本多忠考
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時代 | 江戸時代後期から明治時代 | |||
生誕 | 文化2年(1805年) | |||
死没 | 明治12年(1879年)11月21日 | |||
別名 | 乙見敬次郎(幼名)、忠祥(初名) | |||
戒名 | 天誉晴空寿遷騰雲院 | |||
墓所 | 愛知県岡崎市能見町の源空寺 | |||
官位 | 従五位下、美濃守。中務大輔 | |||
藩 | 三河岡崎藩主 | |||
氏族 | 本多氏→乙見氏→本多氏 | |||
父母 | 父:本多忠顕、母:乙見氏 | |||
妻 | 正室:堀田正愛の娘 | |||
子 | 本多忠胤(長男)、水野忠誠(四男) 稲垣太清(六男)、娘(本多忠民正室) 娘(秋元志朝継室)、娘(松平勝行正室) 養子:本多忠民 |
本多忠考(ほんだ ただなか)は、三河岡崎藩の第4代藩主。忠勝系本多家宗家14代。
文化2年(1805年)、第3代藩主・本多忠顕の四男として生まれる。四男のため、はじめ母方の姓である乙見敬次郎を名乗っていた。文化11年(1814年)に本多姓に復し、本多忠祥と名乗る(のちに忠考と改名)。
文政4年(1821年)2月9日、父が隠居したとき、親藩から養子を迎えようという動きもあったが、家督抗争の末に忠考が家督を継ぎ、第4代藩主となる。このとき、従五位下、中務大輔に叙位・任官する。しかし文政11年(1828年)の矢作川洪水で2万石の損害と70人余りの死者を出すなど、藩財政の困難はさらに促進される。しかもこのような中で忠考は病弱で藩政が執れず、とても藩の窮境を打開できるような人物ではなかった。
また、実子の本多忠胤も病弱だったため、本多忠民を婿養子として迎え、天保6年(1835年)5月24日に忠民に家督を譲って隠居した。
明治12年(1879年)11月21日に死去。享年75。
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