小沢辰男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小沢 辰男(小澤 辰男、おざわ たつお、1916年(大正5年)12月7日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員。新潟県新潟市出身。建設大臣、厚生大臣、環境庁長官などを歴任した。父は衆議院議員の小沢国治。
新潟県立新潟中学校を経て官立新潟高等学校卒業。1941年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、内務省に入省。中曽根康弘とは東京帝大、内務省で同期。戦後、内務省が解体されると厚生省に移り、厚生省医務局整備課長を務めた後、公衆衛生局、保険局などに勤務。1959年12月から翌年5月まで新潟赤十字センター長を務め、在日朝鮮人の帰還事業において警備や帰還者の援護の統括業務を行った[1]。
厚生省を退官すると、地元の新潟硫酸取締役や新潟米油社長を務める。1960年、衆議院議員総選挙に旧新潟1区から自由民主党公認で立候補し当選する。以後当選回数13回。
自民党田中派の大幹部で、木曜クラブ事務総長などを務める。田中角栄の金庫番とも言われ、田中の最側近の一人であった。田中派には同姓の小沢一郎がいたため、二人を区別するため、小沢辰男は「本家小沢」などとも呼ばれた。田中派内では田中直系として田中の意の下に終始行動し、角栄も竹下登と後見役の金丸信を抑えるために自民党幹事長に小沢を送り込もうとしたが、これは果たせなかった。田中派分裂に際しては、竹下派、二階堂グループ双方に参加せず、無派閥となる。
1993年6月に自民党を離党し、羽田孜、小沢一郎らの結成した新生党に参加。翌1994年12月には新進党に参加するが、新進党分党後は改革クラブを結成し、代表を務めた。改革クラブは、旧公明党系の新党平和と院内会派「平和・改革」を結成し、小沢が代表となった。
2000年、第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。
自民党離党の前後に新潟国際情報大学の運営法人新潟平成学院理事長に就任している(現在は名誉職の学院長)。
[編集] 脚注
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
環境庁長官 |
---|
山中貞則 • 大石武一 • 小山長規 • 三木武夫 • 毛利松平 • 小澤辰男 • 丸茂重貞 • 石原慎太郎 • 山田久就 • 上村千一郎 • 土屋義彦 • 鯨岡兵輔 • 原文兵衛 • 梶木又三 • 上田稔 • 石本茂 • 森美秀 • 稲村利幸 • 堀内俊夫 • 青木正久 |
環境庁長官地球環境問題担当 |
山崎竜男 • 森山眞弓 • 志賀節 • 北川石松 • 愛知和男 • 中村正三郎 • 林大幹 • 広中和歌子 • 羽田孜 • 浜四津敏子 • 桜井新 • 宮下創平 • 大島理森 • 岩垂寿喜男 • 石井道子 • 大木浩 • 真鍋賢二 • 清水嘉与子 • 川口順子 |
環境大臣地球環境問題担当 |
川口順子 • 大木浩 • 鈴木俊一 • 小池百合子 • 若林正俊 • 鴨下一郎 |