稲垣太清
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稲垣 太清(いながき もときよ、天保11年9月11日(1840年10月6日) - 明治21年(1888年)9月20日)は、近江山上藩の第8代藩主。
三河岡崎藩主・本多忠考の六男。正室は稲垣太篤の娘。子は稲垣太祥(長男)、娘(松平某室)。官位は従五位下、正五位、若狭守。
万延元年(1860年)8月6日、先代藩主の太篤の隠居により、その婿養子となって後を継ぐ。幕末の動乱の中で大番頭や大坂定番、海軍奉行などの要職を歴任して佐幕派の立場を貫いたが、明治維新頃から太清が病に倒れ、長男の太祥が代理として藩政を執り始めた。そして明治2年(1869年)、版籍奉還で家督を太祥に譲って隠居し、明治21年(1888年)に49歳で死去した。墓所:群馬県伊勢崎市の天増寺。
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