P-47 (航空機)
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P-47 サンダーボルト
リパブリック P-47 サンダーボルト (Republic P-47 Thunderbolt) は米国リパブリック製のレシプロ単発戦闘機である。
第二次世界大戦当時、P-51と並びアメリカ陸軍航空軍 (USAAF) の主力戦闘機として活躍した。Jug(ジャグ)の愛称でも知られる。空中戦にも強かったが、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)として大いに活躍した。アメリカ以外の連合国の空軍でも使用された。
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[編集] P-43 から XP-47B まで
1939年6月、セバスキー エアクラフト カンパニーはリパブリック エイヴィエーション カンパニーへと社名を変更した。それまでセバスキーは、耳目にたる業績を上げていなかったが、この状況はまもなく変わることになる。
飛行中のエンジン火災によってターボチャージャー搭載の技術実証機AP-4は失われたが、この機体を気に入った米陸軍航空隊 (USAAC) は1939年5月にYP-43の制式名称で13機を発注した。しかし、USAACの要求を満たすには多くの改修が必要となり、YP-43の外見はAP-4とはずいぶん違ったものとなった。YP-43はプラット&ウィットニー(P&W)製 R-1830-35 ツインワスプを搭載した。これは空冷星形14気筒、ターボチャージャー付きのピストンエンジンで、出力は約1,200馬力だった。プロペラブレードは3枚。武装は機首に12.7 mm (0.50 in) 機関銃が2丁 + 左右の主翼に7.62 mm機関銃が1丁ずつ。コクピットのレイアウトは一新されたが、これは後に「レイザーバック」と呼ばれるようになる。
1940年9月から1941年4月にかけて、13機のYP-43が引き渡された。この間リパブリックは、YP-43により強力なエンジン(1,400馬力のP&W R-2180)を積んだXP-44 ロケットと、AP-10の開発に取り組んでいた。P-43の後継となるXP-44は39年10月に80機が発注された。AP-10は軽量戦闘機として設計され、アリソン製 V-1710 液冷エンジンを搭載し、2丁の12.7 mm機関銃を装備した。陸軍はこの計画を支援し、XP-47の制式名称を与えた。 リパブリックにとっては幸先のいいスタートだった。
だがヨーロッパの戦争がエスカレートし始めた1940年の春までには、XP-44とXP-47ではドイツの戦闘機にかなわないことが明らかになってきた。リパブリックはXP-47をわずかに改良したXP-47Aを提示したが、USAACには物足りないものだった。アレクサンダー・カートゥヴェリーは製図板に戻り、一見するとYP-43を大きくして改悪したようにも見える機体案をもちかえった。新たな設計は1940年6月にUSAACに提示され、9月にXP-47Bの名称でプロトタイプが発注された。一方、新設計とほとんど共通点のないXP-47Aの開発は中止された。
USAACは、XP-47Bの設計をにわかには信じられなかったと思われる。この機体は怪物だった。カートゥヴェリーはこう言ったらしい:「こいつは恐竜になるだろう。スタイルのいい恐竜にね」 XP-47Bの自重は約4,500 kgだったが、これはYP-43より65 %も重かった。新型機はP&W R-2800 ダブルワスプを動力とした。空冷星形18気筒(9気筒×2列)で、出力は約2,000馬力にも達した。胴体内に収納したターボチャージャーへはどっしりしたダクトが伸びていた。両翼内に4丁ずつ、計8丁の12.7mm機関銃は、当時としては異常なほどの大火力だった。
XP-47BこそUSAACが待ち望んだ機体だと言えた。そこでXP-47Aと同様XP-44の開発も中止されたが、新型機の生産開始まではすこし間があいてしまう。リパブリックの生産ラインを維持するために、航空隊はP-43を54機発注した。XP-47B開発計画には遅れが生じ、USAACはエンジンを若干改良したP-43Aをさらに80機発注した。さらなる遅れによってP-43A-1が125機発注された。A-1は中華民国へのレンドリースを意図したもので、12.7 mm 機関銃を4丁と自動防漏燃料タンクを備えていた。
1942年3月の最終号機までに、13機のYP-43Aを含めて全部で272機のP-43が引き渡された。 こうした機体が最終的にどうなったかはハッキリしていない。少なくとも51機が中華民国に渡り、何機かはクレア・シェンノートのフライングタイガースで運用された。しかし、ターボチャージャーと自動防漏タンクの信頼性が低かったため、使用された数はそう多くない。残りの機体はほとんどが写真偵察機に改造され、そのうちのごく少数はオーストラリアへ渡った。これらの機体は、1942年の秋にそれまでのP-43B・P-43C・P-43Dといった名称からRP-43へと改称され前線へでの航空偵察に使用された(Rはreconnaissance「偵察」の意味)。
