野呂恭一
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野呂 恭一(のろ きょういち、1919年11月30日 - 1995年3月6日)は、日本の政治家。三重県県議、衆議院議員。三重県知事である野呂昭彦の親である。三重県飯南郡飯高町出身。
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[編集] 経歴
東京高等師範学校(のちの東京教育大学、現在の筑波大学)を出た後、1946年に野呂昭彦が誕生(野呂昭彦はその後順調に成長し、衆議院議員、松阪市長を経て、現在では三重県知事にまで出世した)。戦後、推されて三重県議会議員選挙に地元の飯南郡から出馬し当選。1959年に三重県議会議長に就任した。その後、県議を辞めて衆議院議員選挙に出馬し当選。三木武夫に私淑し、自由民主党三木派に所属した。1972年、第2次田中内閣で法務政務次官に就任。1973年、野呂昭彦を秘書にする。1979年、第2次大平内閣で厚生大臣に就任。四十日抗争に際しては、三木や海部俊樹(後の内閣総理大臣)に従い福田赳夫に一票を投じた。1980年のハプニング解散につながる内閣不信任決議案には三木らが欠席したにもかかわらず、石田博英らとともに敢然と出席し反対票を投じた。1990年、勲一等瑞宝章を受章した。
ほかに、防衛政務次官、衆議院商工委員会委員長、衆議院石炭対策特別委員会委員、自由民主党恩給制度調査会会長などの要職を歴任した。
[編集] 家族・親族
- 子-野呂昭彦(衆議院議員、松阪市長、三重県知事)
[編集] 主な著作
- 野呂恭一(1978)『恩給は倫理・共済は連帯―恩給と共済年金の改善のために』軍恩連盟全国連合会
- 野呂恭一(1972)『赤坂九丁目七番地―防衛政務次官のメモ」永田書房
[編集] 参考文献
- 喜田孜(1966)『政陣四季 野呂恭一 政治二十年』一路政治研究会
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