木村庄之助 (35代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
35代木村庄之助(さんじゅうごだい きむらしょうのすけ、1946年10月29日- 本名:内田順一)は大相撲の立行司。宮崎県延岡市出身、立浪部屋所属。
[編集] 経歴・人物
かけ声の「のこったのこった……」がこの人の場合は、「のこったのこったぞ、はっけよいのこったのこったぞ」となる。順一を名乗っていた70年代前半に幕内取組の場内放送を担当していたが、行司のかけ声の時とは違い、幕内土俵入りの力士紹介で「◯◯県出身、△△部屋」など明瞭で良く通る声が印象に残る。第52代横綱北の富士が復活の優勝を全勝で遂げた1972年9月場所千秋楽の幕内後半取組から表彰式までの場内放送を担当した。
同時期に28代木村庄之助が8代式守錦太夫時代、三役格行司になる1973年頃まで場内放送を担当していた。
2008年5月場所より34代木村庄之助の停年退職に伴い35代庄之助を襲名した。
城之介時代の1980年5月場所4日目、幕下の紫雲山-霧島(のち大関、現年寄陸奥)戦。まわし待ったで二人のまわしを締め直した城之介が取組再開を合図し、下げ緒の房を口にくわえ、肩に背負っていた軍配を持ち直した瞬間、留め具が外れ円形の部分が抜け落ちて柄の部分だけになったため、控えの行司木村孔一の軍配を借りて勝負を裁いたというエピソードがある。
宮崎県出身初の立行司ということで、式守伊之助襲名時に東国原英夫宮崎県知事から幟が贈られた。また、戦後生まれで初の立行司ということになる。
初めて庄之助としての本場所となった2008年5月場所初日には宮崎県の県章と出身地「延岡」の文字をあしらった模様の入った行司装束で、結びの横綱朝青龍-小結稀勢の里戦を裁いた(ちなみに勝負は押し倒しで稀勢の里の勝ち)。また、同年5月23日に延岡市観光大使に任命された。
[編集] 履歴
- 1962年5月 初土俵、木村順一
- 1966年3月 改名、純一郎
- 1966年9月 順一に戻す
- 1976年3月 改名、旬一
- 1980年5月 改名、城之介
- 1984年1月 十両格昇格
- 1994年1月 幕内格昇格
- 2006年3月 三役格昇格
- 2007年5月 37代式守伊之助を襲名
- 2008年5月 35代木村庄之助を襲名
この「木村庄之助 (35代)」は、相撲に関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めています(PJ相撲)。 |