黒川紀章
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黒川 紀章(くろかわ きしょう、1934年(昭和9年)4月8日 - 2007年(平成19年)10月12日)は、日本の建築家。正四位旭日重光章受章。[共生新党]]党首。日本芸術院会員。日本会議代表委員。株式会社黒川紀章建築都市設計事務所元代表取締役社長。
夫人は女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之(弟の妻はコーディネーターの加藤タキ)。前妻との間に1男1女。
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[編集] 来歴
愛知県海部郡蟹江町生まれ。1953年、東海高校卒業。1957年、京都大学工学部建築学科卒業。卒業設計の題目は「A Project for Shopping Center」であった。1964年、東京大学大学院建築学専攻博士課程単位取得退学。 1962年株式会社黒川紀章建築都市設計事務所設立。1969年には株式会社アーバンデザインコンサルタントと社会工学研究所を設立。
槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に、丹下健三の門下生(丹下研究室出身)の建築家である。1960年代に建築理論メタボリズムを浅田孝らと提唱した。メタボリズムに基づいた増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービル(1972年)などの作品がある。
博士課程時代の数々の構想案や、大阪万博(1970年)のパビリオンの設計で国際的に名を知られるようになり、海外での作品も数多い。
2007年4月の東京都知事選挙、同年7月29日の参院選に出馬(後述:#政治活動参照)。いずれも落選だったが、バラエティー番組への出演と合わせて、話題を呼んだ。しかし、そのわずか2ヵ月後の同年10月12日午前8時42分、多臓器不全(本人の公式ページでは心不全)のため東京女子医科大学病院で死去。享年74(満73歳没)。夫人によれば、前日11日に同病院で診察を受けたところ、検査入院を勧められて入院したばかりだったという。戒名は至聖院範空功道居士
日本会議代表委員。他にアメリカ建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、日本景観学会会長、ブルガリア建築家協会名誉会員、フランス建築家協会正会員、カザフスタン建築家協会名誉会員、ロシア建築アカデミー外国人会員などを務めた。
[編集] 主な作品
- 寒河江市役所庁舎(山形県寒河江市、1967年)
- 大阪万博のパビリオン数点(東芝IHI館、タカラビューティリオン、空中テーマ館、1970年)
- 佐倉市役所庁舎(千葉県佐倉市、1971年)
- 中銀カプセルタワービル(東京都中央区銀座、1972年)
- BIG BOX(東京都新宿区高田馬場、1974年)
- 福岡銀行本店(福岡市中央区天神、1975年)
- ソニータワー(大阪市中央区心斎橋筋、現存せず、1976年)
- 嬉野温泉和多屋別荘タワー館(佐賀県嬉野市、1977年)
- 国立民族学博物館(大阪府吹田市、千里万博公園、1977年)
- 日本赤十字社本社(東京都港区芝大門、1977年)
- 石川厚生年金会館(石川県金沢市、1977年)
- 長崎新聞本社ビル(長崎県長崎市、1980年)
- 埼玉県立近代美術館(埼玉県さいたま市浦和区、1982年)
- 国立文楽劇場(大阪市中央区日本橋、1983年)
- 吉運堂本社(新潟県新潟市南区、1985年)
- ベルリン日独センター(ドイツベルリン、1988年)
- 広島市現代美術館(広島県広島市、1989年)
- WINS銀座(東京都中央区銀座、1990年)
- 沖縄県庁舎(沖縄県那覇市泉崎、1990年)
- 三起商行本社(大阪府八尾市、1991年)
- 奈良市写真美術館(奈良県奈良市、1991年)
- きびプラザ(岡山県吉備中央町、1992年)
- パシフィック・タワー(フランスラ・デファンス、1992年)
- 和歌山県立近代美術館(和歌山県和歌山市、1994年)
- 和歌山県立博物館(和歌山県和歌山市、1994年)
