大井川
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大井川 | |
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蓬莱橋より見る大井川(静岡県島田市) |
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水系 | 一級水系 大井川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 168 km |
水源の標高 | 3,189 m |
平均流量 | 76.40 m³/s (神座観測所1952年~2002年) |
流域面積 | 1,280 km² |
水源 | 間ノ岳(静岡県) |
河口(合流先) | 駿河湾(静岡県) |
流域 | 静岡県 |
大井川(おおいがわ)は、静岡県を流れる河川。一級水系大井川の本流。
目次 |
[編集] 地理
南アルプス南部、静岡県・長野県・山梨県の県境付近にある間ノ岳に源を発し、赤石山脈・白根山脈の間を南下。静岡県志太郡大井川町と榛原郡吉田町の境界から駿河湾に注ぐ。
大井川に並行して、大井川鐵道の大井川本線・井川線が島田市金谷から静岡市葵区井川まで走っている。
[編集] 流域の自治体
[編集] 大井川開発史
大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たり、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成。
中流部は『鵜山の七曲り』に代表される大蛇行地帯である。こうした特徴的な河川形態である大井川は国境として利用され、駿河国と遠江国の境界線であった。だが氾濫により度々流路が変わるため紛争の原因にもなりやすく、徳川家康と武田信玄の対立の導火線になったのが、大井川の流路変更による国境線の変化であったといわれる。
[編集] 近世・近代の治水
1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後駿河は中村一氏が17万石の府中城主として、遠江は堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。
大井川付近を領有していたのは中村一氏と山内一豊であったが、治水事業に乗り出したのは掛川城主であった山内一豊であった。一豊は大井川の水害から領地を守り、石高収入を高めるため大井川の流路変更を企図。牛尾山付近より流路を変える開削工事を行った。この時一豊は牛尾山を掘り崩し、旧流路を堰き止めて水流を新しく開削した放水路に導水した。この時に旧川締切用に建設された堤防を「一豊堤」と呼び、現存している。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付き、戦後一豊は土佐へ加増転封したのを始め堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後は東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てたが、大井川に関しては当時平均水深が76cmあり急流であったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた。このため大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。東海道屈指の難所であり、『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』とはこの難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。洪水の際には川留めが行われ、大井川を渡河する拠点として賑わう宿場町として金谷等が発展した。
大井川の治水については武田信玄以来の「甲州流治水工法」として「聖牛」の他、「出し」・「川倉」といった水制が各所で設けられたがそれでも水害は後を絶たず、大井川下流の流域住民は舟形に屋敷を盛土して洪水に対処する「舟形屋敷」が建築され、現在でも島田市や藤枝市などに残存している。明治時代に入ると架橋が許され各所に橋が掛けられるようになったが、特に著名なのが蓬莱橋である。1879年(明治12年)に架橋されたこの橋は木造歩道橋としては世界一の長さを誇り、現在でもこの記録は破られておらずギネスブックにも掲載されている。1898年(明治31年)に「河川施工規則」が施行されると大井川は内務省による直轄工事対象の河川になったが、同年より高水敷の治水整備を内務省直轄事業として行い、1902年(明治35年)に一応の完成を見た。
