シボレー・コルベット
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シボレー・コルベット、コーベット(Chevrolet Corvette)は、ゼネラルモーターズのシボレーブランドによって販売されているスポーツカーである。
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[編集] 解説
コルベットは台頭し始めたヨーロッパ製スポーツカーへの対抗心によって産み落とされた。アメリカン・モータースポーツの象徴として、フォード・マスタングらと並べて語られることも多く、シボレーのスポーツブランド・イメージを確固たるものとして印象づけている一台である。そのイメージはアメリカ車らしく、大排気量エンジンをフロントに積み、太いトルクを後輪に供給する、典型的なフロントエンジン・リアドライブを現代に至るまで貫き通している。また、時代に合わせて頻繁にアップデートが施され、時には走行性能だけではなく、外観を激しく変えるほどのマイナーチェンジが果たされることも珍しくない。一方で太いトルクによる大馬力に固執し、一時期DOHCエンジンを採用した事があったものの、最新型においてもOHVエンジンを採用し、低回転・大トルクがコルベットのアイディンティティとなっている。
コルベットは、その基本性能の優秀さから初代C1型コルベットの時代から様々なレーシング仕様が製作され、数多い功績を挙げた。ワークスでのレース活動を休止していた時期もあるが、その間を埋めるようにプライベーターによる参戦も盛んに行われた。
現在、欧州や日本ではシボレーのブランド名が落とされて、単にコルベットとして販売されているが、シボレーブランドのフラグシップモデルである事には変わりはない。[1]また日本への輸入はゼネラルモーターズ・アジアパシフィック・ジャパン株式会社(GMAPJ)によって行われている。
[編集] 歴史
[編集] 初代(C1 1954年-1963年)
シボレー初の2シーターレイアウトのオープンスポーツカー。1953年にプロトタイプが披露され、翌年に生産を開始する。初期のC1型コルベットは、純粋なスポーツカーというより、スポーツカーと先進的イメージを押し出した雰囲気車のような感は否めず、スチール製バックボーンフレームに、量産車としては初めてとなるFRPボディパネルを貼り付けた、ヨーロッパ車顔負けの先進的な特徴を有していながら、最高出力150馬力と貧弱な3859ccの排気量を持つ水冷直列6気筒OHVエンジン、2速オートマチックトランスミッションなど、少なくとも本質的な走りを重視する人々の琴線を刺激するだけの魅力は持ち合わせていなかった。しかも品質不足での購入者からの苦情も殺到した。これは先進的なFRP素材を使用したがために起こってしまった弊害で、まだ厳密な品質が確立されていなかった時代であったため、温度差によってボディパネルが歪んでしまうことが原因であった。
初期にはこのようなメーカー側の不備から批判を受けたコルベットであるが、しかし、優れた車体特徴を備えたコルベットを見放さなかったのは、チューニングを生業とする者達だった。彼らは市場の不満の声に応えるかのごとく、エンジン・チューニングキットや、マニュアルミッションへの交換などを請け負い、潜在的な需要を満たした。
しかし、コルベットの評価を一転させるマイナーチェンジが行われることとなる。その先鋒に立ったのがゼネラルモーターズ実験部門に所属していたエンジニア、ゾーラ・アンカス・ダントフで、シボレー・セダン用の4343cc水冷V型8気筒OHVエンジンを専用にチューンを施し、コルベットのエンジンルームに押し込むことにより、大幅なパワーアップを達成する。1955年ではオプション扱いだったものの、1956年からは通常ラインアップに加わり、逆に当初の標準だった6気筒エンジンは蹴落とされる格好となった。ちなみに、このエンジンは後々のコルベットにもスモールブロックユニットとして受け継がれていくこととなる。トランスミッションもボルグワーナー製の3速マニュアルトランスミッションが選べるようになり、いよいよ本格的なスポーツカーとしての認知を得るに至る。以降、ドーピングのごとくパワー至上主義路線を貫くようになり、200馬力前半だったパワーは、最後期には300馬力オーバーに達するまでになった。