戦闘機としても偵察機としても、P-43はほとんど戦闘に出会わなかった。P-43が果たした真に重要な役割は、よりよい機体への踏み石となったことと、XP-47Bを供給できるようになるまでの間、生産ラインを動かし続けたことくらいのものである。
[編集] XP-47B
XP-47Bは1941年5月6日にローリー・P・ブラバムの操縦で初飛行を行った。コクピットにすこし煙が発生するなど多少の問題はあったものの、この機体は素晴らしいということが判明した(煙はエンジンオイルが少しリークしたせいだった)。
XP-47Bは、巨大なダブルワスプとそのターボチャージャーを取り囲むように作られていた。AP-4をエンジンのオーバーヒートで失ったカートゥヴェリーは隙間のないカウリングをあきらめ、馬の首当てのような楕円形に開いた、幅広のカウリングでエンジンを覆った。このカウリングによってエンジン・左右のオイルクーラー・インタークーラーシステムの冷却が可能になった。
エンジンの排気はコクピットの両脇下方を通る2本のパイプによって後部へ導かれ、ターボチャージャーのタービンを駆動する。ターボチャージャーはコクピットと尾翼の中間あたりに位置する。フルパワー時には、パイプは赤熱する。ウェイストゲートシャッターが排気の仕分けを担当している。排気を直接外気へ逃がすか、高々度でエンジンの酸素が足りない状態のときにタービンへ導き、チャージャーを60,000 RPMで回すかのコントロールを行う。ターボチャージャーのインテイク(吸気口)には 胴体下部からダクトで吸気される。チャージャーで圧縮された空気はインタークーラーを通って冷却される。外気との熱交換で気温が下がると同時に空気密度が増加し、出力が増大する。インタークーラーを出た空気は胴体両側面を通って前方のキャブレター、エンジンへと向かう。
ダクトとターボチャージャーを配したことで、XP-47Bの胴体は太く大きなものとなった。同時に主翼もやや高めの配置となったが、これは問題だった。というのは、強力なR-2800エンジンの力を吸収するために直径の大きなプロペラを採用していたので、プロペラ先端と地面とのクリアランス(間隔)が取りづらかったのだ。翼が胴体の下の方にあれば、その分ランディングギア(脚)を短くできる。ギアが短いほうが軽量で翼のスペースを節約できる。カートゥヴェリーは主翼外側に機関銃を埋め込みたかったので、長大なギアは受け入れがたかった。結果として、メインギア(主脚)は23 cm伸び縮みする機構をそなえることになった。
XP-47B~P-47D | P-47Dの一部 | |
---|---|---|
メーカー | カーチス | ハミルトンスタンダード |
タイプ | 定速 | |
ブレード数 | 4枚 | |
直径 | 3.96 m ? | 4.01 m ? |
ガバナ | 電動 | 油圧 |
ブラウニング製の12.7mm機関銃を各翼外側に4丁ずつ、弾倉からの給弾のために互い違いに配置していた。各弾倉には銃弾を350ポンド、425発搭載した。自動防漏式の主・予備燃料タンクはコクピット下にあり、1,155リットル (305 USG)のガソリンを積むことができた(翼内タンクはまだなかった)。当時としてはかなりの量だったが、これでも不十分だったことが後に判明する。
コクピットは巨大なマシンにふさわしく広々としており、エアコンも備えていた。操縦席も快適だった。あるパイロットは後に「安楽椅子のようだよ」と評した。プロトタイプであるXP-47Bのキャノピィは上方に開くヒンジを備えていたが、これには故障が頻発した。尾翼の舵面(ラダー、エレベーター)が帆布張りの他は全金属製で、主翼のスパー(桁)は3本。この帆布張り舵面にも不具合が多かった。
[編集] P-47B / P-47C
[編集] XP-47Bの不具合
XP-47BはUSAAFに楽観と懸念の両方をもたらした(USAAC 陸軍航空隊は1941年6月にUSAAF 陸軍航空軍となった。参考:アメリカ合衆国空軍)。機体性能も火力も申し分なかったが、非常に革新的な設計であったため、初期不良に見舞われることとなった。
巨大なサイズと強力なパワーのせいで操縦は楽ではなかった。さらにXP-47Bは「地上が大好きなヤツ」で、離陸に長い滑走路を必要とした。他のタイプのP-47も同様だったが、さらにカートゥヴェリーが後に設計するジェット機でも変わらなかった。キャノピーは引っかかるし、機銃・燃料系統・エンジン配置にも問題があった。高々度では点火系統がアークしてしまった(※高空は空気密度が小さいために絶縁が不足し、充分な高電圧に達するよりも前、つまり望まないタイミングで点火プラグに火花が飛んでしまう)。動翼を動かすのに必要な操舵力は許容できないほど大きく、エルロンは固着してしまった。帆布張りの動翼は、高々度では壊れやすかった。
