番付
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番付(ばんづけ)は大相撲における力士の順位表。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる(長者番付など)。格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉、三味線演奏家、遊女、落語や、講談等の寄席芸人等ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行なわれた。たとえば万年青では、現存最古として1799年刊のものが確認されている。
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[編集] 由来
もともとは、興行の場所に、板に記されて掲示されることにより、今回の興行に出場する力士の名前と序列を明らかにすることが目的であった。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたので、木版印刷の形式で番付を発行し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、行司による毛筆書きを写真製版して印刷している。江戸の相撲では、現在宝暦年間(1755年ころ)以来の印刷された番付が確認されている。日本相撲協会によれば、宝暦7年に縦一枚形式の番付が初めて発行され(宝暦11年10月場所より、それまでの「勧進相撲」を「勧進大相撲」と記す。なお大坂、京都は横番付)、2007年は発行250周年にあたるという。大坂相撲では、明治2年3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した(一時、明治4年4月場所から明治10年9月場所まで元の横二枚番付に戻る)。古番付の記録として最古のものは、元禄12年5月に京都岡崎天王社において勧進相撲が興行された時のもので、三役の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は元禄15年4月、大坂堀江勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間(1716~1735年)の頃より大坂・京都番付を多くみる。
[編集] 構成
現在の番付は、基本的に東西に二分して表記され、東方が西方より格上にみなされる。たとえば東大関は西大関より半枚上である(ただし、幕下筆頭力士の十両昇進の優先順位において、東と西は同格である。幕下付出の項を参照。)。この形式は江戸で生み出されたのもので、それ以前の大坂相撲では、東と西との二枚に分けて発行されていた。しかし、初期の江戸相撲は、参加する力士が少なかったので、一枚に収めて東西に分けることにしたために、東西の序列が必要になった。
東が西よりも格上とみなされるようになったのは、1890年に横綱免許をうけた大関初代西ノ海が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付では大関3人で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定したのはこれ以降である。
[編集] 特徴
番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。
- 対象物(力士など)を順位によって並べる。この順位は、もっとも最近の結果を反映させる。
- 大きくランクに分ける。いわゆる横綱から序ノ口までのような段階に分けてある。この区分は総合的な評価によって行なわれ、勝負結果などを単純に反映しない。紙上での表記にその差は反映され、格が上の力士ほど字が大きく、立派に描かれる。
- 全体を東西に分け、紙面上ではそれを左右に振り分け、ほぼ同格のものを対称の位置に並べる。
その面白さのために、他の分野でも同様の物が作られる。例えば古典園芸植物では、江戸時代後期より、多くの植物でそれぞれ番付が作られ、現在もあちこちで出版されている。
[編集] 大相撲の番付
「1枚違えば家来同然」「1段違えば虫けら同然」などの言葉に代表されるように、大相撲の世界で番付は絶対的なものである。番付上の地位の区別がより明確になったのは1888年1月、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年5月には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。
東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載されたのは1890年5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年7月場所のことで、陣幕久五郎が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表したのは大坂でこのときが初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、1870年3月~1872年7月)、八陣信藏(1872年7月~1874年6月)、高越山谷五郎(1873年7月~1874年6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助、秀ノ山雷五郎のものが確認されている。
近年、珍しい巡業番付が発見された。弘化・嘉永年間(1845~1854年)で、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎がお抱えの関係で雲州に留まり、その際に興行されたときの巡業番付である。驚くことに東方の欄外に、稲妻の地位の部分に「横綱」の文字が刷り込まれている。また「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。
番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、野球で言う永久欠番に近い形で廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄や準年寄は別にして)現在の数(105)に定まった時でもある。
