ティレル
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参戦年度 | 1970 - 1998 |
---|---|
出走回数 | 430 |
コンストラクターズタイトル | 1 (1971) |
ドライバーズタイトル | 2 (1971, 1973) |
優勝回数 | 23 |
通算獲得ポイント | 621 |
表彰台(3位以内)回数 | 77 |
ポールポジション | 14 |
ファステストラップ | 20 |
F1デビュー戦 | 1970年カナダGP |
初勝利 | 1971年スペインGP |
最終勝利 | 1983年アメリカ東GP |
最終戦 | 1998年日本GP |
ティレル(Tyrrell Racing Organization Ltd.)は、かつてF1に参戦していたコンストラクター。1970年代の日本ではタイレルと表記されていた。 若手ドライバーが所属することも多く、ジョディー・シェクター、ミケーレ・アルボレート、ジャン・アレジなどが初期のF1キャリアをティレルで過ごした。 中嶋悟を始めとする日本人ドライバーが在籍するなど、日本と縁の深いチームであった。創始者はケン・ティレル。
目次 |
[編集] 沿革
[編集] 前身
材木商として成功し、F3レースに参加していたケン・ティレルが1960年にFJチーム、Tyrell Racing Organizationを結成。クーパーのマイナーフォーミュラチームとして活動し、ジャッキー・スチュワートやジャッキー・イクスらを輩出した。1968年には、マトラのセミワークスチーム、マトラ・インターナショナル(Matra International)としてF1に参戦。
愛弟子スチュワートを擁し、1969年のドライバーズ、コンストラクターズ両タイトルを制覇した。1970年にマトラと決別し、マーチのマシンを使用しつつ、コンストラクターとしての独立参戦を目指してデザイナーのデレック・ガードナーが極秘裏にマシンの開発を進めた。
[編集] 1970年代
1970年の第11戦カナダGPで突然オリジナルマシン001を登場させ、優勝争いに加わる戦闘力をみせて周囲を驚かせた。その実力は本物で、フル参戦初年度の1971年にいきなりダブルタイトルを獲得し、1973年にもスポーツカーノーズを採用した005でスチュワートがチャンピオンになった。ケン・ティレルとスチュワートの師弟関係、スチュワートと愛弟子フランソワ・セベールのコンビなど、結束力を武器にF1界の驚異的な新興勢力となる。しかし、1973年の最終戦アメリカGPの予選中にセベールが事故死し、このレースが丁度100戦目となるのを機に引退を決めていたスチュワートは、決勝レースに出走することなく引退した。
両ドライバーを失ったことで破竹の勢いは消えたが、ジョディー・シェクターが新エースとなり、パトリック・ドゥパイエと共に優勝戦線で活躍した。1976年には日本でも有名な6輪車P34を登場させ、再びF1界を驚かせる。同マシンは日本において折からのスーパーカー・ブームとも相まって、ラジコンやミニカー、スーパーカー消しゴムなどになり莫大な版権料をチームにもたらした。
その後、ロニー・ピーターソンやディディエ・ピローニなどもドライブした。しかし1977年には6輪車用のタイヤ開発が滞るなどして成績は低迷し、ナショナル・シティなどメインスポンサーの撤退で戦力は凋落傾向となった。
[編集] 1980年代
1980年代に入るとターボエンジンへの移行に乗り遅れ、苦戦を強いられた。しかし、ミケーレ・アルボレートが健闘し、DFVエンジンで1982年と1983年に市街地コースで2勝を挙げた。1983年の勝利はチームの最終勝利であると共に、F1界に一時代を築いた名機DFVエンジンの最後の勝利にもなった。アルボレートはこれらの活躍が認められ、フェラーリへ移籍した。
1984年は、前年までF3を戦っていた2名、マーティン・ブランドルとステファン・ベロフを抜擢し、前半戦はターボ勢に食い込む健闘を見せた。しかし、「水タンク事件」のため、全ポイント剥奪というペナルティを課された。ベロフは、翌1985年もティレルよりF1に参戦するが、並行して参戦していたWECのスパ1,000kmで、レース中にオー・ルージュコーナーでの事故で命を落とした。1985年から2年間はルノーターボエンジンを搭載したが、平凡なリザルトに終わった。
