平野謙 (野球選手)
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平野 謙 北海道日本ハムファイターズ No.82 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年月日 | 1955年6月20日(53歳) |
身長 体重 |
179cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト外 |
初出場 | 1981年4月4日 |
経歴 | |
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平野 謙(ひらの けん、1955年6月20日 - )は、中日ドラゴンズ、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズで活躍した元・プロ野球選手(外野手)である。2008年現在は北海道日本ハムファイターズの打撃コーチを務める。
愛知県名古屋市出身。夫人は欽ちゃんファミリーとして欽ドン!などに出演した元タレント・秋本理央、姉はエッセイストの内藤洋子(同名の女優とは別人)。
目次 |
[編集] 来歴・人物
名古屋商科大学より1977年にドラフト外で中日ドラゴンズに入団。大学時代は投手だったが入団後に外野手となり、更に俊足を生かすためスイッチヒッターに転向したが、全く無名の存在であり最初の3年間はほとんど注目されなかった。1980年オフには戦力外になりかけたが近藤貞雄新監督の「彼を絶対残せ」という一言で辛くも残留すると、翌1981年才能が開花、110試合に出場。1982年には二番打者としてレギュラーに定着し、51犠打を記録した。[1]
その後1986年に最多盗塁(盗塁王)を獲得するなど、平野はセントラル・リーグを代表する外野手となっていたが、1987年は故障もあって出場試合数が90試合にとどまり、さらにその飄々とした雰囲気が「闘志がない」とされて星野仙一監督の構想から外れ、この年のオフに小野和幸との交換トレードで西武ライオンズに移籍した。[2]
以後西武では二番・右翼手に定着、バントを確実に決め、広い守備範囲と強肩でチームのピンチを救い、西武黄金時代になくてはならない存在となり、本人も中日時代には成し遂げられなかった日本選手権シリーズ優勝を4度も経験した。[3]1990年と1991年に、当時のパシフィック・リーグ最多となるシーズン50犠打を記録した。だが1993年には打率.239と年齢的な衰えを見せ始め、この年オフに西武を戦力外となった。
1994年からは千葉ロッテマリーンズに在籍し、1995年にはコーチ兼任となった。1996年5月23日の近鉄バファローズ戦(ナゴヤ球場)で当時史上初の通算450犠打を達成するが、6月頃に移動の際に乗った新幹線のテーブルに右手小指をはさんで骨折し、一軍登録抹消となった。この年限りで現役引退。生涯犠打数451は歴代2位。[4]
引退後はそのまま千葉ロッテに残ってコーチを務めたが2002年に退団。その後は東海テレビ放送・東海ラジオ放送・J SPORTS・東京メトロポリタンテレビジョンの野球解説者、中日スポーツの評論家を務める傍ら日本野球連盟・住友金属鹿島硬式野球部のコーチでもあった。また、プロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sers(エイティデイザーズ)でもプレーしている。
2006年に北海道日本ハムファイターズの一軍外野守備走塁コーチに就任。トレイ・ヒルマン監督の目指したスモールベースボールと合致し、25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一に大きく貢献した。2007年はチームの盗塁、盗塁成功率、犠打が前年より向上し、失策はリーグ最小を記録するなど、守り勝つ野球のさらなる徹底に尽力。特に田中賢介にはバントをつきっきりで指導し、田中は平野自身が記録していたシーズン犠打のパ・リーグ記録を塗り替えるまでに成長した。2008年に一軍打撃コーチに転任。
現役時代より気取らない性格と人柄の良さで知られる。西武時代は後輩から「謙さん」と呼ばれ、慕われていた。また、2007年に荒木雅博が盗塁王を獲得するまで、平野は中日選手として最後の盗塁王であった。
[編集] 背番号
- 81 (1978年)
