秋元志朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代後期(幕末)から明治時代 | |||
生誕 | 文政3年3月8日(1820年4月20日) | |||
死没 | 明治9年(1876年)7月26日 | |||
別名 | 撰佐(幼名) | |||
墓所 | 東京都文京区大塚の護国寺 群馬県前橋市の光厳寺 |
|||
官位 | 左衛門佐、従四位下、但馬守、 刑部大輔、贈従三位 |
|||
藩 | 出羽山形藩主→上野館林藩主 | |||
氏族 | 毛利氏→秋元氏 | |||
父母 | 父:毛利広鎮 母:秋元永朝の娘・喜哉 養父:秋元久朝 |
|||
兄弟 | 福原越後、毛利元蕃、秋元志朝、 毛利元徳 |
|||
妻 | 正室:上杉斉定の娘・良 継室:本多忠考の娘・秀 |
|||
子 | 銑次郎、甚九郎、孫三郎、 養子:秋元礼朝 |
秋元 志朝(あきもと ゆきとも)は、出羽山形藩の第4代藩主。後に上野館林藩の初代藩主。館林藩秋元家10代。
文政3年(1820年)3月8日、周防徳山藩の第8代藩主・毛利広鎮の八男(次男とも)として生まれる。母が先々代藩主・秋元永朝の娘で、秋元氏と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父にあたる出羽山形藩の第3代藩主・秋元久朝の養子となる。天保10年(1839年)4月13日、久朝の隠居により家督を継いで第4代藩主となる。
弘化2年(1845年)11月30日、上野館林藩に移封される。安政2年(1855年)の安政の大地震を契機にして岡谷瑳磨介を登用して藩政改革を断行し、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である造士書院(求道院)を創設した。元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こると、毛利家と縁戚関係にあったことから江戸幕府から内通の嫌疑を受け、10月27日に養子の秋元礼朝に家督を譲って強制的に隠居させられることとなった。
しかしその後も藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めている。明治9年(1876年)7月26日に死去。享年57。
明治29年(1896年)に従三位を追贈された。
|
|
|
|
|
|