C1型コルベットは、本格的にレースにも参戦し、そのテストベッドとして1954年にMule(雑種の意)と呼ばれる、レーシングチューンの施されたV型8気筒エンジンを搭載したモデルがあった。Muleは最高速トライアルやデイトナに参戦し、このモデルの活躍がコルベットの名声を高めるきっかけとなった。その後、1956年のセブリング12時間レースに参戦するために手直しされたコルベットSR(セブリング・レーサー)が出走し、クラス優勝に輝く活躍を見せ、1957年以降には数々のレースでアマチュアレーサーの手で走らされるコルベットを見るようになった。また、SRが活躍したとほぼ同時期に、更なるパフォーマンスアップを図ったSR2に発展し、1957年のデイトナでル・マン24時間レースの王者であるジャガー・Dタイプに続く2位に食い込み、その実力を示したが、コルベットのレース活動の指揮を執っていたゾーラ・ダントフの意向により、SR2の現役としての期間は短く、その活動はコルベットの名を冠した、しかしオリジナルとは関連性のない新たなレーシングカーであるコルベットSSに委ねられた。
[編集] 2代目(C2 1963年-1967年)
スティングレイレーサーのスタイルを基礎にしてデザインされたC2型コルベットは、原型となったレーサーモデルの名を取ってコルベットスティングレイ(スティングレイは赤エイの意)と呼ばれた。このネーミングは、開発担当者の一人であるビル・ミッチェルが名付け親だが、これは彼が釣りを嗜んでいたことに由来すると言われている。なお、両車の間には構造的共通点はないに等しく、市販にあたって新たにボディ設計がなされている。販売が開始されたのは1963年から。オープンモデルのみのラインナップだったC1型と違い、クーペをメインに据えることとなった。
大きく変貌したスタイリングは、ダイナミックだった先代に対し、先鋭的でエッジの立った独特なスタイリングで、何物にも似ていない。特に1963年に生産されたもののみが有する、「スプリット・ウインドウ」と呼ばれる、ルーフからリアエンドに向かって走るフレームによって二つに寸断されるリアウインドウを持ったモデルは、現在でも人気(と付随するプレミア)を獲得している。また、C5型まで伝統となった、本来とは逆方向から回転する構造を持つリトラクタブル・ヘッドライトが採用されたのは、C2型が最初で、このヘッドライトを備えたモデルは1964年に登場した。
エンジンは基本的に先代に採用されていたものが継承され、それに更にチューニングを加えたもの。排気量は大幅に拡大され5358ccの水冷V型8気筒OHVエンジンで、キャブレターの違いで300馬力、340馬力、インジェクション仕様の360馬力のものが設定された。特に360馬力仕様は事実上のレーシング仕様で、足回りがレースでの出走を前提にして硬く引き締められており、とてもではないが公道での使用に使おうと思わせるものではなかった。デビューから2年後の1965年には、レーシングスペックのZ06が登場。6489ccという排気量を持つ、通称ビッグブロックユニットが搭載され、425馬力、45.5kgmという途轍もないハイパワーを誇った。後にビッグブロックは更なる排気量拡大を受け、427キュービックインチ(6997cc)までスープアップされている。圧巻なのはL88型と呼ばれる、C2型末期の1967年に追加されたエンジンで、レーシングカー用エンジンをデチューンした代物。排気量燃料には103オクタン以上のレース用ガソリンを使用しなければ動かないという、日常的な公道での使用などにはとても堪えられる仕様のものではなく、あくまでGTレースを出走するためのホモロゲーションを取得するためのモデルだった。また、L88型は430馬力と公表されたが、若者の奮起や保険料の問題等で伏せていただけで、実際は500馬力以上の代物だったと言われる。L88型エンジンを積んだコルベットは、20台が市販されるに留まっている。 L88型'を搭載したC2が約7500万円の値が付けられオークションで落札された。
初期C1型で犯してしまったミスを払拭するかのごとく、トランスミッションには力が入り、標準装備の3速マニュアルトランスミッション、オプションで3速オートマチック、ギアレシオをクロスさせた4速マニュアルが設定された。このことからも、コルベットは二代目にして、シボレーの旗持ちを務めるほどのイメージリーダーとなっていた。
