フォード・コスワース・DFVエンジン
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フォード・コスワースのDFVエンジン(Double Four Valve)はフォードの資本提供を受けたコスワースによって製作されたフォーミュラ1 (F1) 用エンジン。F1で一線を退いてからもF3000用のエンジンとして長きに渡り用いられた。F1での通算成績は156勝。
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[編集] 開発の経緯
「奇跡のレーシングエンジン」と称されるDFVは、全くの個人的な友情から発展した。ロータス代表のコーリン・チャップマンと英国フォード広報担当部長のウォルター・ヘイズは、ロータス・コーティナのライン生産が縁で友人となっていた。ヘイズはコーティナに続くフォード社名の効果的な宣伝方法を模索しており、一方チャップマンは1966年からF1のエンジン排気量規定が最大3000ccとなったことに対応したエンジンを探す必要があった。彼ら2人のベクトルは同じ方向に合致し、2人の熱意が英国フォードの経営委員会を動かし、最終的にはヘンリー・フォード二世の承認を取り付けるまでに発展した。
フォード社の全面バックアップの資金を握ったチャップマンは、それまでF1エンジンメーカーとして実績があったコベントリー・クライマックスでもレプコでもなく、当時F1レベルでは全く実績が無かったコスワースにエンジン開発を依頼する。コスワース社を設立した2名~マイケル・コスティンとキース・ダックワースは両方とも元ロータスのエンジニアである。
[編集] スペック
- V型8気筒エンジン、4バルブDOHC、自然吸気
- バンク角 90度
- ボア×ストローク 85.6×64.8mm
- 最大出力 405hp/9000rpm
- 最大トルク 33.8mkg/8500rpm
- 重量 161kg
[編集] 記録
- F1での優勝回数 156回
- 初優勝 1967年 オランダGP
- 最後の優勝 1983年 アメリカ東GP
- ドライバー ミケーレ・アルボレート
- コンストラクター ティレル・フォード
- 総合優勝(ドライバー)12回
- 1968年,1969年,1970年,1971年,1972年,1973年,1974年,1976年,1978年,1980年,1981年,1982年
- 総合優勝(コンストラクター)10回
- 1968年,1969年,1970年,1971年,1972年,1973年,1974年,1978年,1980年,1981年
- ただし、ドライバー、コンストラクターのタイトルはエンジンメーカには与えられない。
[編集] 歴史
[編集] DFVエンジンの誕生
DFVエンジンの開発は、1966年のレギュレーション改正によってエンジン排気量が3000ccにスケールアップされた事に端を発している。それまでの1500ccから2倍の排気量までが認められたが、各コンストラクターはこのサイズのエンジンを確保するのに非常に苦労した。フェラーリはスポーツカーカテゴリで使用しているV12エンジンを流用した。ホンダもV12エンジンを開発しようとしたが、シーズン開始に間にあわず途中からの参戦になった。又、BRMは去年まで使っていた直列8気筒エンジンを2段重ねにしたH型16気筒エンジンを持ち込んできたが、これは重過ぎる上に成熟までかなりの時間と労力を要した。クーパーに至っては60年に撤退したマセラッティのエンジンを持ち込んできたがこれは古すぎた。ブラバムはオーストラリアのメーカーが開発したレプコエンジンを持ち込んだ。このエンジンでブラバムは66年と67年のシーズンを制するが、排気量が2500ccしかなく3000ccの他のエンジンよりも軽いというメリットはあったが、エンジン出力は劣るというデメリットもあった。このように各コンストラクターの対応は個々であったが、ロータスのオーナーコーリン・チャップマンは新たに3000cc用のエンジンを開発するのが良いと考えた。
チャップマンがその新しいエンジンの開発先として目を付けたのがマイク・コスティンとキース・ダックワースが立ち上げた、新進のエンジンメーカー、コスワースであった。ダックワースは、当時F2用に供給していた直列4気筒・1.6リッターの「FVA(Four Valve type A)」エンジンを二つくっつけてV型8気筒エンジンとするアイデアを持っており(そのためエンジン名称も「Double Four Valve」の略で「DFV」となった)、これにより実現するエンジンはコンパクト且つパワフルで非常に魅力的なプランであった。
