木村庄之助 (26代)
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26代木村庄之助(26だいきむらしょうのすけ、1912年1月2日 - 1984年3月27日)は、大相撲の立行司の一人。木村庄之助としての在位期間は1973年1月~1976年11月。本名は浅井正、21代木村庄之助の弟子で、井筒部屋のち君ヶ浜部屋所属、愛知県額田郡幸田町出身。6代式守勘太夫時代から的確な軍配捌きには定評があり、なかなかの貫禄があった。弟子に30代式守伊之助、38代式守伊之助がいる。
22代式守伊之助時代の1969年(昭和44年)3月場所2日目に、大鵬-戸田(後の羽黒岩、現年寄雷)戦を裁いた。戸田が大鵬を押し出したが、その前に戸田の足が土俵を割っていたとして大鵬に軍配を上げた。しかし物言いがつき、協議の結果(春日野審判長を除く4人の勝負審判全員が戸田有利とした)、行司差違えで戸田の勝ちとなった。当時45連勝中の大鵬の連勝はこれでストップした。
翌日、新聞各紙の写真で、戸田の足が大鵬よりも先に出ていることが確認され、大鵬の連勝がストップしたことから「世紀の大誤審」として問題になった。この勝負が契機となり、相撲協会では勝負判定の際、ビデオ(NHK撮影のもの)を参考にすることになった。
同じく伊之助時代の1972年(昭和47年)3月場所7日目、前頭筆頭貴ノ花-横綱北の富士戦、12日目の関脇長谷川(現年寄秀ノ山)-大関大麒麟戦の二番において差し違えた。二番とも取り直しの方が妥当と思えるような相撲だったが、13日目の朝相撲協会にさっさと辞表を提出、場所前25代木村庄之助が廃業したこともあり、当時立行司不在の場所は前例がないため、慌てた協会は「辞めることはない」と1日の謹慎処分とし、14日目から再出場した。1964年1月場所6日目、24代木村庄之助と21代式守伊之助の両立行司が差し違いし進退伺いを協会に提出、翌日時津風理事長は2人を戒告処分したという事例がある。
1976年(昭和51年)の停年後まもなく、第27回NHK紅白歌合戦にて、村田英雄の「男の土俵」という曲の間奏部分に登場し、村田に勝ち名乗りを上げた。また同じく停年後、NHKテレビの「お達者くらぶ」という番組にゲスト出演し、生涯で最も印象に残っている一番として、大鵬-戸田の取組を上げ、「戸田の足が出ていることが確認できたので、自信を持って横綱に軍配を上げた」と語っている。この番組では、当時の取組のビデオフィルムも公開され、この取組が誤審であることが改めて確認された。