ボディは完全な新設計で、堅牢なラダーフレーム構造を採っていた。車高は低くなり、重心も下がっていたが、なによりもC2型コルベットは、フロントエンジン車でありながらリアヘビーという、かなりユニークな前後重量配分を有していた。これは燃料タンクが最も後ろに配置されていたためで、通説では前後47:53の重量配分といわれている。足回りは前ダブルウィッシュボーン式、後トレーリングアーム式で、後輪にリジッドアクスルを採用していた先代と比較し、前後輪とも独立懸架によって支持されるという進化を遂げた。フロントはコイルスプリングであるが、後輪には本来縦に置くはずのリーフスプリングを横置きにしていた。これは後々のコルベットにも受け継がれることとなるが、実はこのスプリングには設計の妙が込められており、バネ下重量を理論上0に抑えることができる利点があった。ブレーキは当初4輪ドラムブレーキだったが、1965年からは4輪ディスクブレーキに改められている。
[編集] 3代目(C3 1967年-1983年)
1968年、早いタイミングでバトンタッチされたのが、通称コークボトルと呼ばれるボディラインを持つC3型コルベットである。大胆に膨らんだ前後フェンダーとくびれたように見えるボディ中央部がコーラのビンを連想させたことから名づけられた。このデザインは、このモデルを最後にデザイナーを引退したビル・ミッチェルと日系人ラリー・シノダがデザイン・スタディとして生み出したMako Sharkが原型で、そのデザインをほぼ踏襲している。また、ネーミングにも変化が生じ、当初はコルベットスティングレイの名で販売されたものの、1978年のマイナーチェンジでは単にコルベットの名に改称された。
その独特なスタイルと、バリエーションにコンバーチブルと量産車初のTバールーフのタルガトップを採用しながらも、シャシーやサスペンションは基本的にC2のそれを引き継いでいるが、リトラクタブル・ヘッドライトは少々違い、C3のそれは回転式ではなく、カバーを上へ持ち上げるオーソドックスなメカを採用しており、歴代コルベットの中では唯一である。エンジンは基本的にキャリーオーバーで、1969年にはビッグブロックユニットが排気量拡大の変更を受けて、7440ccまで引き上げられた。標準エンジンであるスモールブロックユニットには基本的に変更はなく、ビッグブロックユニットと同じ年に排気量5358ccから5738ccにまで拡大しているが、額面上は同じ300馬力と変更はない。また同エンジンを基本にチューニングを施したLT1ユニットは350馬力仕様に加え、1971年までは高圧縮比によりパワーを稼ぎ、370馬力にまでチューニングされたものが設定されていた。
C3登場の翌年、総生産数3台、市販車両に搭載されたものは僅かに2台という幻のパワーユニット、ZL1ユニットが1969年の期間のみ追加される。これはC2型コルベットに載っていたL88ユニットの発展型で、エンジンヘッドのみならずエンジンブロックまでもアルミ化されたスペシャルエンジンである。このエンジンはオプション設定という形でカタログに記載されることとなったが、高額の追加費用(それは車1両に匹敵するほどの)が必要だったため、ごく少数の生産に留まることとなった。しかし、1971年にはマスキー法が全面施行され、プレミアからレギュラーガソリンに対応、三元触媒の取り付けなど排ガス対策に追われたため、全てのパワーユニットが軒並み20~30馬力ほどダウンすることとなる。その対策として、ビッグブロックユニットを425馬力にまでチューンしたエンジンが追加されるが、環境問題が叫ばれる逆境などを理由に1972年に廃止された。クロームメッキバンパーを捨てた1973年、エンジンラインナップが大幅に整理され、5735ccのV型8気筒OHVエンジン一本となり、標準仕様は190馬力、オプションで210馬力、更に排ガス規制の厳しいカリフォルニア州専用に、コンピュータ制御の排ガスコントロール装置を取り付けた仕様が存在し、180馬力を発生した。1972年からエンジン性能表示が変更され、グロス値からネット値に移行したため、従来よりも低い馬力換算がされていたものの、このエンジンは従来のものより確実にパワーダウンを強いられていた。
C3の最も大きなマイナーチェンジは1978年のこと。大きな変更点として、それまで垂直に降り立つリアウインドウが、ルーフからボディ後端までを繋ぐ湾曲した一枚ガラスに変化し、規制によって5マイルバンパーが装着された。オプション設定にはグラストップが追加されるが、これはコルベットがスポーツカーというより、長距離を高速で移動することに主眼を置いたGTカー的な方向に寄ったものであることを示していた。1981年にはオプション設定されていたエンジンが姿を消したが、C3最後の年1982年には、キャブレターからインジェクションとなり、10馬力上乗せの200馬力を計上した。
