毛利広鎮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利 広鎮(もうり ひろしげ、安永6年9月21日(1777年10月21日) - 慶応元年12月16日(1866年2月1日))は、周防国徳山藩の第8代藩主。父は第7代藩主・毛利就馴(広鎮は次男)。母は関政富の娘・浄願院。正室は伊達村賢の娘、継室は秋元永朝の娘。側室に三宅博賞の娘ほか多数。兄に福原房純。妹に豊子(吉川経礼室)。子に、雅太郎(早世)、寛之進(広衷、早世)、鋭三郎(早世)、雍五郎(寿粛、早世)、堅田元琦(堅田就正の養嗣)、寧子(福原熙賢室)、福原元僴(福原親俊の養嗣)、毛利元蕃(徳山藩第9代藩主)、勅子(毛利元教室)、秋元志朝(館林藩・秋元久朝の養嗣、山形藩主→館林藩主)、毛利元徳(萩藩第15代藩主)など多数。幼名は徳太郎。名は就寿、広鎮と変える。通称・兵庫、のちに兵庫頭。官位は従五位下、大和守、のち日向守。
安永6年9月21日(1777年)、江戸今井谷の屋敷にて生まれる。天明4年6月10日(1784年)、就寿と名乗る。次男だったが、長兄の福原房純が家老の福原就清の養子となったため、寛政8年(1796年)9月24日、父の隠居により後を継ぎ、12月18日、従五位下・大和守に叙任した。文政12年5月15日(1829年)、名を広鎮と改め、10月11日、日向守に叙任。藩政においては医学館の創設などを行なって文武を奨励し、民政にも尽くした。その藩政における尽力を幕府からも認められて、天保7年4月(1836年)、萩藩主・毛利斉元の内願を入れて、城主格に任じられ、所領も4万石に加増された。
天保8年12月7日(1837年)、官職を辞して七男の毛利元蕃に家督を譲って隠居し、慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって徳山にて死去した。法号:承天院殿広州鎮裔大居士。墓所:山口県周南市舞車町の大成寺。
文化人としても優れており、「類題玉函集」という歌集がある。また、息子の多くが幕末期の著名人として有名である。
|
|
|