1989年からのターボエンジン禁止を受け、先駆けて1987年に自然吸気エンジンへ回帰。フォード・コスワース・DFZエンジン(3000ccのDFVを3500ccへ排気量アップ)に変更し、自然吸気エンジン搭載車を対象としたドライバーズ(ジム・クラークカップ)、コンストラクターズ(コーリン・チャップマンカップ)の両タイトルを獲得した。1988年は前年と同じ体制で戦ったが、成績は低迷した。
1989年にターボが禁止になり、同時にハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーとして迎え入れたことにより、ティレルは再浮上のきっかけを掴んだ。ポスルスウェイトは一時ザウバーに移籍したが、その後復帰しチームの消滅まで仕事を続けた。
この年に登場した「018」はフロントサスペンションのダンパーを通常の2本から1本に変更した「モノショック」を採用し、非力ながら軽量なコスワース・DFRエンジンと合わせ軽快な操縦性を備えていた。メキシコGPでは、チームに復帰したミケーレ・アルボレートが3位表彰台へ上がり、018のポテンシャルの高さを証明した。フランスGPからキャメルのスポンサードを得たが、マールボロの支援を受けていたアルボレートがチームから離脱することになった。その代役として国際F3000に参戦中のジャン・アレジが起用され、デビューレースで4位に入賞し、チームの躍進を象徴する存在となった。
[編集] 1990年代
1980年代末から1990年代前半まで、バブル景気を背景にF1界にジャパンマネーが流れ込んだ。ティレルは日本のドライバー、エンジンメーカー、スポンサーを積極的に導入し、体制の向上を目指した。
1990年、ポスルスウェイトがデザインし、中嶋悟とジャン・アレジがドライブしたティレル019は、現在のスタンダードであるハイノーズやアンへドラル・ウイングと呼ばれるアイディアを実現したものであった。軽快なマシンを駆り、アメリカグランプリでアイルトン・セナらとバトルを繰り広げるなど目立つ活躍を演じたアレジは、翌年フェラーリへ移籍した。この年は開幕戦の直前に、使用するタイヤを参戦以来使用していたグッドイヤーからピレリへ変更した。アメリカGPとモナコGPでアレジが2位を獲るなど荒れた路面では強みとなったが、それ以外のサーキットではタイヤパフォーマンスに苦しんだ。出来不出来の激しいシーズンだったが、地道にマシンセッティングを進め、アレジと中嶋の2人で計16ポイントを獲得した。
1991年にはブラウンがメインスポンサーとなり、前年マクラーレンのダブルタイトル獲得の原動力となったホンダV10エンジン(ホンダRA101E)の供給を受け、大きく期待されるシーズンとなった。ガソリンメーカーも、エンジン変更に伴いエルフからシェルに変更したが、マクラーレンが前年まで使用したV10用のスペシャルガソリンではなく、スタンダードなF1用ガソリンの供給だった[要出典]。緒戦のアメリカGPでこの年より加入したステファノ・モデナと前年から継続でドライブした中嶋がダブル入賞を果たした他、モデナがカナダGPで2位表彰台する活躍もあった。しかし、シャシーとのバランスと駆動系のトラブルにも苦しんだ。ピレリタイヤも安定した性能を発揮せず、12ポイントの獲得に留まった。メインスポンサーのブラウンとホンダのエンジン供給はこの年のみで終了し、中嶋悟はこの年をもって現役を引退した。
1992年はエンジンをイルモアV10に変更し、ドライバーはアンドレア・デ・チェザリスとオリビエ・グルイヤールの布陣でシーズンを戦った。前年のホンダよりも小型・軽量なエンジンを搭載したマシンはバランスが良く、また駆動系のトラブルも大幅に減った。ブラウンや中嶋悟の引退に伴う日本企業の撤退(カルビーとクラブアングルは継続)が響き資金難に陥るも、グルイヤールの持ち込み資金により何とかシーズンを終えることができた。シャシーは前年のティレル020をイルモアエンジン用にモディファイしただけの020Bであったが、チェザリスが8ポイントを獲得した。
1993年にラルースより片山右京が移籍(チームメイトは前年より引き続きのデ・チェザリス)。ヤマハからV10エンジンの供給を受け、日本たばこ産業(キャビン)など日本企業のスポンサーも獲得して資金事情は改善されたが、ハイテク競争の開発費には十分ではなく、車高調整システムも他のチームの様な「油圧式」ではなく「電動式」の為に、レース途中で車高システムの電源を落として走る事もあった。シーズン中盤まで3年落ちのマシン(020C)で戦うが、ニューシャシー021も失敗作となり、ノーポイントに終わった。
