ロータス (自動車)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロータス (Lotus) は、イギリスノーフォークのヘセル・ノリッチ( Hethel Norwich Norfolk)に本拠地をおくスポーツカーメーカーである。車両の開発販売を行うロータス・カーズ、技術シンクタンクとして各種の技術開発を行うロータス・エンジニアリング、グループを統括するグループ・ロータス及びロータス・グループ・インターナショナルなどで構成されるグループ企業である。グループはマレーシアの自動車メーカー、プロトンに属する。社名のロータスはそのまま蓮を指し、グループエンブレムの中にも角の丸い三角として描かれている。創立者のコーリン・チャップマンが仏教思想で「俗世の苦しみから解放されて夢がかなう実」とされる蓮にちなんで名付けたとの説が有力である。エンブレムの「A・C・B・C」は、チャップマンのイニシャル(Anthony Colin Bruce Chapman)。
目次 |
[編集] 沿革
[編集] 創業まで
ロータスの名を冠した最初の車が誕生したのは1949年である。それに先立つ1947年、当時、まだロンドン大学の学生であった、アンソニー・コーリン・ブルース・チャプマンは、副業として営んでいた中古車販売業であまりに旧式なため売れ残った1928年型オースチン・セブン(登録ナンバーPK3493)を自分用のレーシングカーに改造することを思いつく。
彼は事業パートナーであったコーリン・デア、ディレック・ウェットン、そしてガールフレンドであった、ヘイゼル・ウリィアムズらと共に旧式のシャーシを初めとする大部分を作り直し、別の車と言ってよいほどの大幅な改造を施した。この作業はロンドンのミューセル・ヒルにあったヘイゼルの実家のガレージで行われたと言う。
完成した車は、別の車として登録ナンバー(OX9292)を所得し、翌1948年にはマイナーレースに参戦する。しかし、チャプマンは、この車のベースとなったオースチン・セブンのエンジンのパワーでは本格的なレースに参戦するのは不十分と考えており、すぐにより強力なエンジンを搭載した次モデルの構想に着手する。チャプマンは、この次期モデルをロータスと名付け、フォード8のエンジンを搭載した新しいモデルは1949年に完成した、これが最初にロータスと呼ばれた車である。
ロータスはチャプマンが完成させた二番目の車であることからマーク2と呼ばれ、それに伴って最初の車はマーク1と呼ばれることになる。マーク2は完成してすぐ、さらに強力なフォード10のエンジンへと換装され、レースに参戦するのは翌1950年からとなった。マーク2は高い戦闘力を発揮し、チャプマンとヘイゼルの手で総合優勝4回、クラス優勝4回と好成績を挙げる。特に1950年6月3日にシルバーストーンで開催されたエイトクラブ主催のレースでは、GPレーサー(現在のF1マシン)のブガッティ・タイプ37と競り合い優勝してしまう。
型落ちとは言えGPレーサーに無名のガレージ作成のレーシングカーが勝利したことは驚異であり、チャプマンは大いに注目されることとなる。マーク2は初の顧客となるマイク・ローソンに売却されその後も好成績を挙げた。
チャプマンは、より本格的なレーシングカーの開発に着手し、新たな協力者としてマイケルとナイジェルのアレン兄弟を迎え、彼らが所有していた郊外のガレージで販売を目的としたレーシングカー、マーク3、マーク4を完成させる。特にマーク3は当時のイギリスで人気のあったフォーミュラ750カテゴリで無類の強さを発揮しロータスの名は着実に高まっていった。本格的なレーシングカー製造販売を目指していたチャプマンはマーク3の成功により、いよいよ市販モデルの構想に着手する。
それまでのワンオフに近いモデルと異なり、最初から量産を想定したモデルはマーク6と呼ばれ、その実現のため、チャプマンはマイケル・アレンと共に1952年1月1日、ロンドンのホーンジー、トテナム通りにロータスエンジニアリングを設立した。
[編集] レーシングカー製造販売