リパブリックはこうした問題に取り組んだ。緊急時には投棄可能なスライド式キャノピィ、与圧式の点火系統、そして全金属製の動翼などが解決策だった。エンジニアたちはこの「恐竜」を何とかうまく飛ばそうと忙しく立ち働いていたが、一方でUSAAFは、自分たちが本当にP-47を必要としているのだろうか、と自問していた。
[編集] P-47B発注される
答えはイエスで、航空軍は171機のP-47Bを発注した。技術試験用のP-47Bは1941年12月に引き渡され、量産試作型が翌年3月に続いた。初の量産型は1942年5月に引き渡された。
リパブリックは生産を開始する一方で設計の改良も続けた。初期のP-47Bには既にスライド式キャノピィが取り入れられており、同時にパイロットの視界も向上した。さらに、R-2800-21エンジン用に、ゼネラル・エレクトリック製の新型ターボチャージャー制御装置も備えていた。一方で、初期の機体では全金属製の動翼などいくつかの装備は標準でなかった。B型だけに特徴的な点がひとつあった。コクピット後方にある無線用支柱が、アンテナの長さを確保するために前傾していたのだ。これは新型のスライド式キャノピィ設置に伴う改修だった。
この飛行機には「サンダーボルト(Tunderbolt、雷電)」という愛称が付けられた。パイロットの間では同じくらい有名な「ジャグ (Jug)」という呼び方があった。これはヒンドゥー教の神のジャガーノートから来たといわれている。実際、サンダーボルトは損傷を受けながらも何度もパイロットを無事帰還させ、その働きは後に伝説となった。
最初のサンダーボルトは、リパブリックと同じロングアイランドにある第56戦闘航空群 (56th Fighter Group) へ引き渡された。56th FG は新型戦闘機の運用評価部隊だった。XP-47B同様、問題はなおも続いた。量産初期のP-47Bが急降下時に操縦不能になり、リパブリックのテストパイロットが死亡した。他にも、胴体尾部が崩壊してしまったりと、初期のP-47Bは何機もが墜落した。全金属製の動翼やその他の改修によって問題は解決したが、1942年8月、XP-47Bは飛行中に炎に包まれ、パイロットはベイルアウト(脱出)を余儀なくされた。
[編集] P-47C(B型の不具合是正)
機体をよく知るにつれ、USAAFは総合的には評価に値するとの決断をくだし、P-47Bの発注に続けてすぐに、改修型をP-47Cの名称で602機発注した。最初の機体は1942年9月に引き渡された。
初期のP-47CはBタイプによく似ていたが、以下の点が異なっていた:
- 強度が向上した全金属製の動翼
- GE製 ターボチャージャー制御器のアップグレード
- 短く、垂直に伸びた無線支柱
57機のP-47Cがつくられた後、生産はP-47C-1へ移行した。このタイプはコクピット前方で胴体を20 cm (8 in) 延長したもので、これによって重心位置の問題が解決した上、エンジン整備がしやすくなった。他にも、オイルクーラー排気口・ブレーキ・着陸装置・電気系統などに若干改修が加えられた。
55機のP-47C-1には128機のP-47C-2が続いた。-1との唯一の違いは胴体下部に取り付けポイントが設けられたことで、ここにはふつう200ガロン(757リットル)の増槽(ドロップタンク:投棄可能燃料タンク)が付けられた。あるいは、500ポンド (224 kg) 爆弾を搭載することもできた。
P-47Cの最多生産型はP-47C-5で、新型のウィップアンテナと、R-2800-59エンジンを装備していた。このエンジンは水メタノール噴射装置を備え、緊急最大出力は2,300 HP (1,700 kW) に達した。
[編集] B型の派生型
P-47BからはC型だけでなく、生産にまで至らない派生型がいくつか生み出された。偵察用のRP-47Bが1機つくられた。P-47Bの最終171号機はXP-47Eの名称でテスト用に使われた。P-47C-5用のR-2800-59エンジン・与圧コクピット・そして新型のハミルトン・スタンダード製プロペラを試験した。
後に別のP-47Bが性能向上を狙って層流翼型の主翼に換装され、XP-47Fと改称されたものの、たいした成果は挙げられなかった。
[編集] 実戦配備
1942年末までにはおおかたの不具合は解決された。前線配備が始まり、P-47Cがイギリスへ送られた。第56戦闘航空群 (56th Fighter Group) が第8航空軍に合流するために大西洋を渡った。第8航空軍 (Eighth Air Force) の第4・第78戦闘航空群(4th, 78th FG) もサンダーボルトを装備していた。
米国参戦前からイギリス空軍のイーグルスコードロン(第71鷲飛行中隊、第121鷲飛行中隊、第133鷲飛行中隊)の名称で戦っていたアメリカ人義勇兵の熟練パイロットは、米国参戦とともに第8航空軍第4戦闘航空群に移管され、スーパーマリン スピットファイアから大きなジャグに乗り換えることにはあまり乗り気ではなかった。事実、英国の同僚たちはこの巨大な戦闘機を目にして仰天した。「離陸すらできなさそうなのに、こいつで空中戦をやるだって?」