1994年も引き続きヤマハV10を搭載。日本たばこ産業がスポンサーブランドをキャビンからマイルドセブンへ変更し、チームカラーの白と爽やかなブルーの配色となった。この年はハイテク禁止とアイルトン・セナ死亡事故以後に車体レギュレーションが変更されたが、022はしばしば上位を掻き回す活躍を演じた。スペインGPでは1991年のカナダGP以来、ヤマハエンジンにとっては初めての3位表彰台をマーク・ブランデルが獲得した。1992年シーズン以来メインスポンサーがない状況は変わらなかったが、予選で度々上位に進出した。片山右京はドイツGPの序盤に2位を走行した。マイナートラブルで好機を逸する場面も多かったが13ポイントを獲得た。ヤマハエンジンは頻繁なアップデートにより通常想定される年間の伸び幅を大幅に上回るパワーアップを果たした[要出典]が、後半戦はトラブルが増えた。
1995年は、右京のチームメイトにミカ・サロを迎え、サロ絡みでノキアがメインスポンサーとなった。この年は、ハイドロリックサスペンションを開発し、実践投入したが、期待に反して熟成に手間取り、元の仕様に戻すなど5ポイントの獲得と低迷した。ちなみに右京はこの年のポルトガルGPのスタート直後に大クラッシュを起こし、翌戦を欠場している(代役はテストドライバーのガブリエル・タルキーニ)。ノキアはこの年のみでスポンサーを撤退した。
1996年には新開発となった超軽量コンパクト(重量は95kgと言われた)なヤマハV10エンジン(OX11A)を搭載するも信頼性とパワー不足に悩み、メインスポンサーが無い状況では十分な開発とテストが出来ずに、年間5ポイントに終わった。この年をもってヤマハエンジンとの契約が終了し、翌年以降はチームが消滅する1998年までフォード・コスワースエンジンを使用する事になる。
[編集] 消滅
1997年にはチームとして「ティレル2000」と銘打って2000年までに勝利とチャンピオンを獲得する事を目標として中嶋企画と提携し、元ドライバー中嶋悟をスポーティング・ディレクターに起用した。また高木虎之介とテストドライバー契約を結び、日本からの資金導入でチームの活性化を図った。右京はこの年よりミナルディに移籍、エンジンもフォードに変更されたが、モナコグランプリでミカ・サロが他のチームのリタイアに助けられ5位入賞した以外はノーポイントに終わり、これがティレルとして最後の入賞となった。シーズン前は「信頼性のあるフォードエンジンでより多く入賞出来る筈だから、車体は冒険をしないデザインで[要出典]」とシーズンに臨んだが、エンジントラブルが原因でのリタイアが多かった。またダウンフォース不足を少しでも補おうと、シーズン途中でサイドポンツーンの上にウイングを取り付け「Xウイング」と呼ばれた。
1998年のシーズン前に、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)などによる買収が発表された。しかし、この買収は新チームブリティッシュ・アメリカン・レーシングの参戦権を確保するためだけのもので、ティレルの人材や資産は引き継がれないものであった[要出典](実際には人材難でティレルに在籍していた一部の人間がBARへ再就職が出来た)。よって、この年を最後にティレルは名実ともにF1から消えることになる。また、前年に導入したXウイングを前提とした車造りをした[要出典]が、スペインGPを前にして禁止令が出た事で、想定していたエアロダイナミクスのバランスが崩れて、開発作業にとどめを刺された[要出典]形となった。またケン・ティレルは契約したかったヨス・フェルスタッペンが採用されなかった事に激怒し、チームを離脱した[要出典]。この年には虎之介がティレルからF1デビューし予選、決勝共に好走したが、結局チームにはレースに参加するだけで車の開発資金が無く[要出典]、ポイントも挙げることなくその歴史に幕を下ろした。ティレル公式サイトの、別れを告げる挨拶の文末には、「sayonara(さよなら)」と記されていた。
1999年には元デザイナーのハーベイ・ポスルスウェイト博士がホンダF1(HRD)のテストで訪れてたスペインバルセロナで死去、続いて2001年にはチーム創設者のケン・ティレルが亡くなった。
[編集] 変遷表
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | ティレル | 026 | G | フォードZETEC-R | エルフ | リカルド・ロセット 高木虎之介 |
10 | 0 |
1997年 | ティレル | 025 | G | フォードED | エルフ | ミカ・サロ ヨス・フェルスタッペン |
10 | 0 |
1996年 | ティレル・ヤマハ | 024 | G | ヤマハOX11A | エルフ | 片山右京 ミカ・サロ |