マーク6はそれまでのベース車両の改造シャーシはなく、専用設計されたシャーシを持つ最初のロータスである。プロトタイプは順調に完成し、テストを兼ねて1952年7月からレースにエントリされるが、その年の8月マイケル・アレンが公道で運転中にクラッシュ、これがきっかけとなりアレン兄弟はロータスを離れることになる。
創業メンバの半数を失い、スタート間もないロータスは危機を迎えるが、チャプマンと、その婚約者であるヘイゼル・ウイリアムズを取締役として、そしてエンジニアとして新たにマイク・コスティンを迎え、1954年1月1日株式会社として再出発することとなる。コスティンは生産技術者として非凡な才能を発揮し、生産型マーク6はその年の前半には顧客にデリバリされた。
元々レーシングカーであるマーク6は色々なエンジンを搭載することを前提としており、また、基本コンポーネントに様々なオプションを組み合わせる形で、キットフォームとして販売された。軽量なスペースフレームを持つマーク6は、その高性能とは裏腹に同レベルのライバル車と比べて安価でありプライベートレーサー達に好評をもって受け入れられた、マーク6は1955年まで製造され、その間100台から110台が出荷されたが、その間ロータスの工場はほぼフル生産であったと言う。
マーク6の成功で十分な資金を調達できたロータスはマーク6を元に、より軽いシャーシ、より洗練されたボディを持つ新しいレーシングカーの開発に着手する。本格的に空力を考慮したボディは、マイク・コスティンの兄弟であるフランクの手によって開発された。この後コスティン兄弟は開発、生産エンジニアとして創成期のロータスを支えることとなる。
マーク8と呼ばれるこのモデルは1954年4月には完成、そのシーズンのレースにエントリしている。1955年、ロータスはマーク6の成功によって自動車製造販売組合に加入し、正式にメーカーとして認知された。これにより同年のアールス・コート・モータショーに出品が認められ、ロータスはこのショーにマーク8の発展型、マーク9のベアシャーシを出品する。マーク9はその後、発展系としてマーク10そしてイレブンまで開発される。イレブンは1956年のシリーズ1、1957年のシリーズ2と総計して270台が製造された。なおロータスはこのイレブンからそれまでのマーク~の名称を止め、レーシングカーでは単なる番号、もしくはタイプ~、市販車ではペットネームを採用するようになる。
[編集] GP参戦と市販車開発
イレブンまでのレーシングカー販売によって十分な資金を調達したロータスは次のステップである国際格式レースへ参戦と本格的な市販車の製造販売に歩みを進める。そして、1957年10月のアールス・コート・モータショーにて、市販スポーツカーのセブン、ロータス初のクーペボディを持つタイプ14エリート、そしてフォーミュラ2レーシングカーのタイプ12を同時に発表、2つの目標を公に発表する。
タイプ12はGP参戦までを視野に入れた本格的シングルシータレーシングカーでありロータスは、それまでチャプマンらのクラブチーム的存在であったチームロータスを、本格的なワークスチームとして再編し、1957年から国際格式として開催されたフォーミュラ2へ参戦、そして翌1958年の5月のモナコGPでチームロータスはついにGPへと参戦する。
一方、タイプ14エリートは、FRPフルモノコックフレーム(日本のフジキャビンに続き史上2番目のFRPモノコック市販車)と、タイプ12ゆずりの前後サスペンション、世界最速の消防ポンプと詠われたエンジン、コンベントリークライマックスを搭載する高級GTとして発表、市販がアナウンスされると同時に、驚愕と絶賛の声を浴びる。そしてマーク6のデザインを受け継ぐ安価な量産スポーツカーとしてセブンも従来の顧客層から好評をもって受け入れられた。
[編集] ファクトリー移転とグループの再編
ロータスは同時に3種のニューモデルに着手したこともあり、エリートの開発にホーンジーでは手狭となってしまい、機密保持の目的もあってロンドン側のエドモントンに新たなデザイン拠点を構える。しかし、ホーンジー、エドモントン共に本格的な量産車の製造工場としてはキャパシティが不足していることは明白であった。