[編集] 大井川水力発電史
大井川の河川開発において欠かすことができない歴史として、水力発電がある。
1902年日英同盟が成立し、日本とイギリスの関係はより親密になった。これを機にイギリス資本が日本経済にも影響を及ぼしたが大井川では1906年(明治39年)に日英両国の民間資本による水力発電事業が計画された。この「日英水力発電株式会社」の設立に向けて準備が行われたが1911年(明治45年)にイギリス資本は撤退し、日本単独での事業となった。同年日英水電が設立され、大井川水系初の水力発電所として小山発電所(認可出力:1400kW。現在は廃止され撤去)の運転が開始された。当時は木曽川や天竜川などで電源開発が盛んであり、より充実した電力事業を展開するために電力会社の合併が繰り返された。大井川水系関連では日英水電が1921年(大正10年)に早川電力に吸収合併され、その早川電力は1925年(大正14年)に東京電力(現在の東京電力とは全く異なる。松永安左エ門の東邦電力系列)に合併し、さらに発展して大井川電力となった。
昭和に入ると大井川水系においてもダム式発電所による水力発電が行われるようになった。1927年(昭和2年)、大井川本川源流部に田代ダムが完成し、田代第一発電所(認可出力:6800kW)・田代第二発電所(認可出力:21000kW)が稼動した。この田代ダムは富士川水系早川の保利谷ダムへ導水をしており、大井川と富士川を跨いだ水力発電が行われた。続いて大井川水系の有力な支流である寸又川が富士電力によって開発され、1935年(昭和10年)最上流部に千頭ダムが完成したのを始め翌1936年(昭和11年)には寸又川ダムが完成した。因みに千頭ダムは戦前において大井川水系最大規模のダムであった。こうして大井川電力は大井川水系の電源開発を強力に推進したが、1938年(昭和13年)戦時体制が進行する中国家による電力統制を目的に「電力管理法」が施行され、これに伴い日本発送電(日発)が発足、全国の電力会社は強制的に吸収合併させられた。大井川電力や富士電力も例に漏れず、日発に吸収された。
敗戦後、深刻な電力不足を解消するために電源開発が国策として強力に進められた。日発は大井川に大規模なダム式発電所を建設し逼迫する電力需要に対処しようとした。当時静岡県は河川総合開発事業として「大井川総合開発計画」を推進しており、全国的に河川総合開発が進められている中で大井川でも総合開発の機運が高まった。1951年(昭和26年)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は過度経済力集中排除法の対象となっていた日発を分割・民営化させる電力事業再編令が施行され、大井川水系の発電施設は中部電力に田代ダム以外の全てが継承された(田代ダムは東京電力が継承)。そして日発の計画を引き続き推進し、井川地点と奥泉地点にダム式発電所の建設を計画した。
中電は海外技術顧問団(OCI)にダム技術に関する助言を得たが、この中で井川地点については日本初となる中空重力式コンクリートダムによる建設が計画された。初の試みであるため当時中空重力式の建設が盛んであったイタリアに関係者を派遣し、ダム建設に関する技術を学んだ。この経験を元に建設されたのが井川ダムであり1957年(昭和32年)に完成した。前年には直下流に奥泉ダムが完成していたが、当時全国的な大ダム建設時代に符合して大井川水系でもダムが多く建設され出した。中電は井川ダム上流の畑薙地点に自流混合式揚水発電所を建設する計画を立て、1961年(昭和36年)に畑薙第二ダム、1962年(昭和37年)には畑薙第一ダムが完成した。畑薙第一ダムは世界最大の中空重力式ダムであり、ダム内部に設けられた畑薙第一発電所は認可出力137,000kWと大井川水系最大の出力を誇っている。
畑薙第一ダムの完成で大井川水系の水力発電事業は峠を越え、その後は1990年(平成2年)に畑薙第一ダム上流で大井川に合流する赤石沢川に赤石ダムが建設されたのが大井川における電力会社管理ダムの最後の例となった。大井川全体における全発電所の総認可出力は715,700kWと純揚水発電所が無い河川では全国屈指である。近年では畑薙第二ダムの河川維持放流を利用した東河内発電所(認可出力:170kW)が2001年(平成13年)に運転開始されている。
[編集] 大井川鐵道の敷設
大井川の水力発電事業が進展すると同時に建設が行われたのが、大井川鐵道である。