8 | 0 |
1995年 | ノキア・ティレル・ヤマハ | 023 | G | ヤマハOX10C | Agip | 片山右京 ミカ・サロ ガブリエル・タルキーニ |
9 | 0 |
1994年 | ティレル | 022 | G | ヤマハOX10B | BP | 片山右京 マーク・ブランデル |
7 | 0 |
1993年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 020C,021 | G | ヤマハOX10 | エルフ | アンドレア・デ・チェザリス 片山右京 |
13 | 0 |
1992年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 020B | G | イルモア2175B | エルフ | アンドレア・デ・チェザリス オリビエ・グルイヤール |
6 | 0 |
1991年 | ブラウン・ティレル・ホンダ | 020 | P | ホンダRA101E | シェル | 中嶋悟 ステファノ・モデナ |
6 | 0 |
1990年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 018,019 | P | フォードDFR | エルフ | 中嶋悟 ジャン・アレジ |
5 | 0 |
1989年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 017B,018 | G | フォードDFR | ユニパート | ジョナサン・パーマー ミケーレ・アルボレート ジャン・アレジ ジョニー・ハーバート |
5 | 0 |
1988年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 017 | G | フォードDFZ | エルフ | ジョナサン・パーマー ジュリアン・ベイリー |
8 | 0 |
1987年 | データ・ジェネラル・チーム・ティレル | DG016 | G | フォードDFZ | エルフ | ジョナサン・パーマー フィリップ・ストレイフ |
6 | 0 |
1986年 | データ・ジェネラル・チーム・ティレル | 014,015 | G | ルノーEF15、EF15B | エルフ | マーティン・ブランドル フィリップ・ストレイフ |
7 | 0 |
1985年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 012,014 | G | フォードDFY ルノーEF15 |
エルフ | マーティン・ブランドル ステファン・ベロフ ステファン・ヨハンソン イワン・カペリ フィリップ・ストレイフ |
9 | 0 |
1984年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 012 | G | フォードDFY | シェル | マーティン・ブランドル ステファン・ベロフ ステファン・ヨハンソン マイク・サックウェル |
-(水タンク事件) | 0 |
1983年 | ベネトン・ティレル・チーム | 011,012 | G | フォードDFY | バルボリン | ミケーレ・アルボレート ダニー・サリバン |
7 | 1 |
1982年 | チーム・ティレル | 011 | Avon | フォードDFV | バルボリン | ミケーレ・アルボレート スリム・ボルグッド ブライアン・ヘントン |
6 | 1 |
1981年 | ティレル・レーシング・チーム | 010,011 | M Avon G |
フォードDFV | バルボリン | エディ・チーバー ケビン・コーガン リカルド・ズニーノ ミケーレ・アルボレート |
9 | 0 |
1980年 | キャンディ・ティレル・チーム | 009,010 | G | フォードDFV | エルフ | ジャン=ピエール・ジャリエ デレック・デイリー マイク・サックウェル |
6 | 0 |
1979年 | キャンディ・ティレル・チーム チーム・ティレル |
009 | G | フォードDFV | エルフ | ディディエ・ピローニ ジャン=ピエール・ジャリエ ジェフ・リース デレック・デイリー |
5 | 0 |
1978年 | エルフ・チーム・ティレル | 008 | G | フォードDFV | エルフ | パトリック・ドゥパイエ ディディエ・ピローニ |
4 | 1 |