チャプマンは当初、ホーンジー近辺に工場を構えようと考えていたが、イギリスにおける法律上の規制から諦めざるをえず、代わりにハートフォードシャーのチェスハントに生産開発の拠点を移すことになる。この移転とほぼ同時に、ロータスは量産車の開発生産を受け持つロータスカーズ、レーシングカーの開発生産を受け持つロータスコンポーネンツ、そして全体を統括するロータスエンジニアリングとグループ体制に再編される。
[編集] GP勝利と財政危機
セブンは1958年の春より、エリートは多少開発を手間取りはしたものの12月にはリリースが開始され、レーシングカーではタイプ12の後継16を経て、新たにミッドシップレイアウトを導入して開発されたタイプ18が、名門チームであるロブ・ウォーカに販売され、1960年5月29日、スターリング・モスの手によって記念すべきGP初勝利を達成する。
順風満帆に見えたロータスであったが、実際には経営状況が悪化の一途をたどっていた。GPマシンの開発とGP参戦は、それまでとは桁の違う費用が必要とされロータスの財政を圧迫した。一方で出支をまかなうはずのセブンとエリートの利益は決して十分なものではなかったのである。
クラブマン向けレーサーであったセブンは、安価ゆえに人気となったが、シャーシ生産に多くのハンドワーク行程を必要とし、そのシンプルさとは裏腹に高コストな商品で、利益は限られていた。一方、高級GTとして販売され、高い利益をもたらすはずであったエリートは、注文こそ順調であったが、複雑で類をみない製造工程は思うように生産台数を伸ばせず、さらにFRPモノコックと、レーシングカーのサスペンションは共に信頼性に乏しく、ロータスはクレーム対応に追われてさらに利益率は低下した。1959年の時点ではエリートは販売するたびに利益どころか赤字になるような状態であった。
[編集] エランの成功
ロータスは確実に利益をもたらす商品を一刻も早く開発する必要に迫られたのである。このような状況で、新たに市販モデルのエンジニアとしてロータスに入ったロン・ヒックマンにより、タイプ26エランが生み出される。
当初ロータスはセブンに変わるモデルを想定していた。エリートとセブンに変わる新型量産スポーツカーとのラインナップを予定していたのである。シャーシデザインもエリートのFRPモノコックを予定していたが、開発を急ぐ必要があったこと、エリートでのトラブル状況から断念を余儀なくされた。
ヒックマンは、FRPフルモノコックに変わる新しいシャーシデザインとして、プレス鋼板を溶接によって組み立てたバックボーンシャーシに、エンジン、トランスミッション、サスペンションなどの主要構造物をレイアウトし、FRPモノコックのボディをかぶせるデザインを考案した(一説にはチャプマン自身が考案したとされる)。
バックボーンシャーシはセブンのスペースフレームに比較して圧倒的に製作時間を短縮可能で、なによりも精度を容易に確保することが出来た。生産性の向上は、この時ロータスが最も求めていた要素である。バックボーンフレームの採用により、タイプ26の開発は順調に進み、本格的な開発開始からわずか2年後の1962年には本格的な量産がスタートしている。
1962年のアールス・コートモーターショーに出品されたタイプ26エランは、完成車で£1,495、キットカーフォームで£1,095と発表され、セブン並の価格は大いに話題となりオーダーは順調に延びていった。エランはシリーズ4まで発展し、1973年まで12年に渡って販売され、総数12,000台以上がデリバリされた。
エランで確立したバックボーンシャーシデザインは、この後35年に渡って全ロータスプロダクションモデルの基本デザインとして採用されることになる。
エランは北米にも多数が輸出され、ロータスは国際的に認知度を高め、その生産性の高さは製造コストを抑え、安定した利益をロータスにもたらした。
[編集] コーティナの成功と新たなビジネス
エリートの商業的失敗により、ロータスの財政的回復は充分とは言えなかったが、この危機をロータスはまったく新しいビジネスにより克服する。