大井川電力が本格的にダム式発電所の建設を行う際に、資材を運搬するためのインフラ整備が必要となった。大井川は急流であり、上流は接岨峡や寸又峡のように険阻な峡谷が形成されていたため、人力・馬力による大量輸送を行うことは不可能であった。このため鉄道による物資運搬が必要と判断され、かつての東海道の宿場町であった金谷を基点とした鉄道路線が建設され、金谷駅から横谷駅(廃止)間6.5kmが1927年に開通した。その後寸又川流域の電源開発計画が進行すると、合流点である千頭まで延伸する計画が立ち、1931年(昭和6年)には金谷駅~千頭駅間44.0kmが開通した。これにより千頭ダムや寸又川ダム建設のための物資が輸送されることになった。また、ダム建設に伴う流木補償に鉄道が利用され、本来の建設物資輸送に加え木材輸送が加わった。さらに沿線住民の貴重な交通アクセスとしても利用され始めた。
戦後は大井川鐵道として独立することとなったが、ダム建設のための物資輸送の役割は継続していた。1951年の井川ダム・奥泉ダム建設事業開始に伴い、接岨峡を安全に輸送するための路線整備が図られ千頭駅から井川までの延伸事業が開始された。1954年(昭和29年)に完成したこの路線が大井川鐵道井川線であり、これにより現在の金谷~井川間が全線開通した。1957年の井川ダム完成以後は井川地域の重要な足として利用されることとなった。因みに井川線は中部電力が所有し、大井川鐵道が運営する形態となっている。
電源開発事業終了後は地域の重要な足として利用されていたがモータリゼーションの発達は容赦なく経営を圧迫し、他のローカル線と同様に赤字路線に転落した。1969年(昭和44年)には名古屋鉄道の傘下となって経営再建に奔走したが、1972年(昭和47年)には赤字路線に対する国庫補助・欠損補助金対象路線にまで落魄した。このころより鉄道の廃止が検討されだしたが、起死回生の一手として1976年(昭和51年)より金谷~千頭間に前年全国的に廃止されたばかりの蒸気機関車(SL)を導入した。これが廃止の淵に立たされた鉄道経営の大きな特効薬となり、SL目当ての客が多く利用し経営は次第に回復。1978年(昭和53年)には路線存続が正式に決定され、1980年(昭和55年)には欠損補助金の対象からも外されて経営再建を果たした。
1990年(平成2年)、井川線は長島ダム建設に伴い水没することとなり、再度廃止の危機に陥った。接岨峡は観光の目玉の一つでもあったため路線の付け替えを余儀無くされたが、千頭から接岨峡は勾配が急でありそのままでは運転ができない状態であった。この時導入されたのがアプト式鉄道である。アプトいちしろ駅で電気機関車を連結して長島ダム駅まで急勾配の坂を昇降することでこの問題は解決したが、信越本線横川駅~軽井沢駅間・碓氷峠のアプト式鉄道が1963年(昭和38年)に廃止されて以来の復活であることからさらなる注目を集めた。こうして大井川鐵道は近代鉄道が捨てたものを拾うことでより独自の存在感と人気を博している。なお井川線は赤字であるが、中部電力の補助金によって赤字を相殺している。
[編集] 大井川用水事業
敗戦後逼迫していたのは電力需要ばかりではなく、食糧需要も逼迫していた。寧ろ食糧事情は極めて劣悪な状態であり、放置すれば治安にも重大な支障を及ぼしかねなかった。このため早期の農地開拓は何よりも重要な施策であり、農林省(現・農林水産省)は大規模かつ広範囲の新規農地開墾を図るための総合開発事業を計画した。
1947年(昭和22年)、農林省は「国営農業水利事業」を展開した。農業用ダムを河川に建設して水源とし、下流に建設した頭首工より取水した水を用水路に導水して農地を灌漑し、農作物の増産を図ろうとするものである。農林省は加古川、野洲川、九頭竜川そして大井川の4水系・河川を国営農業水利事業の対象河川として指定し、大規模な灌漑事業を展開した。この「国営大井川農業水利事業」は大井川両岸の農地に対して農業用水を供給することが目的である。中部電力が管理する笹間川ダムを取水源とする水力発電所・川口発電所を利用し、発電所に付設された川口取水口を水源としている。ここで取水された水は大井川水路橋を通じて島田市にある神座分水工で大井川右岸幹線と大井川左岸幹線に分かれる。
大井川右岸幹線は赤松幹線・向谷幹線・志太榛幹線・榛原幹線・瀬戸川幹線の5本の幹線用水路に分岐され、さらにそれぞれの幹線水路から支線用水路に細分化される。焼津市・藤枝市・島田市・牧之原市・志太郡大井川町・榛原郡吉田町が供給対象である。一方大井川左岸幹線は神座分水工から小笠幹線が分岐し、その後掛川幹線・菊川幹線・菊川右岸幹線・菊川左岸幹線の4本の幹線用水路に分岐され、さらにそれぞれの支線用水路へ分岐される。左岸用水は菊川水系を介した利用がされており、菊川本川に菊川頭首工を建設して用水補給を行っている。供給対象は掛川市・袋井市・菊川市・御前崎市である。この両用水によって7,757haの農地が恩恵を蒙ることとなり、大井川用水は1968年(昭和43年)に完成した。