サンダーボルトに対して中立的な米国人パイロットはほとんどいなかった。嫌うか、愛するかのどちらかだった。悪い点としては、離陸滑走距離が長く、機動性も良くないことが挙げられた。ただし、高々度での機動性は割とよかった。あるパイロットは、まるでバスタブを飛ばしているようだと評した。エンジン停止状態での不時着は、楽しいものではなかった。 一方、頑丈で火力が強力なことは良い点だった。8丁の12.7mm機関銃は大量の鉛の弾丸を吐き出し、照準器に捕えられた不幸なターゲットは爆発か空中分解する運命にあった。
まるでレンガのように素早く急降下できることも、空中戦では有利な点だった。サンダーボルト相手に、急降下して離脱を試みることは自殺行為だった。P-47は急降下で楽に885 km/hに到達できた上、音の壁を突破したと主張するパイロットまでいた。だがこれは、速度計の指示が高速で不正確になったのが原因だったと考えられている。サンダーボルトのような重い航空機の急降下が素早いことは想像しやすいが、驚くべきことに、ドイツ軍機は上昇しても逃れることはできなかった。P-47は重く巨大ではあったが、そのR-2800エンジンとプロペラもまた巨大で、上昇率は素晴らしかったのである。ロールレート(横転率)も良かった。
P-47初の戦闘任務は1943年3月10日で、4th FGがフランス上空の戦闘機狩りに出かけたが、無線装置の故障により空振りに終わった。全機体が無線を英国製に交換し、4月8日に任務が再開された。4月15日、ルフトヴァッフェとの初の交戦が発生し、4th FGのDon Blakeslee少佐がサンダーボルトによる初撃墜を記録した。8月17日には初の護衛任務を行い、ドイツ シュヴァインフルトを空爆するB-17 フライングフォートレスの、最初の行程に随伴した。
1943年の夏までにはイタリアの第12航空軍もジャグを使用していた。太平洋戦線では、348th FGがオーストラリア ブリスベンからの護衛ミッションを行い、日本軍とも交戦した。
[編集] P-47Dと派生型
サンダーボルトの改良は続き、決定版となるP-47Dが誕生した。D型は12,602機も生産されたが、細かな改良が施されたサブタイプが多く、初期と末期の機体には明らかな違いが見られた。
最初期のP-47Dは、実質的ににP-47Cであった。ロングアイランド ファーミンデールの工場では生産が追いつかなかったため、インディアナ州 エヴァンズヴィルに新たな工場が建てられ110機のP-47Dが作られたが、それらはP-47C-2と全く同じものだった。ファーミンデール工場製の機体には-RE、エヴァンズヴィル工場製の機体には-RAの記号が付けられていたが、本記事中では特に必要のない限りは記述しない。
P-47Dには2工場の片方だけで、あるいは両方で作られた多くのサブタイプがあった。小さな改修点が多いが、ここでは重要な部分のみを取り上げる。注:最後のサブタイプはP-47D-40だが、途中で番号が跳んでおり、40種類のサブタイプがあったわけではない。
[編集] P-47D-1 ~ D-11
P-47D-1 ~ D-6・D-10・D-11は以下のような改修を受けた型である:
- カウルフラップの増加 → 前線で多発していたオーバーヒートの解消に大きく寄与
- エンジン換装とエンジンサブシステムの改良
- 燃料・オイル・油圧システムの改良
- コクピットに装甲板を追加
[編集] P-47D-15
航続距離増大を要求する現場の声に答えたもので、以下の点が変更された:
- 胴体内燃料容量が、1,421 リットル (375 USG) へ増大(XP-47Bは1,155リットル (305 USG))
- 両翼下にもドロップタンク(投棄可能な燃料タンク)を搭載できるようになった(胴体下にはすでに搭載していた)
タイプ | 容量 (L) | 容量 (USG) |
---|---|---|
金属製 | ||
コンフォーマルタンク (初期型・フェリー用) |
758 | 200 |
扁平菱形(?)・胴体下 | 758 | 200 |
涙滴形・翼下 | 284 | 75 |
涙滴形・翼下 | 568 | 150 |
樹脂含浸紙製(英国が設計) | ||
胴体下? | 409 | 108 |
胴体下 | 758 | 200 |
燃料容量の増大により、P-47は敵地深くへの侵攻ミッションをこなせるようになった。P-47D-15は、機体外部に全部で1,130 kg (2,500 lb)のペイロードがあった。
[編集] P-47D-16 ~ D-23
P-47D-16・D-20・D-22・D-23はD-15によく似ていたが、以下のような改良がなされた:
- 燃料系統、エンジンサブシステムの改良
- 投棄可能なキャノピィ(上方の窓)
- 防弾型風防(前方の窓)
一方、直径3.71 mのカーチス製プロペラは、以下のより大きなプロペラへと換装された:
