毛利就馴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利 就馴(もうり なりよし、寛延3年11月6日(1750年12月4日) - 文政11年3月20日(1828年5月3日))は、周防徳山藩の第7代藩主。父は第5代藩主・毛利広豊(就馴は十一男)。母は清光院。正室は関政富の娘。子に広鎮、娘(板倉勝意室)、娘(吉川経礼室)。幼名・専之助。名を就馴(初め「なりよし」、後に「たかよし」)、就友と変える。また、佐兵衛佐。号は政翁、または泰翁。官位は従五位下・大和守。後、石見守。
寛延3年11月6日(1750年)、江戸の今井谷邸で生まれる。宝暦14年2月22日(1764年)、先代藩主で兄の毛利広寛が早世し、他の兄は早世または既に他家を相続していたので、4月21日、その養嗣子として後を継ぎ、「就馴」と名乗る。生まれつき英邁闊達で、よく下情に通じて人民を愛し、家老・奈古屋蔵人を重用して治績を挙げる。また、藩士に命じて各家に伝来の古文書や系譜を呈出させ、藩祖・毛利就隆及び三代・毛利元次の詩文を編集して散逸を防ぐなど、大いに意を文事に用い、天明5年(1785年)には藩学「鳴鳳館」を創立して文教興隆の基礎を築く。寛政8年[9月24日 (旧暦)|9月24日]](1796年)、次男の毛利広鎮に家督を譲って隠居し、寛政11年3月26日(1799年)、病と称して帰邑の暇を請い、5月、下松の仮寓に入る。文化元年2月(1804年)、富田に別邸を設ける。文化4年9月23日(1807年)、名を就友と改め、文化13年12月23日(1816年)、総髪して政翁、また泰翁と号し、風月を友として悠々自適の日を送り、。文政11年3月20日(1828年)に富田の別邸で死去。享年79。法号:隆興院殿徳運全功大居士。墓所:山口県徳山市舞車の大成寺。
|
|
|