毛利斉元
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毛利 斉元(もうり なりもと、寛政6年3月24日(1794年4月23日) - 天保7年9月8日(1836年10月17日))は、長州藩の第12代藩主。父は第8代藩主・毛利重就の六男で、第9代藩主・毛利治親の弟に当たる毛利親著(顕徳院)。長男。母は心月院。正室は毛利斉熙の娘・由美子(蓮容院)。側室に原田氏、田代氏、山崎氏。官位は従四位上、左近衛権少将。子に幕末の有名な藩主・毛利敬親、娘・孝子(伊達宗徳室)、がいる。
寛政6年(1794年)3月24日生まれ。幼名は豊之允。当初、福原房俊の養子となり福原房昌と名乗った。文政2年(1819年)9月、藩主毛利斉熙の実子保三郎(斉広)が幼いため、繋ぎの当主とすべく藩主毛利斉熙の養嗣子となって叙任する。文政7年(1824年)2月27日の毛利斉熙の隠居により後を継ぐが、実権はなおも毛利斉熙に握られており、天保7年(1836年)9月8日に毛利斉熙の後を追うように死去した。享年43。後を養嗣子の毛利斉広が継いだ。法号:邦憲院殿慈峰大居士。墓所:山口県萩市椿東の東光寺。
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