1960年の前半、アメリカのフォードはモータスポーツによる企業イメージの向上を目的として、当時隆盛であった、サルーンカーレースに参戦することを計画していた。
しかし、自社で充分なノウハウを持ち合わせていなかったフォードは、自社の車をベースに大幅なチューンを施したレース用の専用モデルの開発、生産をロータスに依頼したのである。
ベースとなる車両にはコンサル・コーティナが選ばれ、その高性能バージョンであるコーティナGTをさらにチューンし、1000台の生産規定台数で所得できた当時のFIAグループ2のホモロゲーションを受けるプランがスタートした。
最終的にロータスは、コーティナのチューンはもちろん、レーシングバージョンの開発、さらにはプロダクションモデルの生産までを請け負ったのである。
正式にロータスのナンバー、タイプ28が与えられたコーティナ・ロータス(ロータス・コーティナとも呼ばれる)は、チェスハントの工場で組み立てが行われ、1966年までの3年間で2800台あまりをラインアウトさせた。
このビジネスの成功は、実質的にエランしか収入源がなかったロータスに大きな財政的安定をもたらした。
それにとどまらず、米英のサルーンカーレースにおいて大いに成功したコーティナロータスは、レーシングエンジニアリングのコンサルタントという新たなビジネスを開拓したのである。
また、後にレースフィールドに留まらず、あらゆる分野におけるエンジニアリングコンサルティングという、ロータスの3番目のビジネスを確立する礎となったのである。
[編集] GP制覇とヨーロッパ発売
エランとコーティナ・ロータスの成功により経済的な余裕を得たロータスは、GPにおいても驚異的な躍進を見せ、初参戦からわずか5年後の1963年、革新的な軽量モノコックシャーシを採用したタイプ25と、名手ジム・クラークを擁してコンストラクタ・タイトルを獲得する。さらに、タイプ25の発展型タイプ33をもって、1965年にもコンストラクタ・タイトルを手中に収めた。
翌1966年、ロータスは自身が本格的にGPに持ち込み、その後レーシングフィールドではセオリーとして定着しつつあったミッドシップレイアウトを採用した量産スポーツカーを発表する。イギリス以外のヨーロッパ大陸をメインターゲットとして当初左ハンドル仕様のみとされたタイプ46ヨーロッパは、かつてのセブン同様、レーシングカーの技術をロードカーに持ち込んだ安価なスポーツカーというコンセプトの元に開発された。
ヨーロッパはヨーロッパ大陸、北米をメインターゲットとしてエランで成し遂げられなかったセブンの後継モデルとして位置づけがされたのである。 軽量で優れたハンドリングを発揮したヨーロッパは人気を博し、1968年からのシリーズ2ではイギリス向けの右ハンドルもデリバリが開始される。
[編集] GT構想の復活
ヨーロッパのデビューに先立つ1965年、ロータスはモーターショーにエランのシャーシをストレッチしてクーペボディを架装した2+2のショーモデルを発表、委託生産のコーティナ以外は全て2シータモデルのみであったロータスにとって初の4シータモデルであった。
メティエと呼ばれた、このプロトタイプは2年の開発期間を経て1967年タイプ50エラン+2として発売された。
エリートの商業的失敗により途絶えていたGTを、エランのシャーシをベースに復活させ、新たな顧客層をも開拓したのである。エラン+2はエランよりも長く1974年まで生産され、約5000台がデリバリされた。
[編集] ヘセルウイッチ移転の成功
ヨーロッパ、エラン、エラン+2と小規模ながらラインナップを整備したロータスは、生産台数の増加に伴いチェスハントの工場では手狭となり、新たな根拠地を求めることになる。
チャプマンの目に止まったのは、ノーフォーク、ヘセルノリッチで第二次世界大戦時に使用されていた空軍の飛行場であった。ロータスは、飛行場跡の半分を譲り受け(後の半分は徴用時の地主に返還された)、滑走路と周辺路をテストコースとして流用し、新たな設備を整備した。
