水野忠輝
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水野 忠輝(みずの ただてる、元禄4年5月22日(1691年6月18日) - 元文2年7月2日(1737年7月29日))は、江戸時代中期の大名。三河国岡崎藩の5代藩主。忠元系水野家6代。水野忠之の次男。正室は井上可安(井上正任の子)の娘(井上正岑の養女)。子は水野忠辰(長男)、水野忠則(次男)、水野忠勧(三男)、娘(阿部正敏正室)。右衛門大夫、右衛門佐、大監物。
宝永元年(1704年)、将軍・徳川綱吉に初目見えし、従五位下右衛門大夫に任官。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せされた。元文2年(1737年)岡崎にて死去。後を長男・忠辰が継いだ。
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