- 57 (1979年~1982年)
- 3 (1983年~1987年)
- 24 (1988年~1993年)
- 8 (1994年~1996年)
- 87 (1997年~1998年)
- 81 (1999年~2002年)
- 82 (2006年~)
[編集] 年度別打撃成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978年 | 中日 | 81 | 1軍出場なし | ||||||||||||||
1979年 | 57 | 1軍出場なし | |||||||||||||||
1980年 | 1軍出場なし | ||||||||||||||||
1981年 | 110 | 110 | 28 | 26 | 2 | 2 | 0 | 32 | 4 | 8 | 7 | 0 | 4 | 16 | .236 | ||
1982年 | 125 | 448 | 58 | 129 | 13 | 5 | 4 | 164 | 33 | 20 | 51 | 2 | 13 | 60 | .288(12) | ||
1983年 | 3 | 127 | 434 | 63 | 107 | 26 | 0 | 7 | 154 | 30 | 14 | 27 | 2 | 32 | 65 | .247(37) | |
1984年 | 108 | 381 | 54 | 111 | 11 | 1 | 3 | 133 | 31 | 30 | 36 | 2 | 23 | 37 | .291(20) | ||
1985年 | 130 | 527 | 69 | 158 | 26 | 5 | 6 | 212 | 49 | 17 | 28 | 4 | 32 | 57 | .300(17) | ||
1986年 | 130 | 541 | 56 | 146 | 15 | 1 | 11 | 196 | 44 | 48 | 6 | 0 | 29 | 58 | .270(20) | ||
1987年 | 90 | 317 | 28 | 85 | 12 | 3 | 4 | 115 | 26 | 13 | 11 | 0 | 16 | 42 | .268 | ||
1988年 | 西武 | 24 | 130 | 508 | 75 | 154 | 24 | 2 | 7 | 203 | 46 | 18 | 41 | 3 | 37 | 59 | .303(8) |
1989年 | 98 | 365 | 49 | 98 | 21 | 7 | 2 | 139 | 32 | 6 | 36 | 1 | 35 | 52 | .268(23) | ||
1990年 | 123 | 445 | 55 | 119 | 21 | 4 | 2 | 154 | 42 | 23 | 50 | 2 | 35 | 72 | .267(20) | ||
1991年 | 125 | 459 | 60 | 129 | 19 | 6 | 3 | 169 | 41 | 13 | 50 | 3 | 40 | 59 | .281(9) | ||
1992年 | 122 | 436 | 57 | 122 | 19 | 1 | 4 | 155 | 45 | 15 | 48 | 3 | 25 | 65 | .280(19) | ||
1993年 | 100 | 309 | 17 | 74 | 11 | 2 | 0 | 89 | 25 | 4 | 29 | 2 | 21 | 44 | .239 | ||
1994年 | ロッテ | 8 | 81 | 229 | 25 | 52 | 5 | 4 | 0 | 65 | 15 | 1 | 14 | 3 | 12 | 31 | .227 |
1995年 | 61 | 120 | 12 | 27 | 4 | 0 | 0 | 31 | 12 | 0 | 8 | 1 | 12 | 30 | .225 | ||
1996年 | 23 | 47 | 6 | 14 | 5 | 0 | 0 | 19 | 4 | 0 | 9 | 1 | 2 | 12 | .298 | ||
通算成績 | 1683 | 5676 | 712 | 1551 | 234 | 43 | 53 | 2030 | 479 | 230 | 451 | 29 | 368 | 759 | .273 |
[編集] タイトル・表彰・記録
- 盗塁王:1回 (1986年)
- ベストナイン:1回 (外野手:1988年)