- 愛媛県総合科学博物館(愛媛県新居浜市大生院、1994年)
- 福井市美術館(アートラボふくい、福井県福井市、1996年)
- ソフトピアジャパンセンタービル(岐阜県大垣市、1996年)
- クアラルンプール国際空港(マレーシアクアラルンプール、1998年)
- 新首都アスタナ計画(カザフスタン・アスタナ、1998年-2030年完成予定)
- ゴッホ美術館新館(オランダアムステルダム、1999年)
- フラワーヒルミュージアム(和歌山県紀の川市、1999年)
- 豊田大橋(愛知県豊田市、1999年)
- 大阪府立国際会議場(大阪市北区中之島、2000年)
- 福井県立恐竜博物館(福井県勝山市、2000年)
- 豊田スタジアム(愛知県豊田市、2001年)
- 九州石油ドーム(大分県大分市、2001年)
- 鄭東新区マスタープラン(中国河南省鄭州市、2003年-2020年完成予定)
- 世知原温泉くにみの湯 山暖簾(長崎県佐世保市、2004年)
- 長崎歴史文化博物館(長崎県長崎市、2005年)
- パルティせと(愛知県瀬戸市、2005年)
- 吉運堂新発田店(新潟県新発田市、2005年)
- アスタナ新国際空港(カザフスタン・アスタナ、2005年)
- 国立新美術館(東京都港区、2006年)
- 大口中学校(愛知県丹羽郡、2007年)
- 大阪府警察本部(大阪市中央区大手前、2008年)
- Zenit Stadium(サンクト・ペテルブルク、2009年完成予定)
※1979年に開業した日本初のカプセルホテルを設計したのも、黒川である。
[編集] 賞詞
- 1965年 - 高村光太郎賞
- 1978年 - 毎日芸術賞
- 1986年 - フランス建築アカデミーゴールドメダル
- 1988年 - リチャード・ノイトラ賞(米国)
- 1989年 - 世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章
- 1990年 - 日本建築学会賞
- 1992年 - 日本芸術院賞
- 2002年 - 国際都市賞(スペイン、メトロポリス協会)
- 2006年 - 文化功労者
- 2007年 - 正四位旭日重光章(逝去後の叙位・叙勲)
[編集] 建築家として
他の丹下研究室出身の建築家と同様、“都市”について意識的な建築家である。東京計画1960は磯崎新とともに主担当。それまで、丹下研究室での設計実務も磯崎とともに極力拒否していた。実際、1959年戸山ハイツ計画案、1962年磯子団地計画、1964年札幌大通公園改造計画、1965年丸亀都市計画、1966年の愛知県菱野ニュータウン基本計画、1967年の藤沢市西部開発湘南ライフタウン、1968年佐倉市都市計画策定、北湘南開発基本計画、1970年小田急奥蓼科あけぼの計画インスタントビレッジ、1971年清川村総合計画、鳥取駅前再開発、国鉄飯田町操車場再開発基本構想、1973手稲山総合開発計画、1974年南青山一丁目再開発計画、イタリアヴァスト市とサンサルヴォ市都市計画のほか、カザフスタン新首都アスタナ計画、中国では鄭州市のマスタープランなども手がけている。ポンピドゥ・センターコンペではドミノ1971を提案し、大阪府立国際会議場ではスーパードミノ2000を提案した(GA JAPAN 44)。
[編集] 主な都市構想
- 1959年 - 新東京計画案-50年後の東京
- 1960年 - 垂直壁都市
- 1960年 - 農村都市計画
- 1961年 - 東京計画1960サイクルトランスポーテーションシステム
- 1961年 - 霞ヶ浦計画
- 1961年 - 丸の内業務地域再開発計画
- 1961年 - 東京計画1961<ヘリックス計画>
- 1962年 - 箱型量産アパート計画
- 1962年 - 西陣地区再開発計画
- 1965年 - メタモルフォーゼ計画1965
- 1966年 - 山形HD計画
- 1976年 - 吉備高原都市計画
- 1987年 - 東京2025計画(グループ2025)
- 1989年 - ニーム副都心計画
[編集] 政治活動
かねてから右派系政治団体「日本会議」で代表委員を務めるなど、保守派の論客として知られていた。2007年の東京都知事選挙(4月)、第21回参議院議員通常選挙(7月)に出馬したが落選。老齢な世界的権威の初出馬は多くの者にとって唐突かつ奇異な印象を与えたが、派手なパフォーマンスが世間の注目を集め、TVでの露出も増え、「バラエティの宝」とも言われた。
