木村庄之助
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木村 庄之助(きむら しょうのすけ)は大相撲の立行司の名前である。また、行司の最高位(相撲番付で言う東の正横綱に当たる)でもある。2008年5月場所現在、35代目となっている。
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[編集] 概要
木村庄之助の襲名条件は、現在は、式守伊之助を経ており、先代の庄之助が引退して空位になった場合ということになっている。このため、庄之助・伊之助が同時に引退してしまった場合、次の格の行司はいったん伊之助を襲名したあと、次場所でしか庄之助を襲名することができず、庄之助不在の場所が発生する。このようなことは最近では2006年3月場所で発生した。初めて伊之助から庄之助を継承したのは17代庄之助で、1921年5月場所5日目、横綱大錦-前頭5枚目鞍ヶ嶽戦において差し違え、責任を取って突然廃業した。当時12代伊之助がいたが18代庄之助を襲名せず、この場所限り引退し立行司が空席となったため、翌1922年1月場所、初代木村朝之助が伊之助を経ず18代庄之助を襲名した(ちなみに、のち19代庄之助となる5代式守与太夫が13代伊之助を襲名した)。これ以降も23代庄之助のように伊之助を経ないで庄之助を襲名した例もあった。
江戸時代から年寄の資格を持ち、力士の弟子養成を行った人物もいたらしいが、行司停年制実施前の1958年限りで年寄名跡から除かれている。
軍配には紫の房、装束(直垂)は明治以後は紫の菊綴じを着用し、短刀を差す。短刀は、差し違いをしたときには切腹する覚悟でのぞむという意味がある。代々受け継がれている軍配(「ゆずり団扇」とも呼ぶ)は2本ある。1本は、1面に「知進知退 随時出処」、もう1面に「冬則龍潜 夏則鳳挙」と記されており、13代庄之助以来のものである。もう1本は白檀製で、1面に牡丹、もう1面に唐獅子の彫金が施されており、1971年1月に宝塚市の清荒神清澄寺から贈られたものである。
ちなみに軍配は右手で持つのが原則であるが、現存する錦絵によると、7代(とされている)庄之助のみは左利きのため、左手に軍配を持っていた(現在では禁止されている)。なお代数に関しては、6代目が3代分の水増しを行い、自ら9代目を名乗ったとする説もあり、現在でもはっきりしていない。
本場所では通常、結びの1番のみを合わせる。ただし、千秋楽の優勝決定戦で庄之助が合わせることがあり、このときには1日2番を担当している(過去には庄之助は1番限りということから、優勝決定戦は伊之助が裁いていた時代もある。)。
[編集] 庄之助の代々
代目 | 襲名期間 | 備 考 |
---|---|---|
初代 | 寛永年間? | 中立羽左衛門尉清重とされるが、実在は不明 |
2代 | 貞享-宝永年間? | 木村喜左衛門、実在したとされ木瀬太郎太夫の孫と伝わる |
3代 | 享保年間? | 中立羽左衛門(?)、実在は不明 |
4代 | ?-享保10年頃? | 史実としての初代とされ、九重庄之助から中立姓となり、後に木村姓に改姓したと伝わる、勧進元、差添も務める |
5代 | 寛保年間に襲名? | 木瀬庄太郎→初代木村庄太郎→庄藏、2代の養子 |
6代 | 宝暦初め頃?-1770年11月場所 | 木村荒助→初代木村庄九郎→2代庄太郎 木村庄之助正式を名乗り、以来幕末までの歴代の諱(いみな)は「正式」と称した |
7代 | 1771年3月場所-1799年11月場所 | 谷風、小野川が対峙し、“史上最強力士”雷電が活躍した寛政期の名行司で在位最年長(29年)、珍しい左利きで軍配を持つ 木村七次郎(?)→3代庄太郎 |
8代 | 1800年4月場所-1824年1月場所 | 7代庄之助の弟子、木村七次郎(七次良)→4代庄太郎 1835年正月場所に庄之助として再勤、翌年2月場所木村松翁、1841年11月場所限りで引退 |
9代 | 1824年10月場所-1834年10月場所 | 7代庄之助の弟子、のち8代庄之助の養子、初代木村喜八→初代木村喜代治→5代庄太郎 2代木村瀬平を襲名、1827年に先祖書を幕府に提出 |
10代 | 1836年2月場所-1838年10月場所 | 9代庄之助の再勤、現役没 |
11代 | 1839年3月場所-1844年10月場所 | 8代庄之助の実子、木村留次郎→正助→6代庄太郎 |
12代 | 1845年2月場所-1853年2月場所 | 8代庄之助の弟子、木村寅松→清次郎→庄藏(正藏)、(一時引退後復帰)禎藏→正藏→7代庄太郎 |