- ロングアイランド工場:直径4.01 mのハミルトンスタンダード製プロペラに
- エヴァンズヴィル工場:直径3.96 mのカーチス製プロペラに
XP-47Bの時から、プロペラ先端と地面とのクリアランス(間隔)は問題となっていた。より大きなプロペラになったことで、パイロットは離陸時、プロペラが地面を打たないように、充分な速度に達するまでは尾部を下げておくように気を付けなくてはならなくなった。
[編集] P-47G
リパブリックの2工場が生産を続けていたが、陸軍航空軍はサンダーボルトの供給が不足してると感じ、カーチスがニューヨーク州バッファローの工場でライセンス生産を行うことになった。ほとんどのカーチス製サンダーボルトは高等練習機として運用するために作られた。
カーチス製機は全てP-47Gの制式名称がつけられ、さらにCurtissをあらわす「-CU」が末尾に付けられた。最初のP-47G-1はP-47C-1と全く同じだった。その後のP-47G-5、G-10、G-15はP-47D-1、D-5、D-10と同じだった。カーチスは354機のP-47Gを生産した。
2機のP-47G-15がコクピットを主翼前縁付近まで延長してタンデム複座に改造され、TP-47Gと命名された。主燃料タンクを縮小して2人目の座席が設けられた。このダブルボルトは生産には至らなかったが、前線で同様の改修を受けたものがタクシー(高官を送迎する時になどに用いる、高速連絡機)として使われた。
[編集] P-47D-25 ~ D-30
SI | ヤードポンド | |
---|---|---|
全幅 | 12.4 m | 40 ft 9 in |
全長 | 11.0 m | 36 ft 1 in |
全高 | 4.3 m | 14 ft 2 in |
空虚重量 | 4,850 kg | 14,600 lb |
運用重量 | 8,800 kg | 19,400 lb |
最大速度 | 690 km/h @高度9,000 m |
428 mph / 372 kt @高度30,000 ft |
実用上昇限度 | 12,000 m | 40,000 ft |
航続距離 ドロップタンク×3 |
3,060 km | 1,900 mi / 1,725 NM |
この時点までに作られたP-47は、全てが胴体後部に連なった「レイザーバック」タイプのキャノピーだった。これは真後ろがよく見えないという、空中戦では致命的ともなりうる欠点があり、パイロットの批判の的となっていた。英国も自国の戦闘機に同様の問題を抱えており、スピットファイアには上方へ膨らんだ「マルコムフード」と呼ばれるタイプのキャノピーを考案、採用していた。多くのP-51が前線でこのキャノピーに換装しており、ごくわずかのP-47Dにも適用されていた。
しかし英軍はよりよい解決策を思いついていた。360度に渡って良好な視界を確保できる、「バブル(水滴形)」キャノピーをタイフーンの生産途中から採用したのだ。USAAFはこれを気に入り、P-51とP-47を含む米国製戦闘機にも迅速に適用した。1943年夏に、初のバブルキャノピー付きジャグができあがった。P-47D-5の最終号機を改造したこの機は、XP-47Kと名付けられた。
一方、別の旧式なP-47Dが胴体内燃料を1,402 リットル (370 USG)へ増大する改修を受け、XP-47Lと命名された。
燃料容量を増大させ、バブルキャノピーを備えたタイプが生産に入り、これらはP-47D-25とされた。この後P-47D-26・D-27・D-28・D-30のバブルキャノピー機が続く。改良点は以下の通り:
- エンジンの改修
- 燃料容量の更なる増加
- エアブレーキの追加
- その他細々とした改修
[編集] P-47D-40
P-47D-40はP-47Dの最終型であり、重要な改修が施された。
- ドーサルフィン
- バブルキャノピィにするために胴体後上部が削られ、これによってヨー軸(横に首を振る動きの向き)が不安定になっていた。そのため初期のバブルキャノピィ機には前線でドーサルフィン(背ビレ)が追加されていた。P-47D-40は当初からドーサルフィンを備えた形で生産された。これは垂直尾翼下部から前方のアンテナ支柱まで伸びる、細長い三角形の安定板である。
- ロケットランチャー
- 「ゼロ・レングス」と呼ばれる、従来の空気抵抗の大きい長大なタイプに代わる、HVAR(High Velocity Air Rocket、127 mm ロケット弾)用のコンパクトな新型発射器が両翼下に10基取り付けられた。
- K-14 照準装置
- 英国 フェランティ製 GGS Mark IID 演算・ジャイロ式ガンサイトをライセンス生産したもの。パイロットがあらかじめ想定機の翼幅と自機からの距離をダイヤルで設定しておくと、射撃のタイミングがわかるようになっていた。旋回や上昇・下降しながらの、弾道が曲がって見える射撃(見越し射撃)時には大きな助けとなった。
- 参考外部サイト:K-14などの説明