都知事選出馬表明の約8か月後に世を去ったため、一連の政治活動とメディア出演は死期を悟った上での行動だったのではないかとも言われる。なお、建築家磯崎新は黒川の死後、彼の立候補によるアイデア表明はメディア型建築家として当然のことと見做し「(都知事選の)マニフェストは群を抜いていた」「そのアイデアは誰かが実現させることだろう」と述べた。[1]
また、死の直前に収録したいつみても波瀾万丈では、青年時代から政治に対する情熱があり、日本の将来を案じていることを涙ながらに語る場面もあった。
[編集] 概要
[編集] 東京都知事選
[編集] 経緯
2007年2月21日、「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目に余る」と2007年東京都知事選挙に出馬を表明。本人は石原を応援していた8年前から出馬を考えていたと発言した。3月16日には共生新党を立ち上げた。
主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数:159,126、得票率:2.9%)。結果的に得票数は少なく泡沫候補とも変わらないような状態だった。多くの評論家、ジャーナリストから「なぜ出たのか分からない」、「本気だったのか分からない」、「金持ちの道楽」と言われるなど、立ち位置が分かりにくかったことが敗因ではないかと思われる。
選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れるなど、政治への熱意がさめやらぬ様子であった。
選挙の2日後には共生新党として参院選に挑戦する意志があることを明らかにした。
[編集] マニフェスト
以下は2007年3月5日に都庁で発表したマニフェストである。
- 任期中の給与は1円。
- 東京都庁舎や、江戸東京博物館、東京国際フォーラムの民間売却。
- オリンピック招致中止。
- 日の丸・君が代の強制を改める。
- 築地市場の豊洲新市場移転には反対。
- 東京23区の市昇格を行ない、行財政権力を強化する。
- 首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす。
都知事選立候補時の記者会見では自らの政治思想について反金儲け主義・共生主義と表現し、社会主義に近いとも発言している。
[編集] パフォーマンス
- 自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用、クルーザーから手を振る、ヘリコプターで都知事選候補者では初めて離島へ向かうなどの選挙活動を黒川自らが「陸海空作戦」と称した。当初は飛行船から桜吹雪を撒き散らすというアイデアもあったが、選挙管理委員会の許可が降りなかった。
- 他の主要候補者が演説している場所に突然現れ、対話しようとする選挙活動を一部のメディアが「奇襲作戦」と称した。選挙戦の最終日は新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、「石原裕次郎の名前を出さないと当選できない石原慎太郎さんには、この歌を送ります」といい、石原裕次郎の名曲『銀座の恋の物語』を歌った。
- 目立つ行動を印象に残したが、決してパフォーマンスのみに固執しているわけではなく、都政の個別の案件を独自の専門的な視点で批評するなど、堅実な姿勢も見られた。
[編集] 参議院選挙
結果
- 黒川-得票70275、投票率1.16%
- 共生新党-得票総数146,986.951、得票率0.25%
主張
- 命を守る安全な日本をつくります。
- 老後も安心して生活できる年金、医療、福祉を最重点政策とします。
- 格差の是正
- 教育
- 経済と文化の共生
[編集] 2007年のTV出演
- TVトーク番組『おしゃれイズム』出演時(2007年4月29日)に、ビジネスジェット機のHondaJetの購買予約(受渡日は未定)を入れていることを語った。また、「“ニューヨークヤンキース”も買えちゃうんじゃないですか?」という問いに「ヤンキースは無理だけど、他の球団なら…」とも発言した。
