日本長期信用銀行
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日本長期信用銀行(にっぽんちょうきしんようぎんこう)はかつて存在した長期信用銀行。 長銀 (ちょうぎん)の愛称で親しまれた。英名を略しLTCB(英称:Long-Term Credit Bank of Japanの略)とも呼ばれた。吉田茂内閣が打ち出した「金融機関の長短分離」政策(短期金融は普通銀行、長期金融は長期信用銀行と信託銀行に担当させる)に沿ってのもので、長期資金の安定供給を目的にしていた。また、吉田茂・池田勇人と連なる自民党宏池会との関係が深かった。
バブル崩壊後の不況で経営破綻。山一證券と並んで平成不況を代表する大手金融である。経営破綻後は一時国有化を経て、『新生銀行』に改称した。
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[編集] 沿革
[編集] 設立
1952年6月、設備資金等長期資金の安定供給を目的として長期信用銀行法が成立、同年12月に施行された。この法律に基づき、戦前から金融債を発行していたかつての特殊銀行で、長期信用銀行への転換を選ばなかった、日本勧業銀行(後の第一勧業銀行・現みずほ銀行)と北海道拓殖銀行が中心となり他の金融機関の支援も得て、1952年12月資本金7億5,000万円をもって株式会社日本長期信用銀行が設立された。
初代頭取には大蔵省出身の原邦道(日本製鉄副社長・野村証券会長等を歴任)、副頭取には濱口巌根(日本勧業銀行副頭取。後に長銀第二代頭取で濱口雄幸の次男)が就任した。
本店は千代田区九段の日銀分館に置かれた。1953年1月に大阪支店、同2月に札幌支店を開設、さらに地方銀行を代理店とする代理貸制度を創設、外国為替業務の認可も得て、業務体制を整備した。
この間、日本経済は鉄鋼・電力・石炭・海運の4重点産業への傾斜生産方式による近代化を軸に経済発展の基礎を固めたが、長銀はこの期間の設備貸出純増の50%強を4重点産業に振り向けている。収益も1954年3月期には黒字に転換、1954年9月期には配当(普通株5分)を開始し、基礎が固まった。
[編集] 高度成長からバブル経済へ
1955年からの日本経済は高度経済成長期を迎えた。特に前半の高度成長を支えたのは鉄鋼・石油化学・合繊・自動車・家電・工作機械など製造業の設備投資で、産業構造の高度化が著しく促進された。長銀の貸出額でみると、1956年3月末の貸出残高は1,039億円であったが、1962年3月末には4,059億円と4倍に増加、平均伸び率25.7%に達する急成長を遂げた。
また、代理貸制度を1958年には従来の地方銀行に加えて、相互銀行・信用金庫に拡大し、地方の長期資金供給の充実を図った。営業網は1956年9月に本店を千代田区丸ノ内の東京ビルに移転。さらに1958年12月に名古屋、1959年12月に福岡、1962年3月に仙台、1962年9月に金沢、1964年3月に高松、1966年5月に広島に、それぞれ支店を開設して、国内ブロック店舗の整備を完了した。
資金調達面では、割引金融債「ワリチョー」や、利付金融債「リッチョー」、「リッチョーワイド」といった長期信用債券を携え、債券(5年物利付金融債、1年物割引金融債)の発行残高は1956年3月末の1,078億円から1962年3月末4,171億円へと貸出同様の伸びをみせた。債券の内訳では、1956年3月末の利付債と割引債の比率10対1が、1962年3月末には3対1と割引債の比重が高まった。
貸出面では1962年以降、高度経済成長期には産業金融の分野で一定の役割を果たしたが、重厚長大産業の資金調達が間接金融から直接金融へシフトするにつれ、4重点産業と重化学工業向けの比率が低下する。こうした中、1971年~1989年まで頭取・会長を務めた杉浦敏介(1958年から取締役、1971年から1978年は頭取を務め、1989年まで会長)の下、危うくなった存立基盤を補強するため、その他製造業・不動産・流通・サービス等、新興企業に対して積極的な融資を推進し、貸出先が多様化した。特に活用されたのが「プロジェクト・ファイナンス」の手法であるが、これが後に、イ・アイ・イ・インターナショナルに対する融資推進の手法となり、長銀破綻の遠因となる。