[編集] 戦場のP-47D
各タイプのうちで最も重く、もっとも良くできたタイプであるP-47Dは、戦闘の矢面に立った。
[編集] ヨーロッパ戦線
1944年までには、アラスカ以外のUSAAFの全戦線にサンダーボルトが配備されていた。改良が進むにつれ燃料搭載量が増大したため、ボマー・エスコート(爆撃機護衛任務)での飛行距離も増大していき、ついにはドイツまでずっと同行できるようになった(それまで、爆撃機の護衛は複数の戦闘機隊によるリレー形式で行われていた)。
爆撃行からの帰り、パイロットたちは(地上の)格好の標的に向けて撃ちまくった。こうして、ジャグは強力な戦闘爆撃機であることが判明した。複雑なターボチャージャーシステムを備えていた割には損傷に強く、8丁の機関銃は敵に大きなダメージを与えることができた。
P-47は徐々にUSAAFで最良の戦闘爆撃機になっていった。500lb爆弾 → 3連装 M-8 115 mmロケットランチャ → そしてついにはHVARへと搭載兵器は強力になっていった。この任務で、ジャグは何千という戦車・機関車・駐機中の航空機、そして何万ものトラックその他の車両を破壊した。
最終的に護衛任務はP-51 マスタングに取って代わられたものの、空中戦でも優秀な成績を残した。たとえば、
といった具合である。サンダーボルトを乗機としたエースのうち、上位10人全員が大戦を生き抜いたという事実が、耐久性の高さを物語っている。
なお、ヨーロッパ戦線でのP-47は、しばしば地上の友軍から、 フォッケウルフ Fw190と間違われて誤射されるという被害を受けている。胴体が太いP-47と、胴体を絞ったFw190は、一見すると似ても似つかない機体に見えるが、P-47の胴体は縦方向に対して太いのであって、横方向にはさして幅がある訳ではなく、真下からのP-47の機影はFw190に似通っていたためこの様な事態が起きたものと見られる。
[編集] 欧州戦線以外での活躍
第二次世界大戦中、P-47は米国以外の連合国の航空部隊でも使用された。
RAF(ロイヤルエアフォース、英空軍)は1944年半ばからP-47を受領し始めた:
- サンダーボルト Mk. I:レイザーバックタイプのP-47D。240機
- サンダーボルト Mk. II:バブルキャノピィのP-47D。590機
評価試験に使われた数機をのぞいた全ての機体はRAFにより運用され、インドから飛び立ってビルマの日本軍を攻撃した。この作戦は「キャブ・ランク(cab rank、タクシー乗り場)」として知られている。サンダーボルトは500lb爆弾あるいは英国製「60パウンダー」ロケット弾で武装していた。戦後はわずかな期間しか運用されず、最後の機体は1946年10月に退役した。
ブラジル遠征軍は88機のP-47Dを受領し、イタリア戦線で運用した。メキシコは対日戦用に25機を受領したが、戦闘を行うことなく終戦を迎えた。自由フランス軍は1945年に446機のP-47Dを受領し、1950年代のアルジェリアでの暴動時に使用した。
203機のP-47Dがソビエト連邦に提供された。ソ連から亡命したグルジア人が設計した飛行機を共産主義者に贈るというのはある種の皮肉を感じさせる。それまで比較的小型で敏捷な機体に乗ってきたソ連パイロットたちが、巨大なジャガーノートにどんな反応をしめしたかには興味が持たれるところではある。しかしながら、ソビエトでのサンダーボルト運用の詳細は明らかになっていない。
[編集] D型以降の派生型
P-47Dは最も多く生産・運用されたタイプであり、サンダーボルトの生涯での頂点といえたが、さらなる改良の試みも存在した。
[編集] XP-47H
初期のDの機体にレイザーバックタイプのP-47Dにクライスラー製 XIV-2220-1 倒立V型液冷16気筒エンジン (2,500 HP) とC-5 ターボチャージャーを載せたXP-47Hが1943年に作られた。P-47系唯一の液冷装備型で最高速度790km/hを目指したが、巨大な直列エンジンはいい結果を出せず(666 km/h @高度 9,100 m)、XP-47H計画は終了した。
[編集] XP-47J
1942年11月、リパブリックに「ホット・ロッド(改造車)」バージョンの要求が出され、XP-47Jの開発が始まった。変更点は:
- 強制空冷ファン付きの、キツめのカウル
- P&W製 R-2800-57(C)エンジン
- GE製 CH-5 ターボチャージャー
- 水メタノール噴射による緊急最大出力:2,800 HP / 2,090 kW
- 機関銃を8丁から6丁へと減らした
- 新たに設計され、軽くなった主翼
その他多くの改良が加えられた。
機体は1機だけ作られ1943年11月26日に初飛行したが、この時点ですでにリパブリックはXP-72の開発へと移行しており、XP-47Jは主にテスト用に使われた。1944年8月5日には水平直線飛行で813 km/hを記録する(@高度10,500 m)など世界屈指の高速ピストンエンジン機と言えたが、既に設計が始まっていたジェット機の方が高速なのは明らかで、XP-47Jの開発は終了した。