トランスミッションは4速マニュアルと3速オートマチックが用意され、1982年には4速オートマチックが設定されたが、この年にはマニュアルミッションの設定がなく、このことからも後期のC3はGTカーとしての位置づけを与えられていたことを裏付けている。
C3型コルベットは1982年型がラストイヤーだったが、同年に予定されていた新型コルベットへの移行が翌年にずれたため、一時は「コルベットはC3が最期」と騒がれてしまった。
[編集] 4代目(C4 1983年-1997年)
1983年の前中期をテスト期間として、43台ものテストカーを費やし、満を持して1983年末にC4型コルベットが登場する。ただし、予定より開発がずれこんでしまったため、1984年型と銘打って生産を開始しているために事実上、1983年型のモデルは存在していない。マニアの間では「テストカーとして製作された43台」を1983年型と呼称することもあるが、これはゼネラルモーターズ側が正式にアナウンスしたものではない。ちなみに、テストカーのほとんどはクラッシュテストのために破壊されているが、一台のみはアメリカ・ケンタッキー州ボウリンググリーンに存在するコルベットの生産工場に併設されたコルベット博物館に保管され、現存している。
これまでのコルベットは、ダイナミックで力強いスタイルを特徴としたアメリカニズムを押し出したデザインが特徴だったが、国内、世界的情勢を意識して大きく路線変更することとなり、ロングノーズは踏襲されているものの、大きく盛り上がったフェンダーなどはなだらかに整地され、全体的に洗練されたスタイルをまとうに至る。これは開発関係者にヨーロピアンデザインに造詣の深い人物がいたためと言われている。
大きく路線変更したのは外観のみではなく、構造的特徴の多くを先代から受け継いでいたC3とは違い、エンジン以外のほぼ全てを新規設計したことがある。足回りは前不等長ダブルウィッシュボーン式、後5リンク式へと進化、アームには市販車初の軽合金を採用し、バネ下重量の低減を狙っている。また、前後とも伝統の横置きリーフスプリングを使用しているが、それはFRP製であり、軽量化が徹底されている。ボディ構造は角断面鋼管フレームとセミモノコックを組み合わせたユニフレームとなり、旋回性能を上げるために上げるためにショートホイールベース化され、前後トレッドを広げて操縦安定性を確保している。また、洗練されたスタイリングは空力にも十分な配慮がされ、Cd値0.34と当時のスポーツカーとしては最高水準の値をはじき出している。なお、ボディバリエーションはクーペとTバールーフを廃止したタルガトップを用意していたが、C3後期に安全性の問題でラインナップから落ちたコンバーチブルが1986年型から復活している。
デビュー当初、エンジンはC2と同じものを搭載し、205馬力と少々控えめの数値であったが、Z51と呼ばれるハイパフォーマンスモデルに注目が集まり、人気を呼んだ。これはハードなスプリングレート、デルコ・ビルシュタイン製ショックアブソーバー、ワイドタイヤなどを組み込んだ仕様で、ノーマルでは4速オートマチックが選択できたが、4速マニュアルミッションしか設定されていない硬派な仕様だった。このモデルの登場で、コルベットが優秀なハンドリング性能を有していることを世界に知らしめることとなった。 1985年に差し掛かるとエンジンが変更される。排気量に変わりはないが、ボッシュ・ジェトロニクスをベースに改良を施したチューンド・ポート・インジェクション(TPI)仕様のL98型となり、最終的に250馬力までパワーアップを果たす。
1989年には、マニュアルミッションの変更を受け、4速+電磁式オーバードライブから独ZF製6速マニュアルミッションにアップデートされるが、この年最大のトピックスはC4型コルベット最強のグレードが追加されたことである。キング・オブ・ヒルというニックネームを拝命するほどの衝撃的なパフォーマンスを秘めたその車はZR-1と呼ばれ、これに搭載されるLT-5エンジンは、当時GM傘下にあったロータスによって設計・開発されたもので、排気量そのものはそのままだが、DOHC32バルブ、オールアルミ製のエンジン、圧縮比11.0:1という画期的なエンジンで、標準モデルより100馬力以上高い375馬力を発生した。このパワーに対応するため、ブレーキは大径化され、リアタイヤがサイズアップ、P315/35ZR-17という極太サイズが奢られている。このタイヤを収めるためにリアの造形に変化が生じ、丸みを帯びていたリアフェイスは角張り、フェンダーが外側に拡大されていた。当然オートマチックは設定されず、ZF製6速マニュアルミッションが組み合わせられた。その高性能振りを物語るエピソードとして、各地で行われていた24時間スピード競技で数々の世界記録を打ち立てるなどの快挙がある。