1977年 | エルフ・チーム・ティレル * Muritsu Racing Team (007) |
P34B | G | フォードDFV | エルフ | ロニー・ピーターソン パトリック・ドゥパイエ 高橋国光 |
6 | 0 |
1976年 | エルフ・チーム・ティレル * Scuderia Gulf Rondini (007) * OASC Racing Team (007) * Heros Racing (007) * Lexington Racing (007) |
007,P34 | G | フォードDFV | エルフ | ジョディー・シェクター パトリック・ドゥパイエ イアン・シェクター サンドロ=ペゼンティ・ロッシ オット・ストゥッパッシャー 星野一義 |
3 | 1 |
1975年 | エルフ・チーム・ティレル * Lexington Racing (007) |
007 | G | フォードDFV | エルフ | ジョディー・シェクター パトリック・ドゥパイエ イアン・シェクター ジャン=ピエール・ジャブイーユ ミシェル・ルクレール |
4 | 1 |
1974年 | エルフ・チーム・ティレル * Blignaut Embassy Racing (004) |
005,006,007 | G | フォードDFV | エルフ | ジョディー・シェクター パトリック・ドゥパイエ エディー・ケイザン |
3 | 2 |
1973年 | エルフ・チーム・ティレル * Blignaut Lucky Strike Racing (004) |
005,006 | G | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール エディー・ケイザン クリス・エイモン |
2 | 5 |
1972年 | エルフ・チーム・ティレル | 002,003,004,005,006 | G | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール パトリック・ドゥパイエ |
2 | 4 |
1971年 | エルフ・チーム・ティレル | 001,002,003 | G | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール ピーター・レブソン |
1 | 7 |
1970年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | マーチ701 001 |
D | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール ジョニー・セルボ・ギャバン |
- | 0 |
1969年 | マトラ・インターナショナル(ティレル) | マトラMS80 | D | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート ジャン=ピエール・ベルトワーズ |
||
1968年 | マトラ・インターナショナル(ティレル) | マトラMS10 | D | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート ジョニー・セルボ・ギャバン |
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
[編集] ティレルが導入した技術
[編集] 6輪車
ティレルが1976年と1977年に使用したF1界初の6輪マシン(通称「6輪タイレル」)。後輪2本のタイヤは通常サイズだが、前輪はリム10インチの小径タイヤを左右4本装着していた。
デザイナーのデレック・ガードナーはフロントに小径タイヤを履き、それをスポーツカーノーズの陰に収めることで空気抵抗の減少を狙った。タイヤ接地面積の減少は、これを4輪とすることで補った。このアイデアには当初ケン・ティレルも当惑し、正規の開発ナンバー「00×」ではなく別プロジェクト「P34」として開発を許した。新車発表時にはそのあまりに奇抜なスタイルに、記者はティレル流のジョークと笑ったという。結局、後輪が通常の径のため、期待した前影投影面積の低減は得られなかったが、6輪となったためブレーキ性能が上がり、コーナーの奥深くでブレーキングできるという副次的効果が得られた。
周囲の好奇の目をよそに、P34はデビューから4戦目のスウェーデンGPで1、2位ゴールの優勝を挙げ、コンストラクターズ3位を獲得する原動力となった。チームは翌年も発展型である「P34B」で挑んだが、グッドイヤーが特注の小径タイヤの開発に難色を示したため規模を縮小。開発の進むリアタイヤとのバランスに苦しんだ。本来、空気抵抗低減が目的であったフロントタイヤをノーズの外側に広げるなどの試行錯誤を繰り返したあげく、1977年いっぱいでプロジェクトを閉じた。