また1973年、経営不振にあったリコー系の日本リースへの役員派遣をきっかけに同社を掌握、1983年には長銀出身の社長が誕生する。同社は長銀の別働隊として不動産融資に注力し、同じくバブル崩壊後に不良債権を築き上げることになる。杉浦の19年間の頭取・会長在任期間に行員の福利厚生が充実した反面、本部企画部門を中心とする側近政治の弊害を招いたといわれる。
[編集] 国際化と証券化の進展
金融の国際化についても、積極的に取り組み、1964年10月、ニューヨークに初の海外駐在員事務所を開設。1971年3月にロンドン、1972年9月にシドニー、1973年10月にアムステルダムにそれぞれ駐在員事務所を開設。1973年7月、初の海外支店としてロンドン支店を開設。以後、ニューヨーク・ロサンゼルス・シンガポール・シカゴ・ケイマン・パリなどに支店が設置され、アメリカ・ヨーロッパ・アジアでの拠点を確立している。
国際業務面では、外為取扱実績が拡大し、特に1972年以降は国際的なシンジケートローン、私募債引受など長期資本取引が主要な業務となり、海外市場における証券引受・販売業務を積極的に展開した。証券ネットワークについては、1979年9月、ロンドンに長銀インターナショナルを設立し、ユーロ債発行・流通市場で業務を開始した。また、その後、スイス長銀・ドイツ長銀・アジア長銀(香港)・シンガポール長銀を相次いで設立した。北米では、1988年6月、グリニッチ・キャピタル・マーケット社(コネチカット州)を買収し、米国政府証券・モーゲージ証券の引受・販売を行い、プライマリー・ディーラーとしてトップクラスの評価を得た。1983年4月には長銀経営研究所を設立している。
長期金融の専門銀行として成長してきた長銀は、金融債の発行を通して、従来から証券分野と深くかかわり、国内市場においても国内債受託業務、私募債アレンジ業務、円建て外債(サムライ債)受託業務、公共債の引受・ディーリング業務等を中心に、内外の顧客に資本市場での調達・運用サービスを提供した。1993年度において、円建て外債の受託では主受託12件をつとめ、件数・金額とも邦銀中第1位となった。また、金融制度の改革に伴い、銀行子会社を通ずる証券会社の設立が認められると、1993年7月、100%出資で長銀証券株式会社が設立された。これにより、内外証券機能が一層充実することになった。
[編集] バブル崩壊と経営悪化
1988年、当時の頭取・酒井守[1]は常務会において新たな経営計画を提示した。その内容は、これまでの少数精鋭による投資家向けの金融商品の販売などを柱とした経営戦略から大転換し、行員の大量採用によって不動産関連融資を拡大しようという内容だった。この常務会の席上、「将来の頭取候補」と呼ばれた役員の1人が強い口調で慎重論を唱えたが、あっさりと却下されたばかりか、まもなく、関連会社への出向を命じられた[2]。翌1989年4月、融資拡大を積極的に進める「第六次長期経営計画」がスタートされ、同年6月、堀江鉄弥が頭取に就任、積極的な融資攻勢を行った。反面、この「第六次長期経営計画」反対派とレッテルを張られた役員らは、出向などの形で長銀から放逐されていった。仲間意識を求める長銀の伝統が強く支配していたとされる。
こうして、バブル景気末期には、貸出残高における流通・サービス・建設・不動産、住宅金融専門会社を中心とする金融業・保険業向けのシェアが高くなっていたが、バブル崩壊後に多額の不良債権を抱え込む結果となった。中でも、杉浦が融資を後押した[3]イ・アイ・イ・インターナショナル[4]に対する債権3,800億円が焦げ付いたことは致命傷となり、多額の不良債権の償却を余儀なくされた。また同グループ関連で経営危機に陥った東京協和信用組合と安全信用組合の支援(二信組問題)のため多額の出資も行った。このため、1990年代後半より経営不安がささやかれるようになる。
1991年12月末の役員会で、堀江頭取は鈴木克治専務より「グループ全体の不良債権額が2兆4千億円を超えました」と報告を受けたが、堀江が採用した対応策は本部事業推進室が中心となり受け皿会社に不良債権を「飛ばす」事であった。堀江は頭取在任中この対応策を見直そうとせず、1994年2月には、より本格的に不良債権隠しを進めた。1995年4月、大野木克信頭取が就任し、鈴木は不良債権問題処理担当となるが、結局は「飛ばし」に代表される無意味な先送り策で、いたずらに損失を拡大させていた。
[編集] 公的資金注入と国有化