- ゴールデングラブ賞:9回 (外野手:1982年、1985年~1986年、1988年~1993年)
- オールスターゲーム出場:2回 (1986年、1988年)
- 1試合4犠打 (1991年6月19日)
[編集] エピソード
- 11歳の時に両親を亡くし、それ以来数年間にわたり、姉の内藤洋子と共に金物店を経営した。
- 中日時代の応援団のテーマ曲は『狼少年ケン』だった。
- 1982年の日本シリーズ第5戦(西武ライオンズ球場)・3回表二死二塁、平野が放った右翼線に抜けるはずの痛烈な打球が一塁塁審・村田康一を直撃、それを捕球した二塁手・山崎裕之が捕球して三塁に送球し、三塁を回って戻ろうとした二塁走者・田尾安志をアウトにするという珍事が発生、話題になった(村田康一#「石コロ事件」を参照)。
- 平野が移籍してきた頃の西武は既にパシフィック・リーグの常勝軍団になっており、移籍1年目の1988年にもリーグ優勝を達成したが、日本シリーズの相手は中日であった。
- 既に西武時代に居を構え、千葉ロッテに移籍時も引越しや単身での住居を求めなかった為に、所沢市の家から浦和市の練習所や千葉市の球場へ“通勤”をしていた。
- 1996年、姉・内藤洋子の自伝(『わが故郷(ふるさと)は平野金物店』、エフエー出版)がNHK『ドラマ新銀河』で「ようこそ青春金物店」としてドラマ化。ドラマで描かれたのは平野の少年時代のみで、平野の役は俳優の小橋賢児が演じた。平野はドラマを見て、「ドラマで平野謙という自分の名前を見たとき、スポーツニュースで自分が打ったところを放送されたのとは違った感動を覚えました」と語っている。
- 2006年の日本シリーズは平野にとってコーチの肩書きとしては初の日本シリーズ出場であり、奇しくも相手は西武移籍時の1988年の日本シリーズと同じく中日であった。しかも1988年と同じく4勝1敗で中日を退けている。
[編集] 脚注
- ^ 1988年に和田豊(阪神タイガース)に破られるまでシーズン記録だった。
- ^ 星野は後年のインタビューでは西武時代の働きぶりを評価する発言をしているので、選手としての能力そのものは評価しつつも、「闘志」を前面に出した自分の野球スタイルよりも西武の「大人の野球」の方が平野のスタイルに合っていると見ていたとも考えられる。
- ^ 2006年にはコーチとして経験しているので通算では5度である。
- ^ 1998年に川相昌弘(読売ジャイアンツ)によって破られるまでは歴代最多だった。
[編集] 関連項目
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監督 |
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88梨田昌孝 |
コーチ |
78福良淳一(ヘッド)|74厚沢和幸(投手)|81吉井理人(投手)|77中島輝士(打撃)|82平野謙(打撃)|89真喜志康永(内野守備)|87清水雅治(外野守備走塁) |
二軍監督・コーチ |
72水上善雄(監督兼内野守備)|80野村収(投手)|73島崎毅(投手)|71山中潔(バッテリー)|76大村巌(打撃)|83荒井幸雄(打撃)|75川名慎一(外野守備走塁) |
投手 |
11ダルビッシュ有|12歌藤達夫|13須永英輝|14グリン|16多田野数人|17宮本賢|18藤井秀悟|19中村泰広|20糸数敬作|21武田久|22建山義紀|25宮西尚生|27江尻慎太郎|28金澤健人|29八木智哉|30坂元弥太郎|34吉川光夫|35木下達生|36マイケル中村|38武田勝|42スウィーニー|43星野八千穂|44山本一徳|46植村祐介|47菊地和正|48津田大樹|49内山雄介|57松山傑|59金森敬之|60伊藤剛|66ダース・ローマシュ匡|67豊島明好|68浅沼寿紀 |
捕手 |
2高橋信二|32中嶋聡(バッテリーコーチ兼任)|37小山桂司|56駒居鉄平|62今成亮太|63渡部龍一|64鶴岡慎也 |
内野手 |
3田中賢介|4飯山裕志|5稲田直人|6中田翔|8金子誠|9小田智之|23尾崎匡哉|24陽仲壽|31小谷野栄一|33三木肇|39ボッツ|45今浪隆博|50市川卓|58高口隆行 |
外野手 |
1森本稀哲|7坪井智哉|10スレッジ|26糸井嘉男|40金子洋平|41稲葉篤紀|51村田和哉|52紺田敏正|53工藤隆人|54大平成一|55佐藤吉宏|65鵜久森淳志 |