ところが、コスワースにはダックワースのアイデアを実現できる資金力に乏しく、開発費を提供してくれる提携先を探している段階であった。チャップマンはイギリスフォードに対してコスワースに資金提供をしてくれるように依頼し、フォードはその依頼を呑んだ。このためダックワースのプランを実現したDFVエンジンにはフォードのバッジネームがつくことになり、このエンジンは一般的にフォード・コスワース・DFVとして知られるようになった。
[編集] デビュー
こうして1967年に誕生したDFVエンジンは、開発に尽力したロータスの新型ロータス 49に同年のオランダGPから搭載される事になった。実物が登場してみるとこのエンジンはフェラーリ、ホンダなどのV12エンジンに比べてエンジン出力に遜色なく、さらにV8であるためにこれらのエンジンよりもかなり軽いエンジンになっていた。このレースではロータスのグラハム・ヒルがポールポジション、決勝レースでは同じくロータスのジム・クラークが優勝。DFVエンジンはデビュー戦で初PP、初優勝を飾り、そのポテンシャルの高さを見せ付ける事になった。
この順風な出だしを、最も喜んだのはフォードであった。フォードはDFVエンジンの独占供給を望むロータスを振り切って、翌シーズンの1968年からDFVエンジンを他のコンストラクターに、しかも非常に安価な価格で販売する事を決定した。ロータスは68年シーズンにDFVエンジンユーザーとして初めてのワールドチャンピオンとなったが、フォードの決定により、その後はDFVエンジンユーザーの先駆けとしての座を失い、数あるDFVユーザーのうちの一つとして埋没して行った。
[編集] DFV絶頂期
フォードがDFVエンジンを市販し始めた事は、F1の勢力図に大きな変動をもたらした。低予算のコンストラクターがDFVと市販のシャーシーを購入し、数名のメカニックを雇っただけのチーム形態でグランプリへ参加する事を可能にした。こうしたコンストラクターとしてマクラーレン、ティレル、ウィリアムズ、ミナルディなどがある。
こうしたコンストラクターが増えた事で、相対的にワークスがGPに踏みとどまっている必要性が薄くなってきたため、ワークスの撤退が相次ぎ、BRMが撤退すると一時期はフェラーリ以外は全て、DFVユーザーという状態になった。
技術面に関しては、エンジンとシャーシーにおいてマシーンの平均化が進んだ事から、他のコンストラクターに打ち勝つ要素として、空力に対してのR&Dが進んだ。今日私達が目にするような整流機能やダウンフォースを得るためのウィングがマシンに取り付けられる様になったのもDFVエンジン絶頂期の1968年のことである。
DFVはエンジンの性能が高く、F1の勢力図を大きく塗り替えた。DFVは改良を重ねられ1991年までの長きにわたり参戦し、F1から撤退するまでに実に156勝を挙げた(1987年からは3.5リッター化された)。これほどの成功を収めたレーシングエンジンは他に無く、DFVはまさしくグランプリに輝く金字塔である。
[編集] DFVのライバル
DFVは1968年から1974年までの7年間ドライバーズとコンストラクターズのタイトルを独占し続けた。この間ほぼ唯一の非DFVコンストラクターであるフェラーリはグランプリの隅に追いやられ続けた。60年代を通してフェラーリは経営が悪化しフィアットの傘下に入るなど最も低迷した時期になった。
フェラーリがDFVに対してコンペティティブになれたのは、70年代に入って水平対向12気筒エンジン、ティーポ312B 3.0L F12、通称ボクサーの開発に成功してからだった。以降70年代の終わりにルノーがターボエンジンを持ち込むまでボクサーのみがDFV唯一のライバルであり続けた。74年にニキ・ラウダがフェラーリに加入すると、翌75年にはドライバーズとコンストラクターのタイトルを奪回する事に成功した。
[編集] DFVの退潮
DFVに終焉をもたらしたのはターボエンジンの登場であった。F1のレギュレーションにはそれ以前から過給器付き(規則の原文は'supercharged')エンジンの規定が設けられていたが、それに目をつけたルノーが1977年にターボエンジンを持ち込んだ。ターボはスーパーチャージャーではないが、使用が黙認された[1]。初期のルノーはターボエンジン特有の「ターボラグ」に悩まされ、またエンジンブローも頻発したため、DFVユーザーの敵にはならなかった。しかし、1979年フランスグランプリで初優勝を挙げた頃から、各メーカー、チームは次第にターボエンジンの潜在力と性能に目を向けるようになっていった。
1980年代に入ると、ルノーに続いてBMWがターボエンジンの供給を開始した。翌1981年にはフェラーリがターボエンジンへの切り替えに踏み切り、1983年にはホンダとポルシェもターボエンジンの供給を開始した。大メーカーがターボエンジンの供給を始めると、次第にDFVが活躍する幅は狭くなっていった。各チームは戦闘力に勝るターボエンジンを求めるようになり、ターボエンジンを得られずDFVを使用するチームは徐々に下位に沈んで行った。
