形をとらなかったのは、三木の影を排除しないと、他派からの支援が受けにくいという事情があったためである。

河本は、自民党の実力者で70年代の政界を主導した「三角大福」に次ぐ実力者に数えられ、何度も総裁候補に名前が挙がった。1982年、自民党総裁予備選挙に出馬し当初有力と見られたが、田中派の集票マシーンの支援を受けた中曽根に過半数を取られ次点となり、3・4位の安倍晋太郎・中川一郎ともども国会議員による本選挙への立候補権を辞退する。

中曽根内閣で特命大臣兼沖縄開発庁長官在任中の1985年、事実上のオーナーだった三光汽船が海運不況のあおりを受け、会社更生法(当時)を申請し、倒産。当時は戦後最大の倒産といわれ、責任を取って沖縄開発庁長官を辞任した。三光汽船の倒産は、政治家としての河本の評価にも影響を与えた。

リクルート事件などで竹下登、宇野宗佑内閣が退陣した1989年は河本にとって、政権獲得の最大の好機とされたが、党内の若手待望論を受けて、悲願だった総理総裁の座を諦め、河本派のホープ・海部俊樹を総裁に擁立し、その後ろ盾になるなど派閥領袖の地位を保ちながら次世代の育成に尽力した。

1993年の総選挙後衆議院議長候補として名前が挙がるが、自民党が下野したために実現しなかった。

1996年秋の総選挙直前、健康上の理由から47年間務めた衆議院議員を引退。当時、参議院議員だった三男の河本三郎を後継にした。その後も、旧河本派名誉会長を務めていたが、2001年平成13年)5月24日、心不全のため死去。89歳だった。7月18日に地元の兵庫県相生市民会館にて自由民主党・河本家合同葬が開かれ、葬儀委員長・小泉純一郎自民党総裁、喪主・河本三郎がつとめた。

その人となりは、寡黙で謹厳、滅多に笑顔を見せなかったことから、タイの王族ワンワイタヤーコーン・ワラワンにちなんだとされる「笑わん殿下」のあだ名で知られた。また、出生地の相生駅が姫路から近距離にもかかわらず山陽新幹線停車駅となったのは、河本の我田引鉄によるものと評されたことがある。(実際には当時の国鉄に、将来の新幹線博多延長時に「夜行新幹線」を運行させる構想が有り、単線運転しつつ単線の夜間保守をする場合の行き違い・夜間長時間停車を行う機能を併せ持つ駅として当初から設置が予定されており、河本の影響力はほとんど無かった。)

[編集] 栄典

[編集] 系譜

             佐藤栄作━━佐藤信二 
                     ┃
                    ┏和子
         渡辺扶━━敏子    ┃
               ┃    ┣安西一郎
               ┃    ┃
               ┣━━━━╋安西邦夫
               ┃    ┃
               ┃    ┣安西直久
             ┏安西浩   ┃
             ┃      ┣安西直昭
安西八郎兵衛━━安西直一━┫      ┃
             ┃      ┗安西直哉
             ┃               
                          ┃       住友吉左衛門
             ┃         ┣━━━━博子
             ┃ 西園寺八郎━━━春子   ┃                                                                  ┃              ┃                           
             ┃              ┃
             ┗安西正夫━━━━━━━━━━直之
               ┃
                          ┃                    
             ┏━満江 
   森為吉━━━森矗昶━┫                      
                      ┗━睦子
                              ┣━━━━紀世子
              三木武夫   ┃                 
                     ┃
                  ┏━高橋亘
              高橋登━┫    
                  ┗━高橋達夫
                     ┃
                   ┏━敏江
             河本敏夫━━┫
                   ┗━三郎


[編集] 関係する人物

[編集] 参考文献

  • 「河本敏夫・全人像」著者・中村慶一郎 行政問題研究所発行
  • 「座礁―ドキュメント三光汽船」編者・日本経済新聞特別取材班 日本経済新聞社発行
先代:
小林武治
郵政大臣
1968 - 1970
次代:
井出一太郎
先代:
中曽根康弘
田中龍夫
通商産業大臣
1974 - 1976
1977 - 1978
次代:
田中龍夫
江崎真澄
先代:
桜内義雄
江崎真澄
自由民主党政務調査会長
1976 - 1977
1978 - 1979
次代:
江崎真澄
安倍晋太郎
先代:
正示啓次郎
塩崎潤
経済企画庁長官
1980 - 1982
1983 - 1984
次代:
塩崎潤
金子一平
先代:
中西一郎
沖縄開発庁長官
1984 - 1985
次代:
藤本孝雄


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