[編集] P-47M
P-47Mはやや保守的な設計で高速を狙ったものだった。3機のP-47D-30が、R-2800-57(C)とCH-5を搭載し、爆弾取り付けポイントを無くす改造を受け、プロトタイプのYP-47Mとなった。
YP-47Mの性能は素晴らしく、最大速度761 km/hに達した。ドイツによる新たな脅威、V1飛行爆弾(巡航ミサイル)とジェット戦闘機に対抗するため、直ちに生産が開始された。P-47Mは130機製造され、最初の機体は1945年1月にヨーロッパの56th FGの元へ到着したが、前線では多くの問題がわき出した。問題が解決された4月には欧州戦線は終結しかかっていたが、Me 262を撃墜する戦果を挙げている。
[編集] P-47N
P-47Nは太平洋戦線での使用を想定したもので、サンダーボルトの最後の生産型となった。ボーイング製の戦略爆撃機、B-29 スーパーフォートレスによる日本本土爆撃に同行・護衛する戦闘機が必要だったが、長い航続距離が必要だった。サンダーボルトは進化に合わせて胴体内タンクとドロップタンクの燃料容量を増大させ、航続距離も伸びてきていたが、さらに燃料を詰め込むには主翼内にタンクを増やすしかなかった。それまでとは完全に異なるタイプの主翼が作られ、片翼に190リットル (50 USG) の燃料タンクが収められた。
YP-47Mの2号機がこの新型主翼に換装され、1944年9月に初飛行した。改設計は成功で、航続距離は3,200 kmに伸びた。さらに、主翼のスパン(翼幅)を500 mm延長したにもかかわらず、翼端を楕円形から四角形に変えたことでロールレート(横転率)が向上した。
出力を増大させたR-2800-77(C)エンジンを搭載して、P-47Nの大量生産が開始された。最初のタイプはP-47N-1で、N-5・N-15・N-20・N-25と続いた。この間、ドーサルフィン面積の増大やアンテナの増設などの小規模な改修がなされた。P-47Nは合計1,816機生産された。最後のサンダーボルトとなるP-47N-25は、1945年10月に生産ラインを離れた。さらに数千機の発注があったのだが、8月の終戦時点で基本的に生産は終了していた。生産終了時点での機体単価は83,000 米ドル(1945年時点での)だった。
太平洋戦線向けに設計されたP-47Nだったが、初期に生産された機体は英国へ送られた。しかし十分な働きを示す前に欧州戦線は終結した。1945年の春、沖縄の伊江島と硫黄島に到着したP-47Nは予定どおり護衛任務を開始したが、戦闘爆撃任務に使用されることの方が多かった。
[編集] 終着点、XP-72
生産に至らなかった派生型のなかでも興味深いものにXP-72がある。スーパーサンダーボルトとして設計されたこの機体は、ピストンエンジン戦闘機の限界を押し広げようとするものだった。XP-72の動力は、28気筒(7×4列)のP&W製空冷星形エンジン R-4360-13 ワスプ・メジャーで、高々度出力が3,450 HP (2,570 kW)という強力なものだった。2機が試作され(1号機が4翅。2号機は6翅コントラ・プロペラ)、最大速度は790 km/hに達した。ドイツのV-1ミサイルに対抗させる目的で100機の発注を得たが、やはりジェット機ほどの性能は得られないということで終戦時に廃棄処分となった。
[編集] スペック (P-47D)
- 出典:USAF Museum
- 乗員:パイロット 1名
- 全長:11.0 m
- 全幅:12.4 m
- 全高:4.47 m
- 翼面積:29.92 m²
- 空虚重量:4,800 kg
- 運用時重量: kg
- 最大離陸重量:7,942 kg
- 動力:P&W R-2800 エンジン×1
- 出力:2,430 HP
1,813 kW - 最大速度:697 km/h
- 巡航速度:563 km/h
- 航続距離:1,657 km
- 実用上昇限度:12,800 m
- 上昇率:m/min
- 武装
- 機関銃:ブローニング M2 12.7 mm 機関銃 (425発) ×8
- 爆弾:2,500 lb (908 kg)
- ロケット弾:5 in (127 mm)×10
[編集] 戦後
P-47は、1948年からはF-47として、1949年まで米空軍(※)で、1953年まで州空軍 (ANG = Air National Guard) で運用された。
- ※陸軍航空隊 (USAAF = United States Army Air Force) は1947年に空軍 (USAF = Unitd States Air Force) となった。
多くのラテンアメリカ諸国の空軍にも供給され、1950年代をとおして運用された。なかには1960年代まで運用していたところもある。少数が中国・イラン・トルコ・ユーゴスラビアにも提供された。
P-47の総生産数は15,660機で、これは戦闘機の生産数としては屈指のものである。2004年現在も多くの機体が残っており、飛行可能なものも数機ある。