経営環境が日々悪化する中で、1998年3月、金融機能安定化措置法案に基づく金融危機管理審査委員会の決定により、1,766億円の公的資金が注入される。しかし、1998年3月期決算において大野木頭取ら経営陣は粉飾決算[5]に手を染めた。不良債権処理に約8,000億円が必要と認識しながら、実際には約6,000億円の処理にとどめ、結果、71億円を違法配当し有価証券報告書に虚偽記載をすることになる。
1998年、長銀はスイス銀行(旧SBC・現UBS)と提携し活路を見出そうとする。この時、長銀は「不良債権の抜本処理に必要な額は5,000億円」と説明していたが、スイス銀行は、その粉飾を見抜き9,200億円が必要と主張、交渉は膠着し時間だけが進展した。結局、合弁の証券子会社である長銀ウォーバーグ証券を乗っ取られ逆に市場で長銀株を空売りされるなど、この提携は局面を打開するには至らなかった。
1998年6月までに、200円前後で推移していた株価であったが、1998年6月に月刊「現代」に、経営危機に関するスクープ報道がなされると、株価は急落、以後、経営は迷走を続け長銀は当事者能力を失い、政府主導で他行による救済合併が検討された。同年7月22日には49円の額面割れ、8月11日は最安値の39円をつける。
同じく経営危機に陥っていた日本債券信用銀行との一括救済や、もともと同根である第一勧銀との合併など、連日のようにめまぐるしく違う相手による救済合併・提携が報じられる中、同年6月26日、当時大手行の中では優良な財務体質であった住友信託銀行との合併が発表された。しかし、マーケットはこの発表後に、格付会社による住信の格下げ・住信株価急落などマイナス評価が集中し、住信内に合併慎重派が台頭した。また住信首脳も長銀の不良債権の規模から救済を躊躇し始めた。
同年7月30日、小渕恵三内閣が発足し、長銀との関係が深い宏池会領袖・宮澤喜一が蔵相に就任する。小渕内閣発足当初から、長銀の経営危機は重要な経済課題であり、小渕首相自らが住信社長を首相官邸に呼び合併を説得するが、同年10月、最終的には住信からの申し出により合併は破談となった。
この破談直後から、長銀救済は与野党間の政争の具と化していた[6]が、結局は国による直接救済が検討され、1998年10月の金融国会において、金融再生法が10月12日、続く早期健全化法が10月16日に可決成立。10月23日、形式的には長銀自身の破綻申請は即日その認定がなされ、日本政府により一時国有化された。
[編集] 旧経営陣のその後
当初、1998年9月末時点での金融監督庁検査では、有価証券含み損を含めて債務超過額は3,400億円とされていた。しかし、その後の資産査定の結果、債務超過は国有化時点で2兆円を上回っていたことが判明する。その後、投入された公的資金は約7兆9,000億円、そのうち債務超過の補填分約3兆6,000億円は損失が確定。さらに、前述の瑕疵担保条項の行使で、預金保険機構を通じ国が買い取った債権も将来的には損失が予想され、最終的な国民負担額は4-5兆円に達するとされる。
1999年6月、東京地検は、粉飾決算容疑で、大野木元頭取ら旧経営陣3名を証券取引法違反容疑で逮捕した。2002年9月、一審・東京地裁は有罪判決。2005年6月、二審・東京高裁は控訴棄却、大野木被告は懲役3年・執行猶予4年、元副頭取の鈴木克治・須田正己両被告はいずれも懲役2年・執行猶予3年とした[7]。
長銀の不良債権を引き継いだ整理回収機構は、(1)1998年3月期決算などの違法配当 (2)関連ノンバンクへの不正融資 (3)リゾート開発会社への過剰融資等を理由に、元頭取の堀江鉄弥・大野木克信ら旧経営陣14名に対して計5件・総額約94億円の賠償を求めて提訴した。このうち、(2)に関して、2004年3月、一審・東京地裁は、融資の一部に「銀行の公共性に反し裁量逸脱があった」として鈴木克治元副頭取と千葉務元常務に計11億円の賠償を命じたが、控訴審にて其々2,500万円の賠償にて和解が成立した。ただし、(1)に関しては、2005年5月の一審・東京地裁、2006年11月の二審・東京高裁は共に「違法な会計処理ではない」として請求を棄却し、刑事事件の判決と判断が分かれている[8]。また、監査法人に対しても提訴を行い、結果2億円の調停がなされている。
長銀破綻後の新経営陣は内部委員会による調査を行い、1999年6月、民事責任追及に関する最終報告をまとめた。これに基づき、(1)1997年9月期中間決算及び1998年3月期決算における違法配当、(2)イ・アイ・イ・インターナショナルに対する融資、(3)日本海洋計画に対するプロジェクトに対する融資、(4)長銀主要関連ノンバンクの日本リース・日本ランディック・エヌイーディーの3社に対する支援、について長銀に損害を与えたとして、元会長・増澤高雄、元頭取・堀江鉄弥及び大野木克信を含む旧経営陣15人に対し、総額63億円の賠償を求める提訴を行った。
