木村庄之助 (24代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
24代木村庄之助(24だい きむらしょうのすけ、1901年8月15日 - 1973年9月19日)は、大相撲の立行司。本名:緑川 義。千葉県出身。通称は「総髪庄之助」、「山伏庄之助」、「緑川庄之助」など。「由井正雪」とも。
1911年に9歳で初土俵を踏み、最初阿武松部屋、のち出羽海部屋に所属した。行司名は木村芳松→式守 義と変わったあと、1927年に式守伊三郎 (初代) と改名し、その後、1949年1月、式守代々の名跡式守鬼一郎 (5代) 、1960年1月、立行司20代式守伊之助、1963年1月、24代木村庄之助を襲名し、柏鵬時代の幕開けから1965年にスタートした部屋別総当たり制直後まで、数々の名勝負を裁いた。
1926年12月、福岡県戸畑(現北九州市戸畑区)での巡業中にフグ中毒に罹ったが一命を取り留めた。このとき一緒にフグを食べた同じ出羽海部屋の福栁伊三郎は手当ての甲斐無く亡くなってしまった。翌年に義から伊三郎に改名したのは福栁の冥福を祈ってのことで、自分の娘にも「福子」「柳子」と命名した。
1932年(昭和7年)1月の「春秋園事件」で一時脱退したが復帰した。
1963年9月場所3日目、弓取式を務める若熊が胆嚢炎で休場、未経験の克田山が代わって務めたが、弓を振ったときに庄之助の顔に命中、庄之助は右顎関節打撲のため12日目まで休場したエピソードがある。
恰幅がよく能筆家で知られ、伊三郎時代、行司として戦後初の番付書きとなった。堂々とした姿で人気のある行司であった。現役をそろそろ終えようとするころ、髪を伸ばして総髪にしていた。東京・小岩に墓所がある。