駿府城
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駿府城 (静岡県) |
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巽櫓(復元) |
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通称 | 府中城、静岡城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 五重七階(非現存) |
築城主 | 徳川家康 |
築城年 | 1585年 |
主な改修者 | 徳川家康 |
主な城主 | 内藤氏(松平氏) |
廃城年 | 1869年 |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 櫓、門 |
位置 | 北緯34度58分45.96秒 東経138度23分0.9秒 |
駿府城(すんぷじょう)は、静岡県静岡市葵区(駿河国安倍郡)にある城である。別名は府中城や静岡城など。江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。
目次 |
[編集] 概要
中世に今川氏によってこの地に今川館が築かれたが、武田信玄や徳川家康の侵攻で失われた。その後、駿河国を支配した家康によって築城され、この時に初めて天守が建つ。しかし、その3年半後、家康の関東移封により豊臣恩顧の中村一氏が城主となった。
江戸時代初期には、大御所となって駿府に隠居した家康によって大修築が行われ、三重の堀を持ち、天守が慶長12年(1607年)に完成しているが直後に焼失し、直ちに再建工事が行われ、新たな天守は大型の天守台の中央に六重七階の天守が建ち、その外周を隅櫓や多聞櫓が囲む特異な構造となる。この大御所政治時代、駿府は、政治・経済の中心地として大いに繁栄した。
現在では、官庁や学校などの公共用地が立地し、天守は現存していないが、二の丸巽櫓、東御門(櫓門)と続多聞櫓、更には明治時代に歩兵第三十四連隊を置くために埋められた本丸堀が復元されている。2007年現在、未申(ひつじさる)櫓の復元工事を行っている(石垣の発掘補強中)。
[編集] 歴史・沿革
駿府城築城以前については今川館を参照
[編集] 安土桃山時代
[編集] 江戸時代
[編集] 大御所政治時代
- 1601年(慶長6年) - 家康の異母弟・内藤信成が駿府城主に任ぜられる。
- 1606年(慶長11年) - 内藤信成が長浜城主に移封される。
- 1607年(慶長12年) - 12月に出火し、御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
- 1608年(慶長13年) - 本丸御殿等完成。
- 1609年(慶長14年) - 家康の第十子・徳川頼宣が駿府城主となる。
- 1610年(慶長15年) - 天守完成。
- 1616年(元和2年) - 家康死去(75歳)。
[編集] 家康没後の江戸時代
- 1619年(元和5年) - 頼宣が和歌山城主に移封。
- 1624年(寛永元年) - 徳川秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となる。
- 1631年(寛永8年) - 忠長が乱心、兄である徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
- 1632年(寛永9年) - 忠長が高崎城で自刃。以後、駿府城代、駿府定番(副城代に相当)が置かれ、駿府は江戸幕府直轄(天領)となる。
- 1635年(寛永12年) - 城下の火災が城に延焼し、大半を焼失。
- 1638年(寛永15年) - 御殿・櫓・城門等が再建されるが、城主がいないため天守は再建されず。
[編集] 近現代
- 1868年(慶応4年) - 大政奉還に伴い、徳川慶喜の養嗣子徳川家達が駿府城に移り駿府藩主となる。
- 1869年(明治2年) - 江戸が東京に、駿府が静岡に改名される。廃藩置県により、静岡藩(駿府藩から改称)知事徳川家達が東京に移る。
- 1889年(明治22年) - 静岡市に払い下げられ、公園となる。
- 1896年(明治29年) - 陸軍歩兵第三十四連隊の誘致に伴い、本丸堀は埋められ、城郭施設は全て取り壊される。
- 1949年(昭和24年) - 大蔵省より静岡市に再度払い下げ、公園として整備。
- 1989年(平成元年) - 巽櫓復元、資料館として公開。
- 1996年(平成8年) - 東御門復元、資料館として公開。
- 2006年(平成18年) - 日本100名城(41番)に選定。
[編集] 遺構
[編集] 移築建築物
駿府城のお万の居間が移築され、静岡県三島市にある玉沢妙法華寺の奥書院として現存している。これが駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 駿府城跡(静岡市公式サイト内)