大井川用水は本来目的の農業用水供給の他、防火用水や環境維持用水、そして親水目的にも利用されているが、高度経済成長以後の急速な人口増加に伴って上水道需要も逼迫するようになった。このため静岡県大井川広域水道事業団は大井川用水を利用した上水道供給を行い、さらに工業用水道も大井川用水に求めるようになった。だが農業用水の他目的への転用は禁止されており、2006年(平成18年)を目処とした転用手続きを現在進めている。また用水施設の老朽化に伴う漏水などが目立つようになり、1999年(平成11年)に農林水産省は静岡県と共同で「国営大井川用水農業水利事業」を施工して改良工事を進めている。
[編集] 戦後の治水
大井川の治水は山内一豊による「一豊堤」以降、主な河川改修は堤防建設・改修を中心とした高水敷改修が主流であった。戦後のその傾向は変わらなかったが1954年9月の洪水を機に本格的な改修が求められ、河口の駿河湾より島田市神座・神尾地点までの24.9km区間が旧河川法による指定区間に指定され、建設省(現・国土交通省)による直轄管理が行われた。1967年(昭和42年)5月には新河川法の制定に伴って大井川は一級水系に指定され、水系一貫の治水計画が行われることとなった。
これによって1974年(昭和49年)3月に策定されたのが「大井川水系工事実施基本計画」であったが、同年7月7日の七夕豪雨によって静岡県内は甚大な被害を受け、大井川水系でも被害が大きかった。このため建設省は根本的な河川改修として多目的ダムによる洪水調節は必要との結論に達し、「大井川水系工事実施基本計画」は改訂され、1971年(昭和46年)より予備調査が進められていた榛原郡本川根町(現・川根本町)長島地点のダム計画が正式な事業として進められることとなった。これが大井川水系唯一の多目的ダム・長島ダムである。
当時は後述するダムによる大井川の河水枯渇が問題化しており、水没住民による反対のみならず下流住民からもダム建設には懐疑的な意見が多かった。建設省は水源地域対策特別措置法の指定や流水復活のための電力会社と地元の仲介を積極的に行う等して事業への理解を求め、計画発表から28年後の2000年(平成12年)に長島ダムは完成した。ダムの完成により大井川の治水はもとより大井川用水の水源として上水道・農業用水・工業用水の供給を行い、地域の水がめとして重要な役割を担っているほか、新たなる観光地として多くの観光客を呼び寄せている。
一方大井川下流から河口については、東海地震による津波対策が行われている。流域は「東海地震に関する地震防災対策強化地域」に指定されているほか、東海地震と連動して発生するといわれている東南海地震の被害も予測されており「東南海・南海地震防災対策推進地域」にも指定されている。地震による津波被害は駿河湾沿岸に集中するが、大井川を遡上した津波による内陸部への被害も警戒されている。河川を遡上する津波は1964年(昭和39年)の新潟地震による信濃川、2003年(平成15年)の十勝沖地震による十勝川などで確認されているため、こうした津波被害を回避するための堤防補強などの対策も現在実施されている。
こうした総合的な治水対策を推進するため、現在「大井川水系工事実施基本計画」に替わる新しい大井川治水計画、「大井川水系河川整備計画」が現在製作されている最中である。
[編集] 大井川・再生への苦難
前述のように大井川は水力発電や灌漑による高度な水利用が実施され、流域のみならず流域外の県内、さらには他県へも大きな貢献をしている。だが、その代償として大きな問題と成ったのが大井川の流水減少・流水途絶である。
[編集] 無残な大井川
1960年代までに大井川水系は大井川本川上流より田代・畑薙第一・畑薙第二・井川・奥泉・大井川・塩郷といったダム・小堰堤が連なり、支流には千頭・大間・寸又川(寸又川)、笹間川(笹間川)、境川(境川)の各ダムが建設され、これらのダムや小堰堤より発電用の水が一斉に取水される。さらに下流では大井川用水に利用するため川口発電所で放水された水が再度取水されて各所に供給される。こうした多数の箇所からの取水によってかつて豊富な水量を誇った大井川の水は山中を通る送水管に大部分の水が流れ、大井川に直接放流される水は極端に少なくなった。このため次第に弊害が現れた。