13代 | 1853年11月場所-1876年4月場所 | 浦風林右エ門の弟子、木村小太郎→幸太郎→市之介(市之助)→3代木村多司馬 年寄・木村松翁を襲名 |
14代 | 1877年1月場所-1885年1月場所(死跡) | 10代庄之助の弟子、木村富吉→留吉→4代喜代治→10代庄太郎 現役没 |
15代 | 1885年5月場所-1897年5月場所 | 11代庄之助の弟子、木村八三郎→角次郎(角治郎)→4代木村庄三郎 年寄・木村松翁を襲名、現役没 |
16代 | 1898年1月場所-1912年1月場所 | 「梅・常陸時代」全盛期の名行司、木村新介(新助)→3代木村龍五郎→初代木村誠道→4代式守鬼一郎 初めて木村・式守両家を名乗る、晩年は中風症のため手が震え「ブル庄」の異名をとった、現役没 |
17代 | 1912年1月場所-1921年5月場所 | 木村兵丸(大阪)→初代木村玉治郎→6代庄三郎→10代式守伊之助 初めて式守伊之助より継承、差し違いの責任を取り廃業(概要参照) |
18代 | 1922年1月場所-1925年5月場所 | 木村甚太郎(?)→甚助→甚之助→初代木村朝之助(朝之介) 17代目の突然の廃業、12代伊之助の引退が重なり、伊之助を経ず襲名、能筆で「顔ぶれ」は名人級と評される、現役没 |
19代 | 1926年1月場所-1932年5月場所 | 9代式守伊之助の弟子、式守多喜太→2代式守錦之助→5代式守与太夫→13代伊之助 現役没 |
20代 | 1932年10月場所-1940年1月場所 | 8代伊之助の弟子でのち養子、式守子之吉→3代式守錦太夫→6代与太夫→15代伊之助 松翁の号を番付上に冠し「双葉山時代」全盛期を裁いた名行司、現役没 |
21代 | 1940年5月場所-1951年5月場所 | 3代式守与之吉→4代式守勘太夫→11代木村玉之助→17代式守伊之助 12代立田川を襲名 |
22代 | 1951年9月場所-1959年11月場所 | 木村金八(大阪)→信之助(大阪)→木村錦太夫(大阪)→初代木村林之助→初代木村容堂→12代玉之助→18代式守伊之助 「栃・若時代」全盛期を裁く、木村庄之助として行司停年制初の停年退職、稀にみる長寿(104歳で死去) |
23代 | 1960年1月場所-1962年11月場所 | 名行司木村越後の弟子、木村藤吾(大阪)→2代木村正直(大阪時代より継続) 式守伊之助を経験せず襲名 |
24代 | 1963年1月場所-1966年7月場所 | 式守芳松→義→初代式守伊三郎→5代鬼一郎→20代伊之助 「柏・鵬時代」全盛期の名勝負を裁く、停年後は神官職となる |
25代 | 1966年9月場所-1972年1月場所(番付は3月場所まで) | 木村金吾(大阪)→14代木村玉光→9代庄九郎→21代式守伊之助 |
26代 | 1973年1月場所-1976年11月場所 | 式守正→木村正→邦雄→5代式守与之吉→6代勘太夫→22代伊之助 |
27代 | 1977年11月場所-1990年11月場所 | 木村宗吉→3代玉治郎(玉次郎)→23代式守伊之助 「輪・湖時代」から「千代の富士時代」を裁く、在位最多場所(79場所) |
28代 | 1991年1月場所-1993年11月場所 | 木村松尾→式守松尾(松男)→式守林之助→2代木村林之助→8代式守錦太夫→25代伊之助 平成の名行司、「曙・貴時代」初期を裁く |
29代 | 1995年1月場所-2001年3月場所 | 木村春芳→壽男→春義→真之助→初代式守慎之助→9代錦太夫→28代伊之助 四横綱(曙、貴乃花、3代若乃花、武蔵丸)時代を裁く |
30代 | 2001年11月場所-2003年1月場所 | 初代木村保之助→3代林之助→2代容堂→31代式守伊之助 |
31代 | 2003年3月場所-2005年11月場所 | 式守正夫→木村正三郎→9代庄三郎→32代式守伊之助 |
32代 | 2006年1月場所 | 木村郁也→咸喬→33代式守伊之助 |
33代 | 2006年5月場所-2007年3月場所 | 初代木村要之助→式守要之助→木村要之助(再)→政裕→要之助(再々)→賢嘉→友一→3代朝之助→35代式守伊之助 |
34代 | 2007年5月場所-2008年3月場所 | 式守勝春→勝治→11代与太夫→36代伊之助 |
35代 | 2008年5月場所- | 木村順一→純一郎→順一→旬一→城之介→37代式守伊之助 |
[編集] 参考文献
33代木村庄之助・根間弘海『大相撲と歩んだ行司人生51年 -行司に関する用語、規定、番付等の資料付き- 』英宝社、2006年。