1991年にはリアフェイスがZR-1を基本にしたものとなり、またハードセッティングのZ51が、よりハードなZ07にチェンジ。翌年にはエンジンがL98からLT1に変更、基本スペックは引き継ぐものの、数々の改良を受けて最高出力が大幅に向上し、300馬力となる。トラクションコントロールを標準装備、タイヤも太いものにグレードアップされた。1993年、コルベットは生誕40周年を迎え、それを記念するアニバーサリーモデルを設定。このモデルは外装がルビーレッドに塗られ、同色の本皮スポーツシートを装備した上級装備モデルだった。1994年にZR-1は405馬力までパワーアップを果たすものの、1996年モデルには加えられずラインナップから落ちた。最終年となったこのモデルにはいくつかの特別仕様が投入され、標準モデルのエンジンをチューンしたLT4エンジンが追加される。このエンジンを搭載したモデルにマニュアルミッション以外の選択肢はなかった。また、ZR-1から受け継いだ基本メカニズム、ブルーのボディカラーにノーズからテールにかけて太いストライプを中央に配したグランスポーツ、ラストイヤーを記念したコレクターエディションも設定され、C4最後の年を飾った。
[編集] 5代目(C5 1997年-2005年)
C5コルベットは5700cc水冷V型8気筒OHVをそのままに350馬力を手に入れ、馬力だけ見ればヨーロッパのスポーツカーと肩を並べられるハイパフォーマンスカーへと進化した。車重もクーペで1480kgと大きさの割には軽く、フロントフェンダー部分からリアフェンダーにかけては、角を削り落とした現代的な曲線を多用する流麗なスタイルとなった。伝統のリトラクタブルヘッドライト、片側2連の楕円テールライトを受け継いだ。室内の質感はプラスチッキーで安っぽいイメージが残るものの、C4と比べれば大幅に改善されている。タイヤサイズもパワーの向上に合わせてより大型のF245/45-ZR17、R275/40-ZR18サイズとなった。また最高速度は282km/hとなった。 2001年にマイナーチェンジを施し、最大出力が355馬力、トルクも49.8kgとなり、マニュアルモデルのZ-51で51.8kgに向上した。Z51については。後に紹介する電磁制御ダンパーを装備せず、シボレーレーシングが専用に開発したZ51スエーバーとハードセッティングの専用スプリングを採用し、高速域での安定した走りを実現させた。また軽量なアルミホイールが採用されよりスポーツカーとしての魅力も同時に向上した。シャーシはスポット溶接等を一切行わないぺリメーターフレームで構成される。また、シボレーが長期に渡り研究開発を進めてきた電磁制御ダンパーがC5で採用され、1/1000秒単位で路面の衝撃を和らげる制御が行われる。センターコンソールにダンパーの切り替えスイッチがあり「ツアー」と「スポーツ」の二つから選べ、前者は高速道路での繋ぎ目でのショックは皆無となる。後者はサーキットなどでの走行を想定して開発され、路面からのショックをドライバーによりダイレクトに伝え、路面状態をドライバーへ明確に伝えるセッティングとなっている。また、リアデフとミッションを一体化させるトランスアクスルの採用により前後の車重をほぼ50:50に近いものとした。その他の装備として、電磁ステアとトラクションコントロール、フロントウインドウにエンジンの状況など様々な情報を表示できるヘッドアップディスプレーなどを装備している。価格は発売当時で、クーペが580万円。最終型の2004年モデルでは730万円に改定された。
[編集] 6代目(C6 2005年-)