問題が表面化したのは1961年の塩郷ダム完成からである。塩郷ダムで大井川の流水がことごとく取水されることにより、ダムより下流の大井川は全く流水が途絶した。この付近は『鵜山の七曲り』と呼ばれた景勝地であり、水量が豊富な際は豪快な風景が楽しめたが塩郷ダム建設以後は全く水が流れなくなった。しかもダムより下流20km区間が全くの無水区間となって、漁業を始めとする河川生態系に深刻なダメージを与えた。『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』と謳われ、往時は平均水深76cmあったといわれる大井川の面影は全く無くなり、あるのは延々と続く「賽の河原」であった。この惨状に流域住民は「大井川の清流を元に戻せ」と声高に訴えるようになった。大井川の「水返せ運動」の始まりである。
1975年(昭和50年)大井川の発電用水利権が期限更新となった。この時河川管理者である静岡県は塩郷ダムを管理する中部電力、田代ダムを管理する東京電力に対し、大井川の無水区間を解消するために毎秒2トンの水利権を返還するように両電力会社に要求、交渉を行った。だが中部電力と東京電力の両者は静岡県の水利権返還要求を拒絶した。電力会社の立場からすれば、水力発電所における水はまさに生命線であり、水量を減少させることは発電能力を減衰させることに繋がり、それは単純に営業利益の減少に直結するため、当然承諾できる要求ではなかったのである。
[編集] 住民の反発と中電の対応
1976年(昭和51年)に塩郷ダムより暫定的な放流が実施されてはいたが、結局これ以降も無水区間の解消には至らず、当時計画中であった長島ダムの事業進捗にも影響を及ぼした。長島ダムは多目的ダムであり、河川維持放流を行うことは目的の一つであるため本来は河川環境の改善にプラスに働くのであるが、ダムに対する不信に凝り固まった地元住民は長島ダムにも反対の姿勢を見せた。そして頑なに水利権返還を拒否する電力会社に対する不満が次第に表面化していった。
そして塩郷ダムの次回水利権更新である1986年(昭和61年)が近づくに連れ、住民の「水返せ運動」は次第に熱を帯びていく。本川根町・中川根町・川根町の3町(当時)で作る川根地域振興協議会は静岡県に対し「大井川流域保全に関する陳情書」を提出し、水利権更新時の大井川無水区間解消を強く要望した。3町の住民は水利権返還を拒絶する中部電力に対して圧力を掛けるため1987年(昭和62年)1月に「大井川環境改善決起大会」を開催、800名の住民が参加し悲願達成を誓った。さらに3月には350人の住民が水の全く無い塩郷ダム直下流に集結し、「水」の人文字を作って中部電力に対し強硬な意思表示を行った。
当時の静岡県知事・斉藤滋与史はこうした住民の直接行動を受け中部電力に水利権の一部返還を迫った。中部電力も住民との対立は企業イメージへの深刻な打撃を与えることを危惧し、4月に塩郷ダムより毎秒3トン、大井川ダムより毎秒1トン、寸又川のダム群より毎秒0.6~0.7トンの河川維持放流を行うことを表明、大井川に25年ぶりの流水が復活した。だが住民の納得する流水回復ではなく、12月には協議会が再度要望書を知事に提出、「毎秒5トン・更新期間10年に短縮」という要求を行い1989年(平成元年)2月には大井川河川敷で1,000人が集まり決起大会を開催した。これを見た中部電力は遂に住民の要求に従うことになり、建設省との水利権更新において「通年放流量毎秒3トン、農繁期放流量毎秒5トン」の水利権返還を表明した。ただし水利権更新については30年更新で建設省に申請することとなり、静岡県もこれに同意した。
こうして塩郷ダムより毎秒5トンの水が放流されるようになり、完全に水が無かった大井川は遂に流水が復活した。斎藤知事はこの心境を『桜花 五トンの流れ 照り映えて 大いなる川 よみがえりたり』の短歌に認めた。この句は後に石碑となり、現在は塩郷ダム直下流の大井川親水公園内に建立されている。塩郷ダムの問題は解決したが、未だ最上流部の田代ダムの水利権返還は東京電力の拒否にあい解決されていなかった。
[編集] 根本的な解決に向けて
2005年(平成17年)末、田代ダムの水利権更新が迫り流域自治体は発電用水利権の一部返還を求めた。田代ダムは富士川水系の早川に導水を行うため、山梨県も絡んだ広範囲な問題となり、電力会社と自治体だけの問題ではなくなった。このため国土交通省・静岡県・山梨県・大井川流域自治体(静岡市・川根本町・川根町)及び東京電力の5者による「大井川水利流量調整協議会」が結成され、田代ダムの水利権問題に対処することとなった。
塩郷ダムの水利権返還以後、河川開発を巡る周辺環境は激変し、河川環境に対する厳しい国民の視線が注がれるようになった。こうした風潮は1997年(平成9年)の河川法改正に影響を及ぼし、「河川環境の維持」が河川管理の重要な目標に挙げられた。この中で全ての電力会社管理ダムに対して河川維持放流の義務化が明記され、全国の電力会社は発電用ダムに放流バルブを設置して維持放流を実施した。この結果信濃川の西大滝ダム・宮中ダムのようにサケが戻りだした例も報告されだした。