その後、負荷のかかるリアタイヤをフロントタイヤに代替できる後方4輪式を、フェラーリ、マーチ、ウィリアムズが開発を行ったがいずれも実戦には登場しなかった。1983年の車両規定改正で「車輪は4本まで」と明文化され、6輪車は禁止されることになった。
ちなみに、1976年のF1世界選手権・イン・ジャパン参戦時にはノーズの「Tyrrell」ロゴの下に「たいれる」と平仮名でチーム名が表記されていた。そのユニークなデザインはスーパーカーブームに沸く日本の子供達にも受け、アニメ『アローエンブレム グランプリの鷹』にもオリジナルの6輪車が登場し(この作品には8輪車まで登場する)、別のアニメ作品「激走!ルーベンカイザー」にはP34とは逆に後部2軸の6輪車が登場する(前述のように実際に開発は進められて浮いた)。田宮模型から発売されたプラモデルも好評だったが、模型化の際チーム側にロイヤリティーを支払うようになったのは、このマシンが最初である。
[編集] ハイノーズ
1990年モデルの019で採用された、フロントノーズを高く持ち上げる空力的な車体形状。これをきっかけに、F1マシンデザインはハイノーズへとシフトすることとなり、ティレルのエポックメイキング的な発明として評価されている。
ウイングカーの禁止後、前後車輪間の車体下面を平滑面とする「フラット・ボトム規定」下で、デザイナーはダウンフォース獲得策を模索していた。マシンのノーズ部分を若干高くして車体下面に気流を流しこむ「ハイノーズ」のアイデアは、エイドリアン・ニューウェイが設計したマーチ881や、ジョン・バーナードが設計したフェラーリ639/640でも試みられていた。
空力専門家のジャン・クロード・ミジョーは、1989年モデルの018での同様の試みを経て、翌年の019で周囲を驚かせる大胆なハイノーズ化を行った(特に019の形状はイルカの頭部に似ていたことから「ドルフィン・ノーズ」とも呼ばれた)。車体下面のプレートを延長する「抜け道」でフラット・ボトム規定をクリアし、高く持ち上げたノーズからコクピット下まで広い空間を作り、気流の「吸入口」としたのである。また、フロントウイングも路面との距離を保つため、ノーズマウント部から斜めに下げていく形状とした。これは、アンヘドラル(下半角)ウイングと命名され、またF4U戦闘機の逆ガルウイングに準えて「コルセアウイング」とも呼ばれた。
このハイノーズマシンは1990年のサンマリノGPでデビューし、ジャン・アレジによってモナコGPで2位を獲得したのを頂点に、中嶋悟とともにチームがコンストラクターズランキング5位を獲得する原動力となった。翌年以降、各チームが多種多様なハイノーズを登場させたが、アンヘドラルウイングは中央空間のウイング面積が減ることがネックとなり、やがてベネトンの2点吊り下げ式ウイングがスタンダードとなった。
[編集] Xウイング
1997年にデザイナーマイク・ガスコインが発案した子持ちウイング(ウイングレット)の一種で、サイドポンツーン上の垂直支持板に取り付けられた。レギュレーション上では空力付加物が規定されていない空間を利用したもので、SF映画『スターウォーズ』シリーズに登場する架空の戦闘機Xウイングに準えて[要出典]、こう呼ばれた。低速コースでダウンフォースが必要なアルゼンチンGPで初投入された。ガスコインは小型エアロパーツを追加する手法を好み、2006年まで在籍したトヨタでも用いている。
1998年から他チームも同様のデバイスを採用し始め、フェラーリなどのトップチームにも広まった。しかし、同年のサンマリノGPでザウバーのジャン・アレジがピットイン時にエアホースを引っ掛ける事故が起きると安全性に問題があるとされ、次戦のスペインGPを前に突然使用禁止処分が下った。なお、1998年は、X型でなく1本あるいは2本のステーで支える形式になった。
[編集] 水タンク事件
1984年のアメリカ東GP後の車検で、ティレルのマシン(ティレル012)の水タンクから微量の炭化水素が検出された。これがエンジン出力の違法なアップに関係していたことが判明、シーズン終盤にレギュレーション違反との判定が下された。これによって、このシーズンのティレルチームと、所属ドライバーステファン・ベロフとマーティン・ブランドル、ステファン・ヨハンソンの、ティレルから出走した記録・ポイントが全て剥奪された。この事件は「水タンク事件」と呼ばれる。