それでも1982年のグランプリではDFVエンジンを搭載したウイリアムズのケケ・ロズベルグが総合王者になったが、DFVの栄光もここまでであった。翌1983年のシーズンではBMWターボエンジンを搭載した、ブラバムを駆るネルソン・ピケが総合王者になり、DFVエンジンは遂に王座から陥落した。
[編集] グランプリからの退場
コスワースもDFVの改良を続け、1983年にはDFVエンジンをショートストローク化したDFYエンジンを投入した。このエンジンはデトロイトGPでティレルのミケーレ・アルボレートのドライブにより勝利を挙げることに成功した。しかし、この優勝がDFVエンジンにとって156勝目、すなわち最後の優勝となった。
1986年にレギュレーションによって自然吸気エンジンが禁止されると、DFVはグランプリから撤退せざるをえなくなり、コスワースはターボエンジンへの転換を迫られた。しかしながらターボエンジンの開発競争では遅れをとったため、コスワースエンジンは長い低迷期間を迎える事になった。コスワースが再びF1において優勝するのは1989年の日本グランプリ(アレッサンドロ・ナニーニ)、チャンピオンを獲得するのは1994年(ミハエル・シューマッハ/ベネトン)のことである。
[編集] DFVの発展形エンジン
F1で一時代を築き上げたDFVエンジンは、F1での活躍の場を失ってからも、様々な手を加えられながら他のカテゴリで使われ続けた。
先ず、F2に代わって1985年から始まったF3000エンジンとして使用され始めた。中でもヤマハは独自にDFVエンジンを5バルブ化したコスワース・ヤマハOX77エンジンを開発し、1988年には鈴木亜久里が全日本F3000選手権のチャンピオンを獲得するのに貢献した。 また全日本F3000ではそれ以降もケン松浦チューンのDFVが活躍を続け、91年には片山右京、93年には星野一義がチャンピオンを獲得している。
またアメリカのCARTでもDFVエンジンをショートストローク化し、シングルタービンのターボチャージャーを装着したDFXが用いられ、さらに改良型のDFSも存在した。
1980年代のグループC用にも転用され、DFLという名前が付けられた。DFLには当初、DFVのボアアップ版の3.3l、ストロークアップ版の3.6l、ボア/ストロークアップ版の3.95lの3種類が想定されていたが、実際には3.3lと3.95lの2種類が使われた。 DFLの3.3l版には、後にターボが付加されたが、このターボ版では強度に勝るDFX用のシリンダーが転用されていた。 DFLの3.3l版は、1987年のF1モナコGPにてレイトンハウス・マーチのスペアマシンにも搭載されている。
1987年にF1で自然吸気エンジンの使用規定が復活、排気量が3500ccに拡大すると、同年にDFVをベースとして排気量を拡大したDFZを市販、翌年にはエンジンワークスチームであったベネトンに改良型のDFRを供給した。
DFRは1989年にDFZに変わって市販され、1991年まで使用された。この年を以って、DFVの系譜を継ぐエンジンは終焉を迎えた。
[編集] DFVが生んだ名チューナー
DFVが市販されたことで、よりポテンシャルを発揮できるよう、コスワースとは別個でエンジンのチューニングを行うようになった。これにより、ジョン・ジャッド、ハイニ・マーダー、ブライアン・ハート、ジョン・ニコルソンなどの名チューナーが生まれた。 特にジョン・ジャッドはエンジン・デベロップメント社(ジャッド)を、ブライアン・ハートはハート・エンジニアリング社を創業し、チューナーだけでなく独自開発のエンジンを送り出していった。
ジャッドはホンダと共同開発したインディ用V8をベースにして1988年に市販したV8自然吸気エンジン「CV」を皮切りに、「EV」、V10レイアウトの「GV」を供給、1993年からはヤマハ発動機との共同でエンジンの開発を1997年まで行っていた。
ハート・エンジニアリング社は、F2でトールマンに供給した直4エンジンをベースにターボチャージャーを搭載したエンジンで1981年にトールマンとともに参戦した。すぐに専用設計の415Tを投入し、このエンジンは1985年まで供給された[2]。以降はDFRエンジンのチューニングがメインとなったが、1993年にジョーダン向けにV10エンジンを開発、供給、1994年-1996年、1998年-1999年にはアロウズにも供給した。
[編集] 脚注
- ^ Henry, Alan. The Turbo Era. Hazleton Publishing, 234. ISBN 1-874557-97-7.
- ^ Henry, Alan. The Turbo Era. Hazleton Publishing, 101-102. ISBN 1-874557-97-7.