2005年型から生産を開始したC6型コルベットは、「Power,Passion,Precision(よりパワフルに、情熱的に、精緻に)」をコンセプトに掲げ、C5に存在した欠点を洗い出し、改善した正常進化モデルである。そのため、メカニズム的な共通点は多いものの、そのほとんどは新しく設計されている。実際の生産は秋頃から開始され、日本での販売は2005年2月11日から行われている。また、衝突安全性や軽量化の視点からリトラクタブル・ヘッドライトは廃止され、吊り目型の固定式ヘッドライトが採用された。このデザインは、当時GMの傘下であったフィアット(同じ年に解消)のグループ企業であるフェラーリの影響が色濃く残っており、そのためにバルケッタや360とヘッドライトが似ている。C5にも密接に関わり、その後GMハイパフォーマンスカー設計グループのチーフを務めたデイブ・ヒルが開発リーダーを務めた。
曲面で構成されていたC5と比較し、よりエッジの利いたラインで構成された力強いスタイリングとなった。また、運動性能向上のためダウンサイジングを敢行し、先代より全長100mm、全幅10mm、全高20mmそれぞれ短縮されたが、逆にホイールベースは30mm延長され、オーバーハングを縮小することで安定性を高めている。足回りは前後ダブルウィッシュボーン式、コンポジット材を使用した横置きリーフスプリングという組み合わせは不変であるものの、C5末期に採用された、路面状況に合わせて減衰力をオートマチックに制御するマグネティック・セレクティブ・ライド・コントロールを装備している。
歴代コルベットからフレーム構造を引き継ぎ、C5で採用されたハイドロフォームによって成型される、フロアの周囲にフレームを巡らせたスチール製ペリメーターフレームを基本に、ボックス断面のセンタートンネルなどを組み合わせたフレーム構造を有する。フロアパネルにはコンポジット材を用いるなど、軽量化にも配慮がなされている。
基本的にはキャデラック・XLRとプラットフォームを共有しており、この車の開発にはデイブ・ヒルが指揮を執った経緯が存在する。また、細部形状の適正化により、先代のCD値0.29を更に上回り、0.28と優秀な空力特性を実現している。
パワートレインは先代からの流用で、新型に合わせて改良を施されている。LS2と銘打たれた、5967ccにボアアップされたスモールブロックユニットは404馬力を発生する。ギアボックスがディファレンシャルギアと一体構造となるトランスアクスルも引き継がれており、前51:後49という、スポーツカーとして理想的な前後重量配分を保っている。トランスミッションのバリエーションは2種類で、日本仕様ではクーペにのみ設定される6速マニュアルミッションと4速オートマチックが用意される。また、2006年モデルではオートマチックが6速・パドルシフト付きに変更される。
発売当初、アメリカではガイ・リッチーが監督したテレビコマーシャルが放映されたが、「子供がクルマを運転するのは危険」だと指摘され、すぐに放送中止となった。
[編集] レーシングプロトタイプ
[編集] スティングレイレーサー
C2型コルベットの直接的なデザインスタディとなったのが、スティングレイレーサーと呼ばれる車である。しかし、この車は紆余曲折の末にようやく生まれた車だった。当時のAMA(自動車工業会)は、1957年のNASCARで起こった事故を契機に神経質になり、自動車企業に対し一切のワークスによるレース活動を事実上禁ずる処置を申し合わせていた。そのため、シャシーを完全新設計し、コルベットの名を借りたレーシングカーとしてサーキットでの活躍を確約されていたコルベットSSは、大きな舞台をほとんど経験することなく、テストカーとして生涯を終える運命にあった。 それを阻止したのが、C3型コルベットまで開発の中枢メンバーの一人だったビル・ミッチェルで、彼はコルベットSSのフレームを流用したMule(C1型ベースのものではなく、コルベットSSの計画が立ち上がる際に新規製作されたもの)を僅か1ドルで引き取り、新たなデザインに仕立て直した。デザインを手がけたのは、シェルビー・コブラデイトナクーペの設計を担当したこともあるピート・ブロック。彼は当初、クーペスタイルを主張したが、いくつかの変遷を経てオープンカーとすることになった。
フレームには鋼管スペースフレーム構造が採用され、オープンカーながら剛性の高いシャシーを実現した。サスペンションは、前ダブルウィッシュボーン式、後ドディオン・アクスル+トレーリングアームが採用された。しかし、デフにLSDを採用せず、ブレーキはレーシングカーとしては性能不足な4輪ドラムブレーキであったため、ハードなコーナーリングをすると内側のタイヤがホイールスピンし、レースを走り終えると必ずフェードを起こす、レーシングカーとしてあるまじき事態を引き起こした。ブレーキに関してはディスクブレーキの性能に懐疑的だったGM首脳陣が採用を認めなかったことが原因と言われている。