[編集] 番付を編成する
番付は各場所後に審判部長を議長とする番付編成会議で作成される。編成会議は場所後3日以内に開くことが定められており、通常水曜日に開かれる。会議には審判部副部長、審判委員、監事が出席し、書記として行司も同席するが、発言権はない。近年は審判委員の所属部屋の力士が優遇される傾向にある。このため明らかに不自然な編成がなされる場合もある(例としては2006年11月場所の片山、2007年9月場所の千代白鵬、同11月場所の春日錦等。)。これに対し審判部は「番付は生き物」であるとの見解を示し、事実上批判を封じている。
編成された番付は、翌場所前の番付発表をもって発効する。1970年から番付発表を従来初日の8日前の土曜日に発表していたものを、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、本場所初日の13日前の月曜日発表に変更された。発表は本場所初日の13日前(月曜日)が多いが、一月場所はそれより早まる。新横綱、新大関に対しては昇進伝達式を行い、該当の力士はこれをもって横綱、大関として遇されることになる。十両昇進力士に対しても、あらかじめその旨伝えられ、相撲協会のHPでも公開されるが、これは待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮したもので、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。十両昇進力士の事前発表は1971年からはじまった。こうした例外をのぞいて、新番付の内容は正式な発表まで伏せられる。
ただし番付発表前に発売される雑誌『NHK大相撲中継』の力士一覧における幕内力士の顔ぶれは実際の番付とほぼ完全に一致している。また放送予定表では中入後企画「新三役紹介」に三役昇進力士の名が記載されており、こちらも実際の昇進力士と一致している。このことから同誌編集部は事前に番付についてある程度の情報を得ているものと思われる。
なお、地方巡業が現在のように相撲協会主導の「大合併」でなく、一門ごとに別れて行われていた時代には、一門内の最上位力士を大関とした巡業用番付も作成された。引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。
[編集] 番付を書く
番付を書くのは行司の役目である。番付の書体は相撲字という独特な字体で書かれる(根岸流)。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり、バランスをとるために〈木へん〉をかんむりのように書く(松→枩など)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや虫眼鏡が無ければ読めないほどである。現在番付を書いているのは幕内格行司木村恵之助で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫より受け継いでいる。戦後以降の番付を書いてきた行司(全て番付を書いた時の行司名)は5代式守鬼一郎、5代式守勘太夫(6代鏡山勘太夫)、10代式守与太夫、6代木村庄二郎、2代木村容堂、10代式守勘太夫。ずっと以前は番付の版元だった根岸家で書いていたが、子息の代になって相撲字が苦手で年寄名跡を返上した。木村恵之助で戦後7人目の番付書きとなる。
番付には力士名の他、年寄(現在は「理事」、「監事」、「役員待遇」、「委員(審判委員を含む)」、「主任」、「年寄」、「準年寄」に分けられる。以前は「取締」、「参与」があった。審判委員は1968年の機構改革前には「勝負検査役」と番付に書かれていた)、行司、呼出、若者頭、世話人の名も記される。番付上では、横書きで書かれる文字はすべて右から書かれている(「司行」、「事理」など)。1994年1月場所と3月場所の二場所、立行司(木村庄之助、式守伊之助)二人の名前が消えたが大相撲史上初めてであった。若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。このとき、記入スペースを確保するために、それまでの張出の制度を休止して、すべてを欄内に書くこととした。2004年3月場所より審判委員を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。
また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年以降では境川尚、時津風勝男)されることもある。
各力士の上に書かれる出身地は、江戸時代はお抱え大名の地域であることもあったが、明治以降は旧国名となり、1934年5月場所より横綱以下全力士の国別出身地が表記され、1948年5月場所より都道府県の表記となった。ただし、幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉または〈東京〉の表示でまとめられることも明治期まではよくみられた。
なお、中央に「蒙御免」(ごめんこうむる)とあるのは、江戸時代に大相撲が幕府の認可のもとで興行をおこなっていたなごり。「此外中前相撲東西ニ御座候」は、番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され、前相撲が現在も残っている。
1917年1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。
[編集] 特殊事情の場合
番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。
一番多い事例は、力士が死亡した場合である。例えば、1971年10月に急死した横綱玉の海の場合は11月場所番付で西横綱を空位にしている。ただし、残った横綱が東横綱の北の富士一人のみであったため形式上は不自然な番付にはならず、一般的には空位の事例として考えられていない。また、1990年2月に急死した龍興山の場合は1月場所が新入幕で勝ち越しており、翌3月場所が龍興山の地元である大阪での場所を自己最高位で迎える予定であったため「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という配慮により番付に四股名が残された。
