松平康福
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 康福(まつだいら やすよし、享保4年(1719年) - 寛政元年2月8日(1789年3月4日))は、江戸時代中期の大名、政治家。老中、老中首座。はじめ5万400石だったが加増され6万余石となる。石見浜田藩主、下総古河藩主、三河岡崎藩主を経て再び浜田藩主。松井松平家6代。
浜田藩4代藩主・松平康豊の長男。正室は土岐頼稔の娘。娘に松平康定正室、田沼意知正室、大給松平乗保正室。官位は周防守・侍従。幕府では、奏者番、寺社奉行、大坂城代をへて、老中に抜擢される。
天明元年(1781年)、老中首座松平輝高が在任中死去し、その後を襲って老中首座となる。これまで勝手掛(財政担当)は老中首座が兼務する不文律があったが、田沼意次の強い意向で勝手掛は同列の水野忠友にまわされる。その埋め合わせとして天明5年(1785年)、1万石加増。封地は、浜田から古河、岡崎、再び浜田と、一代で国替を数度経験する。この間、娘を意次の子田沼意知に姻がせている。
天明6年(1786年)の田沼意次失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明8年(1788年)4月3日に免職される。
その後、従兄弟の松平康定に家督を譲って隠居し、寛政元年(1789年)2月8日に死去した。墓所:東京都港区虎ノ門3丁目(西窪)の天徳寺。
[編集] 経歴
- 1719年(享保4年) 生まれ
- 1736年(元文元年) 藩主相続、周防守
- 1749年(寛延2年) 奏者番
- 1759年(宝暦9年) 寺社奉行兼担。古河に転封
- 1760年(宝暦10年) 8月15日 大坂城代
- 1762年(宝暦12年) 9月晦日、三河岡崎に転封。12月大坂城代免ぜられ(9日)、西の丸老中拝命(11日)
- 1764年(明和元年) 本丸老中に転属
- 1769年(明和6年) 11月18日、石見浜田に転封
- 1781年(天明元年) 老中首座
- 1785年(天明5年) 1万石加増、都合6万400石。
- 1788年(天明8年) 4月3日、老中を免職、帝鑑間席。
- 1789年(寛政元年) 2月8日に卒(71歳)。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|