[編集] 年表
1939年
- 5月:AP-4がUSAAFによりYP-43の制式名称で13機発注される
- 6月:セバスキーがリパブリックへと社名を変更
- (6月6日:ドイツがポーランドへ侵攻、第二次世界大戦開始)
- 10月:P-43の後継となるXP-44が80機発注される
1940年
- 春:XP-44とXP-47ではドイツの戦闘機にかなわない → XP-47Aを提示、却下
- 6月:XP-47B案がUSAACに提示される
- (夏~秋:バトルオブブリテン)
- 9月:XP-47Bの名称でプロトタイプが発注される → XP-47A、XP-44の開発は中止
- 9月から1941年4月にかけて:13機のYP-43が引き渡される
- XP-47B開発計画の遅れ → P-43Aが80機発注される
- さらなる遅れ → P-43A-1が125機発注される
1941年
1942年
- 3月:P-43の最終号機が引き渡される
- 8月:事故でXP-47Bが失われる
- 9月:P-47C初号機が引き渡される
- 秋:P-43B・P-43C・P-43D → RP-43へと改称
- 11月:XP-47Jの開発が始まる
- 年末:不具合が片付き、P-47Cと56th FGがイギリスへ
1943年
- 3月10日:初の戦闘ミッションに出撃するが、無線の故障で失敗
- 4月8日:任務再開
- 4月15日:ルフトヴァッフェと初交戦、初撃墜
- 6月:XP-72が発注される
- 夏までに、イタリアの第12航空軍に配備される
- 夏:初のバブルキャノピィ付きP-47
- 8月17日:初の護衛任務(B-17のシュヴァインフルト爆撃に随伴)
- (9月8日:イタリア降伏)
- 11月26日:XP-47Jが初飛行
- 年末までに、アラスカ以外のUSAAFの全戦線に配備される
1944年
- 2月2日:XP-72の初号機が初飛行
- 7月:XP-72の2号機が初飛行(2重反転プロペラ = 3翅×2 装備)
- 半ばから:RAFに配備開始
- 8月5日:XP-47Jが水平直線飛行で813 km/hを記録する(@高度10,500 m)
- 9月:P-47Nの原型が初飛行
1945年
- この年、自由フランス軍が446機を受領
- 1月:欧州の56th FGがP-47Mを受領するが、不具合が多発
- 4月:P-47Mの不具合が解消される
- 4月以降:P-47Nが対日戦線に投入される
- (5月8日:欧州戦線終結)
- (8月15日:太平洋戦線・第二次世界大戦終結)
- 10月:最終号機が生産される(タイプはP-47N-25)
1946年以降
- 1946年10月:RAFから退役
- 1948年:F-47と改称される
- 1949年:USAFから退役
- 1953年:ANGから退役
- 1950年代:南米諸国が運用。アルジェリアでの暴動時にフランスが使用
- 1960年代:一部の国が運用
- 2000年代:かなりの機数が存在、数機が飛行可能
[編集] 参考文献
- P-47 Thunderbolt in Action, by Larry Davis, Squadron/Signal Publications (#67), 1984. Typical nice, detailed, somewhat untidy Squadron/Signal book, very good value for the price, and was the primary source for this document.
- American Warplanes of the Second World War, edited by David Donald, Airtime Publications, 1995.
- Fighters of World War II, by Charles W. Cain and Mike Gerram, Profile Publications, 1979.
- The Concise Guide to American Aircraft of World War II, by David Mondey, Chartwell Books, Inc., 1994.
- Roger A. Freeman 『P47サンダーボルト戦闘機隊:名戦闘機長ゼムケ大佐、語る』早川書房、第56戦闘航空群の戦績を語る、1994年、ISBN 4-15-207831-6
このページはGreg Goebelによる"The Republic P-47 Thunderbolt", version 1.1を基にしています。パブリックドメインのオリジナル版 (v1.2.0 / 01 jun 03) は[1]にあります。
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
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