2007年(平成19年)11月場所の番付で西前頭11枚目が空位となった。場所の直前(番付編成後)に時津海が引退して年寄時津風を襲名して時津風として番付に載ることとなり、番付上の重複を避けるために空位とした。これは幕内では1873年11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名したとき以来(前述のケースを除いて)で134年ぶりとなる。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたものだったが、時津海の際には空白となった。また、1976年10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれたときも、11月場所の番付では幕下以下のそれぞれの場所が空位とされた。1981年9月場所番付において、東西の正横綱(北の湖、千代の富士)が「横綱大関」を兼務、純粋な大関不在の変則番付になったことがある。(〈横綱大関〉の項目参照)
2008年3月場所番付において心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付が据え置かれることが1月26日の臨時理事会で承認され、1月30日の番付編成会議で正式決定された[1]。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことは無い[2]。この異例の判断に理事長の北の湖は「3力士とも(序ノ口力士集団暴行致死事件の)捜査に協力しているため、社会通念上決めた」と語った。[3]
[編集] エピソード
- 1900年1月場所、出羽海部屋の常陸山が新関脇に昇進以降、1959年1月場所の横綱千代の山の引退まで、出羽海部屋は約60年間138場所において番付上に役力士の四股名を欠かすことがなかった。
- 大坂相撲において1923年5月場所前、「龍神事件」と呼ばれる大紛擾が起こり、幕下以下の力士らにて興行。紛争は大もめとなり、上州山と大木戸の両大関をはじめ多数の廃業力士が出た(幕内だけで20人の廃業、のち3人が復帰)。よって同年6月場所の番付は横綱宮城山をはじめ残留力士(幕内は横綱以下、関脇、小結が各1人、平幕13人の計16人)によって番付が改訂され幕内のみ片番付で興行した。
- 1924年5月場所、先(1月)場所優勝した栃木山は西の正横綱であったが、この場所の番付は東の張出横綱となった。東の正横綱は3代西ノ海、西の正横綱は新横綱の常ノ花で、優勝した栃木山が張出となった。この場所10勝1敗で8回目の優勝、翌1925年1月場所も同地位で10勝1分で9回目の優勝を3連覇で飾ったが、番付上では最後の場所となった翌同年5月場所は西の張出横綱であった。一説には1923年の関東大震災による両国国技館焼失の際、常ノ花後援会から多額の再建資金が寄付されたことに報いるためだったともされる。栃木山をなだめるため、彼の名は他の二横綱よりこころもち太く書き出され、「別格横綱」の意味合いが与えられたが、3連覇後の突然の引退表明には、これらの処置への不満があったのではないかとも言われている。
- 大坂相撲最後の本場所となった1926年1月場所は、当時日本の領土となっていた台湾の台北市にて興行したが、番付には興行地は記載されなかった。
- 1933年1月場所の番付は前年に起きた「春秋園事件」で発足した大日本相撲連盟から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。
- 相撲界を揺るがした「春秋園事件」も1937年暮れに関西相撲協会がついに解散。それに伴い帰参した力士の番付編入は厳しい扱いだった。1938年1月場所の番付では帰参力士は脱退時の番付地位より一段下に編入。関西の入門者で幕内・十両となった者は幕下に、それ以下の者は新弟子扱いとなった。
- 1939年1月場所、日中戦争(支那事変)の激化で応召・入営力士が増え、番付にはその力士の上に「応召」・「入営」と書き加えた。1940年5月場所には応召・入営力士は番付の欄外に一括された。
- 1940年5月場所、東前頭12枚目の青葉山は7勝8敗と負け越しながら翌場所は西前頭4枚目と、落ちるどころか逆に8枚も昇進したという極端なケースがある。こういうのを俗に言う「番付運」で、当時は東西制でそうするより仕方が無かったと思われる。
- 戦後初の1945年11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。
- 1966年1月場所の番付は74年ぶりに役力士昇進がなかった。
- 1972年11月場所の番付で東前頭14枚目の福の花の四股名が行司の誤記により「福ノ花孝一」と書かれた。
- 1975年頃の番付で立行司(木村庄之助、式守伊之助)と同列に三役格行司の名前が書かれたことがあった。
- 1989年1月場所は1月7日、昭和天皇の崩御に伴い翌8日より元号が「平成(元年)」に変わった。初日開催は8日であったが中止とし翌9日に繰り下げて開催、前年(1988年)暮れに発表された番付には「昭和六十四年」のままであった。
- 2003年1月場所限りで引退した横綱貴乃花は一代年寄「貴乃花」となったため、翌3月場所の番付には年寄の欄に「貴乃花改 貴乃花光司」と記載されている。
- 2007年5月場所限りで引退した序二段の北綾山(最高位三段目東59枚目、神奈川県出身、北の湖部屋)は荒木(本名は荒木フランシスコ・ジョゼ・タカミチ)の四股名で2001年3月場所初土俵。翌5月場所の番付に序ノ口西25枚目「荒木たかみち」と下の名を平仮名で記載された。2005年1月場所に「北綾山」(ほくりょうやま)と改名したが番付には「北綾山たかみち」と下の名は平仮名のままで、引退するまで「たかみち」と番付に書かれた。
[編集] 脚注
- ^ "力士急死:時津風部屋の兄弟子3人の番付据え置き" 2008年1月30日閲覧.
- ^ 昭和の戦中期、軍隊に徴用された力士について、但し書きとともに番付外に張り出して、地位を留保した例はある。やがて軍部から「軍機に触れる」の咎めがあって、1942年1月場所から廃止され、兵役についた力士は番付から名前を消し、復帰時に元の成績相当の地位で出場させることにした。
- ^ "兄弟子3人、全休なのに番付据え置き…序ノ口力士死亡事件" 2008年1月30日閲覧.