一方で、1999年5月に上原隆元副頭取、福田一憲大阪支店長が相次いで自殺した。2人は一連の不良債権隠し・粉飾決算を解明するキーマンと言われ、捜査当局から事情徴収を受けていた。この自殺により、他の旧経営陣の責任追及の手が緩められることになったと言われている。
なお、かつて「長銀中興の祖」「長銀のドン」と呼ばれ、「経営破綻の一番の元凶」と名指しされた杉浦敏介は、1992年の退職時に9億7,000万円を手にしているが、時効により刑事立件はなされなかった。ちなみに、歴代役員らに対する退職金の返還要求が高まる中、最後まで批判を退けていたとされるが、結局、自宅を売却し2億円を返還した。
杉浦は長銀が新生銀行として生まれ変わった6年後の2006年、94歳で没した。
[編集] 外資売却
その後、売却にあたり、中央三井信託銀行グループ他との競争入札の末、2000年3月にアメリカの企業再生ファンド・リップルウッドや外国銀行らから成る投資組合「ニューLTCBパートナーズ」(New LTCB Partners CV)に売却され、同年6月に『新生銀行』に改称した。
[編集] 沿革
- 1952年12月 - 日本長期信用銀行を設立。
- 1953年01月 - 大阪支店開設。
- 1953年03月 - 外国為替業務認可。
- 1958年12月 - 名古屋支店開設。
- 1970年04月 - 東証・大証に上場。
- 1971年03月 - 債券オンラインシステム稼働。
- 1973年07月 - ロンドン支店開設。
- 1973年11月 - アジア長銀を設立。
- 1976年09月 - 融資オンラインシステム稼働。
- 1981年11月 - リッチョーワイド発売。
- 1983年04月 - 公共債の窓口販売業務開始。長銀経営研究所設立。
- 1984年06月 - 公共債のディーリング業務開始。
- 1985年01月 - 債券総合口座発売。
- 1986年10月 - 新預金・内国為替オンラインシステム稼働。
- 1989年01月 - 新資金為替オンライン稼働。
- 1989年06月 - 金融先物取引業務開始。
- 1990年08月 - 500円額面株式1株を50円額面株式10株に分割。
- 1991年11月 - 利付金融債2年物発売。
- 1993年07月 - 長銀証券を設立。
- 1993年09月 - 千代田区内幸町に新本店ビルが完成。
- 1998年10月 - 金融機能再生緊急措置法による特別公的管理・国有化。
- 2000年03月 - 投資組合に10億円で売却。
[編集] 関連項目
[編集] 補足
- ^ ちなみに、酒井守は若狭国(福井県)の小浜藩主の家系である。
- ^ 長銀経営破綻後、「この常務会で新計画が了承されなければ、破綻を免れたかもしれない」との声は少なくないという。
- ^ 同社代表高橋治則は松浦藩末裔で濱口元首相の遠縁、すなわち高橋の母は、浜口の娘婿と従兄妹である。その濱口雄幸の次男が第二代長銀頭取の濱口巌根、その濱口巌根に引き上げられたのが、後に「長銀のドン」となる杉浦敏介という関係にあった。
- ^ 長銀が1985年に「イ・アイ・イ・インターナショナル」と取引開始をした際、同社は従業員100名弱のコンピュータ関連機器販売会社に過ぎなかった。その後、杉浦のバックアップで、イ社向け融資は雪ダルマ式に増加していく。しかしバブル崩壊で経営が悪化、1991年、経営は実質的に長銀管理となる。撤退する他の取引銀行を肩代わりすることで融資額はさらに増加し、長銀はさらに深みに入る事になる。結局、1993年7月、二信組問題が表面化することをきっかけに長銀はイ社から撤退した。
- ^ 前述の不良債権飛ばしは、当時の企業会計において連結決算が重視されていないこともあり、厳密には粉飾決算では無かった。
- ^ 長銀の救済に関して、早急な措置がとられなかったことも、長銀破綻に少なからず影響しているとの声もある。
- ^ 2006年現在、最高裁にて係争中。
- ^ 他役員については、2006年現在係争中。
[編集] 参考文献
- レクイエム 「日本型金融哲学」に殉じた銀行マンたち 柏野卓彦(NHK出版)
- 長銀が破綻に至る過程と外資に売却される過程をストーリー風に描いた作品。