そして1966年、工場、チーム・ロータスを含むロータスの全ての機能をチェスハント、ホーンジーからヘセルウイッチに移転させる。この移転において、ロータスはスタッフの喪失を極力抑え、半数以上のスタッフを連れて行くことに成功した。これは、100km以上離れた地に全面移転するようなケースでは記録的と言われている。また、移転に先立ってフォードからデニス・オースチンをマネージャとして迎え、彼をチーフとして周到な計画と準備が進められた。その結果、週末に実施された全面移転の後、ヘセル工場で組み立てられた最初の車両が工場を出たのは、次の月曜日であったと言わている。新たな根拠地を得て、生産力、開発力を高めたロータスは順調に業績を延ばし、1968年、ロータスは株式公開を果たした。名実共に自動車メーカーとして認められたのである。
[編集] チャプマン時代の終焉
[編集] GM傘下の時代
1982年にチャップマンが54歳で急逝した後は経営難が深刻化し、経営はチャップマン家から、事業家のデビッド・ウィッケンスに移った。1984年、コンセプトカー「エトナ」や、V8エンジンを発表したり、当時の大株主であったトヨタとの関係を深めていたが、一転して1986年にはゼネラルモーターズ(GM)の傘下に入る。グループ内のスポーツカーメーカーとしてシボレー・コルベットZR-1の設計や、オペル・オメガ、いすゞ・ピアッツァなどのチューニングを担当した。1989年に発売された2代目エランでは、GMグループ内のメーカーからエンジン、パーツを調達していた。
[編集] ブガッティからプロトン
1993年にはブガッティの買収を受けたが、1995年にブガッティが破産し(その後ブガッティは1998年にフォルクスワーゲンに買い取られた)、1996年にプロトンの出資を受けた。現在はプロトンが100%子会社化している。
2003年より親会社のプロトンとともに地元のサッカークラブノーウィッチ・シティのスポンサーとなる。
[編集] 車種一覧
[編集] 過去の主な車種
- 7: オープンホイールの純然たるスポーツカー。そのレプリカがケーターハムやドンカーブートなど様々な会社によって製造されている。
- エリート: 初代は1950年代後半に登場。FRPの一体構造ボディを採用した。2代目は1974年登場、ロータス初の高級指向の4座スポーツカーであった。
- エラン: 初代モデルは1960年代の名スポーツカー。トヨタ・2000GTが手本としたバックボーン(背骨)フレームを採用。2代目エランはいすゞ製4XE1型エンジンを搭載している。その後、この車の生産設備を韓国の起亜自動車へ売却した。キア・ビガートも参照のこと。
- ヨーロッパ: 「サーキットの狼」にて日本でも知られる。極めて低いシルエットを持つ。
- エクラ: 2代目エリートのファストバック版。後に「エクセル」となる。
- エスプリ: 1975年登場。ジョルジェット・ジウジアーロのデザイン代表作の一つ。007シリーズ『007 私を愛したスパイ』にて水陸両用車が登場したことでも知られる。
[編集] 現行車種
- エリーゼ(Elise)
- エキシージ(Exige) - エリーゼの近代化・高性能仕様。
- ロータス・ヨーロッパ S (Europa S) - 上述のロータス・ヨーロッパとは異なり、「ビジネスクラスGT」を謳う。
- ロータス・2-イレブン(2-Eleven) - エアコン・ヒーター無しのロードカー。ルノー・スポール・スパイダーと同様の外装。
[編集] F1での活躍
→チーム・ロータスを参照
[編集] 日本の輸入元
ロータスは当初、新橋にあった芙蓉貿易という商社(メッサーシュミットも扱っていた)がセブンや初代エリートを輸入したが、1960年代半ばに東急商事が輸入代理店となり、エランや初期のヨーロッパを輸入した。1970年代以降は長年、アトランテック商事が輸入していたが、1990年代中盤に輸入を取りやめてしまった。そのため、初期型のエリーゼのほとんどは並行輸入だった。
その後、ケイアンドエムが輸入権を取得したが諸事情により輸入を休止。
2003年2月 オートトレーディングルフトジャパンが子会社「株式会社エルシーアイ」を設立し輸入を開始。 2005年4月 株式会社エルシーアイの株式の51%をVTホールディングスに売却する。