東京電力は河川維持放流のための水利権一部返還に合意。流量についての交渉が行われた。だが地元自治体の納得できるだけの放流量ではなく、交渉は不調に終わった。このため大井川流域の住民は2万人の署名を集めて放流量の上乗せを要求、決起大会を開いて譲歩を迫った。これに対し東京電力は毎秒0.43トン~1.49トンの放流、水利権の10年更新で再度呈示、流域自治体も納得して11月29日に交渉は妥結した。2006年より田代ダムより毎秒0.43トンの試験放流が実施されており、中部電力管理5ダム(畑薙第一・畑薙第二・井川・奥泉・大井川)及び長島ダムと連携して0.43トンの連携上積み放流を現在検討している。
こうして大井川の「水返せ運動」は塩郷ダム完成より45年経過し、大井川の無水区間は解消し流水は復活した。だがかつての大井川復活にはまだ道半ばである。
[編集] 主な支流
- 赤石沢川
- 寸又川
- 榛原川
- 境川
- 笹間川
- 伊久美川
- 大代川
- 大津谷川(→栃山川)
- 伊太谷川
[編集] 河川施設
大井川水系における河川施設は、そのほとんどが水力発電を目的とするものである。大井川本川だけでも6か所の電力会社管理ダムがあり、この他に塩郷ダムなどの小堰堤が点在する。寸又川や笹間川など主要な支流にもダムや小堰堤が建設されており、高度な水利用が行われた反面大井川の環境を損ねた。一方、多目的ダムは長島ダム、治水ダムでは平常時には全く水を貯水しない「穴あきダム」の大代川防災ダムがある。洪水調節機能を有するダムはこの2基しかない。なお、現在施工中の河川施設は無い。
特色としては、日本で13基しか存在しない中空重力式コンクリートダムが3基、しかも連続して建設されていることである。日本初の井川ダムや世界最大の畑薙第一ダム、マイクロ水力発電施設を備えた畑薙第二ダムがそれであり、日本のダムの歴史において欠くことのできない河川でもある。
[編集] 河川施設一覧
一次 支川名 (本川) |
二次 支川名 |
三次 支川名 |
ダム名 | 堤高 (m) |
総貯水 容量 (千m³) |
型式 | 事業者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
大井川 | - | - | 田代ダム | 17.3 | 220 | 重力式 | 東京電力 | |
大井川 | - | - | 畑薙第一ダム | 125.0 | 107,400 | 中空重力式 | 中部電力 | |
大井川 | - | - | 畑薙第二ダム | 69.0 | 11,400 | 中空重力式 | 中部電力 | |
大井川 | - | - | 井川ダム | 103.6 | 150,000 | 中空重力式 | 中部電力 | |
大井川 | - | - | 奥泉ダム | 44.5 | 3,150 | 重力式 | 中部電力 | |
大井川 | - | - | 長島ダム | 109.0 | 78,000 | 重力式 | 国土交通省 | |
大井川 | - | - | 大井川ダム | 33.5 | 788 | 重力式 | 中部電力 | |
大井川 | - | - | 塩郷ダム | - | - | 重力式 | 中部電力 | 小堰堤 |
赤石沢川 | - | - | 赤石ダム | 58.0 | 3,090 | 重力式 | 中部電力 | |
寸又川 | - | - | 千頭ダム | 64.0 | 4,950 | 重力式 | 中部電力 | |
寸又川 | - | - | 大間ダム | 46.1 | 1,519 | 重力式 | 中部電力 | |
寸又川 | - | - | 寸又川ダム | 34.8 | 987 | 重力式 | 中部電力 | |
境川 | - | - | 境川ダム | 34.2 | 1,173 | 重力式 | 中部電力 | |
笹間川 | - | - | 笹間川ダム | 46.4 | 6,340 | 重力式 | 中部電力 | |
大代川 | - | - | 大代川ダム | 43.0 | 621 | 重力式 | 静岡県 | 穴あきダム |
[編集] 参考文献
- 『大井川水系工事実施基本計画と大井川水系河川整備計画(案)の対比表』:国土交通省河川局。2006年9月
- 『よみがえれ 大井川』:静岡地理教育研究会編。古今書院 1989年
- 『ダム便覧 2006』:日本ダム協会。2006年
- 『TABLET99 大井川鐵道の歴史』:名古屋大学鉄道研究会 ウェブサイト。1998年
- 大井川用水土地改良区 ウェブサイト