岡崎城
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岡崎城 (愛知県) |
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岡崎城大手門 |
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通称 | 龍城 |
城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守構造 | 複合連結式望楼型3重3階 (鉄筋コンクリート造復興) |
築城主 | 西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代) |
築城年 | 享徳元年(1452年)(享徳4年説あり) |
主な改修者 | 松平清康、田中吉政 |
主な城主 | 西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏 |
廃城年 | 明治6年(1873年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 天守、門 |
位置 | 北緯34度57分22.71秒 東経137度9分31.7秒 |
岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にあった城で現在は岡崎公園として整備され、天守などが復元されている。別名、龍城。徳川家康生誕の地として有名である。
戦国時代から安土桃山時代には徳川氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。昭和の再建後、岡崎城周辺は岡崎公園として整備され、市民の憩いの場になっている。日本さくら名所100選に選ばれた桜の名所であり、名物の八丁味噌を使った田楽料理を食べられる店などがある。
目次 |
[編集] 概要
1452年頃、三河守護代の西郷稠頼(つぎより、つぐより、又は、ちかより)、そして、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城した。1531年に松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす。(守山崩れ) 跡を継いだ松平広忠は三河と松平一族を統御できず、東の今川、西の織田に挟まれて苦しみ、今川家に臣従し、子の竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出した。1549年、松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の属城として城代が置かれた。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると家康は岡崎城を取り戻し今川家から独立する。その後、織田信長と同盟を結び三河を平定する。 1570年、家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。1590年、家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入る。吉政は城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備した。また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備され現在の岡崎城の原型を造った。 1600年の関ヶ原の戦い後は、徳川譜代の本多康重が五万石で入城。徳川幕府の時代中は神君家康公誕生の城として重要視し、譜代大名の名門が城主を務めている。
[編集] 歴史・沿革
1452年または1455年に、龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。西郷信貞(松平昌安)から奪い取った松平清康によって、龍頭山の砦が改修拡張整備され、岡崎城とした。三河国名所図会には、岡崎は享禄(1528-1531)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、と記載されている。
- 1524年 松平清康が入城
- 1542年 城内で徳川家康が生まれる
- 1549年 今川家の属城となる
- 1560年 徳川家康が独立する
- 1590年 田中吉政が城主となる
- 1602年 岡崎藩が立藩され藩庁となる
- 1617年 三層の天守が完成する
[編集] 構造
菅生川と伊賀川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して作られている。
[編集] 岡崎の名前
岡崎城は、当初は、岡竒城と記された。また、三河国名所図会には、岡崎は享禄(1528-1531)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、と記載されている。
※解説 三河国名所図会(参河國名所図会) 夏目可敬の編著。1844年(弘化元年)〜1851年(嘉永4年)編纂。
[編集] 近現代
- 1869年 本多忠直が城主となる
- 1871年 廃藩置県により城内に額田県庁が置かれる
- 1872年 県の統合により県庁が名古屋市に移転
- 1873年 取り壊しが始まる
- 1959年 天守が復元される
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(45番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
- 2007年 マンション建設に伴う発掘調査によって石垣が見つかり、国内4番目の規模の城と判明した。
[編集] 大林寺郭堀跡の石垣の発見
現地を視察した城郭研究の第一人者である広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)によると、大林寺郭堀跡のこの石垣は、豊臣秀吉の命令で、1590年(天正18)に岡崎城主となった田中吉政が築いたと推定。野面の乱積みによる犬走りの構造は、1608年(慶長13)以前の形式であるためという。
当初、岡崎市教育委員会は、江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は1601年(慶長6年)に岡崎城主となった本多康重が主君家康の命令で整備した堀の一部であるとみていた。これまで岡崎城の外堀などの本格的な石垣は見つかっていない。
[編集] 歴代城主
- 1570年 松平信康(家康の長男)が城主となる
- 1590年 田中吉政が城主となる
- 1601年 本多康重が城主となる
- 1611年 本多康紀が城主となる
- 1623年 本多忠利が城主となる
- 1645年 本多利長が城主となる
- 1645年 水野忠善が城主となる
- 1676年 水野忠春が城主となる
- 1692年 水野忠盈が城主となる
- 1699年 水野忠之が城主となる
- 1730年 水野忠輝が城主となる
- 1737年 水野忠辰が城主となる
- 1752年 水野忠任が城主となる
- 1762年 松平康福が城主となる
- 1769年 本多忠粛が城主となる
- 1777年 本多忠典が城主となる
- 1790年 本多忠顕が城主となる
- 1821年 本多忠考が城主となる
- 1835年 本多忠民が城主となる
[編集] 遺構
[編集] 現存建物
北曲輪門が額田郡額田町の民家に、北門(二の門) 西尾市西浅井町の宿縁寺に、念沸堂赤門が市内東阿知和町謁播(あつわ)神社に、それぞれ移築され現存する。また、市内下青野町慈光寺に、太鼓楼を移築したものと伝わる建造物が残る。