- バラエティー番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』にも出演、冗談交じりのトークで場内を沸かした(「私の年収は200億円だ」など)。
- 2007年7月30日、TVバラエティ番組『SMAP×SMAP』に出演、「SMAPが家を建てる時は無料で設計する」と数度繰り返し約束。また、「その際には必ず奥さんと一緒に頼みに来ないと受けない」とも語った。理由は「家は奥さんの希望通りに作った方がいい。うまくいくことが多いんで」。また、「一般家屋に必要なものは何でしょうか?」と聞かれ「“個人の部屋”。自分の部屋を持つと個性が出せる。お父さんには書斎を作ってあげること。そしてお母さんにも自分の部屋を。それが一般家屋の理想。日本では難しいけれど…」と、黒川には珍しい一般家屋設計についての発言となった。
- TV討論や単独インタビューでは、椅子に座って斜めに構える、一定のポーズで頬に手を当て発言やメモをするなど、独特の雰囲気を醸し出している。
[編集] 人物・エピソード
- 黒川がファンだった若尾文子とテレビ番組「すばらしき仲間」で共演(1976年)、その時に若尾の美しさをバロック芸術(肯定と否定の矛盾)にたとえた。番組をきっかけに交際が始まり、黒川と前妻の離婚が成立した1983年に若尾と結婚。再婚同士だった。
- 日本文化デザイン会議では黒ずくめの服装で日本刀を持ち込み「僕はいつも、明け方三時にこれ(日本刀)を抜いて、自宅近辺を走ってますよ。刀を抜いて着物で走るという“実戦”の訓練を昔からやっているんです」(週刊文春 2007年3月8日号)と発言するも、真相のほどは不明。
- 黒川は黒を好む人物として知られており、1960年代に黒を流行らせたと自負している。また、「黒の服しか着ない」と述べており、初めて買ったポルシェの色も黒で、自身の事務所のワークステーション(事務機器)も黒である。その他、IBMのロゴに対して、三色を使っていることと斜めを向いていることに対して、「いわれにこだわりすぎ」と述べるほどである。[2]
- 講談社が1969年4月に「キミたち若者が選んだ現代のヒーロー」に、幾人かとともに選出。サンデー毎日1970年12月では「街で聞いたカッコいい男」では12位。週刊読売1971年2月人気投票では3位。週刊ポスト1970年2月27日号「女子大生がシビレる建築界の鉄腕アトム 黒川紀章」という記事が載る。1989年10月文藝春秋「エリート100人が選んだ日本の最強内閣」では建設大臣に指名されている。1990年日刊建設通信のアンケート「好きな建築家」で1位。
- 本名は紀章(のりあき)。1960年代に出版された「プレハブ住宅」では、紀章(のりあき)と書かれている。1960年代に呼び名だけ改名した模様。
- 亡くなる二日前、妻の「あまり良い奥さんじゃなかったわね」という言葉に対して「そんなこと、そんなこと…本当に好きだったんだから」と答えたのが妻と2人で交わした最後の言葉とされる。[3]
- 台風で甚大な被害を受けた高千穂鉄道の再建のため、同鉄道から施設の継承を予定している高千穂あまてらす鉄道(当時は神話高千穂トロッコ鉄道)に数億円規模の寄付を行う意向を示していたが、急逝し話は無くなった。高千穂あまてらす鉄道は計画の変更を余儀なくされている。
[編集] 主な著作
- 「日本まさに荒れなんとす」(共著:C.W.ニコル、2001年、致知出版社)
- 「Each One A Hero」(1997年、講談社インターナショナル)
- 「黒川紀章 - 都市デザインの思想と手法」(1996年、彰国社)
- 「新・共生の思想」(1996年、徳間書店)
- 「黒川紀章ノート」(1994年、同文書院)
- 「都市デザイン」(1965年、1994年、紀伊國屋書店)
- 「建築の詩」(1993年、毎日新聞社)
- 「黒川紀章作品集」(1992年、美術出版社)
- 「共生の思想 増補改訂」(1991年、徳間書店)
- 「花数寄」(1991年、彰国社)
- 「黒川紀章2 1978 - 1989」(1991年、鹿島出版会)
- 「建築論2」(1990年、鹿島出版会)
- 「新遊牧騎馬民族ノマドの時代 情報化社会のライフスタイル」(1989年、徳間書店)
- 「TOKYO大改造」(共著:グループ2025、1988年、徳間書店)
- 「共生の思想」(1987年、徳間書店)
- 「黒川紀章著作集(全18巻)」(2006年、勉誠出版)