ラルース (F1チーム)
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参戦年度 | 1987 - 1994 |
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出走回数 | 78 (ローラとして) 16 (ヴェンチュリー・ラルース) 32 (ラルース) |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 19 (ローラとして) 1 (ヴェンチュリー・ラルース) 5 (ラルース) |
表彰台(3位以内)回数 | 1 (ローラとして) 0 (ヴェンチュリー・ラルース) 0 (ラルース) |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1987年サンマリノGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1994年オーストラリアGP |
ラルース (Larrousse) は、1987年から1994年までF1に参戦していたレーシングチーム。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 参戦開始
1987年にジェラール・ラルースとディディエ・カルメルにより「ラルース・カルメル」として設立された。しかし、カルメルは妻の殺害容疑で実刑判決を受け、後に共同オーナーを辞している。参戦開始当初は、自らシャシーを製作するのではなく、名門シャシー・コンストラクターのローラ社に依頼。エンジンはフォード・コスワースのDFZ V8を使用していた。
1987年のシーズン開幕当初はフィリップ・アリオーのみの1カー体制で、終盤戦のメキシコGPからヤニック・ダルマスを加えた2カーエントリーが実現した。アリオーがドイツGPなど3回の6位入賞、ダルマスもオーストラリアGPで5位入賞するなど、初年度としてはまずますの成績を収めた。
1988年の日本GPでは、病気になったダルマスに代えて急遽鈴木亜久里をスポット参戦させた。
[編集] エスポ傘下へ
1989年からはランボルギーニのエンジン供給を受けるも、目立った戦績は残せなかった。
そして、同年のシーズンオフに、鈴木亜久里の個人スポンサーであったエスポ(不動産業をはじめ事務機器製造販売やレンタルビデオ店「GEO」など多岐にわたる事業を展開していた日本企業)がチームの株式を取得し、同社社長の伊東和夫がチームオーナーとなった。
1990年にはエリック・ベルナールと鈴木亜久里がコンスタントに入賞するようになる。特に鈴木亜久里は地元の日本GPで、日本人として初の3位表彰台を獲得する健闘を見せた。
勢いに乗って迎えたかった1991年であったが、同じフランスチームのリジェから思わぬ横やりが入ってしまう。1990年のラルースのコンストラクターとしてのエントリー名は「ローラ・ランボルギーニ」であったが、この時獲得したコンストラクターズ・ランキングは、1991年のエントリー名の「ラルース・ランボルギーニ」には継承されない為、新規チームとしての扱いとなるラルースはFOCAからの分配金等の権利を有しないという言い分をリジェ側が主張したのだ。これに加え、オーナーでありメインスポンサーのエスポが、バブル景気崩壊による業績悪化からチームへの支援を大幅に縮小。ジェラール・ラルースが再びオーナーとなるなど経済的にも大きな打撃を受けた。
さらに、ランボルギーニ・エンジンもリジェに奪われてしまう(これについては、それ以前からランボルギーニに対するエンジン代金の支払いが滞っていたためにエンジン供給を止められただけで、その後リジェがランボルギーニからエンジン供給を受けることになったのはただの偶然だという説もある)。このためチームは前年までティレルが使用していた、ブライアン・ハートがチューニングしたコスワースDFRエンジンを使ったが、極限を通り越したとも思えるチューニングを施されたエンジンはしばしばエンジンブローを起こして、終盤戦には両ドライバーともに予選落ちを繰返す有り様であった。
[編集] ヴェンチュリー・ラルースへ
加えて、チームはこの年で倒産。日本で言う民事再生法に相当する法律を適用することになる。再生支援を行ったのが、フランスの高級自動車メーカのヴェンチュリー社で、翌1992年にチーム名を「ヴェンチュリー・ラルース」、コンストラクター名を「ヴェンチュリー・ランボルギーニ」と変更した。また、シャーシ製作もローラから、ロビン・ハード率いるフォメットをヴェンチュリーが買収したヴェンチュリーUKへと替わった。エンジンも、リジェがルノーエンジンにスイッチしたことに伴い、再びランボルギーニV12に戻している。
ドライバーにはこの年F1デビューを果たした片山右京と、前年ジョーダンで活躍を見せながら傷害事件で逮捕されたことによりシートを失っていたベルトラン・ガショーを起用した。しかし、モナコGPでのガショーの6位入賞のみが唯一のポイント獲得であった。シーズン半ばでヴェンチュリーが半ば撤退をし、ロビン・ハードがオーナーの形でラルースF1を再編成させた。併せてヴェンチュリーUKもラルースUKに改称している。
1993年からは、ようやくチーム名と同じ「ラルース」をコンストラクター名として使用するようになる。しかし、資金不足は深刻で、1993年・1994年ともシーズン終盤には鈴木利男や野田英樹などのドライバーの持参金が頼りという状況であった。1994年の中盤には、かつてドライブしていたアリオーやダルマスがスポット参戦する場面も見られたが、結局このシーズンをもってラルースはF1から姿を消すこととなってしまった。
[編集] 消滅
ちなみに、ランボルギーニは親会社のクライスラーの経営不振を受けて1993年を以てF1から撤退することとなったため、翌年に向けてチームは、F1参戦が噂されたプジョーとのパートナーシップを模索したが、契約寸前になって、ホンダ撤退以来ワークスエンジンを欲していたマクラーレンにプジョーを寝取られる形となった。結局、1994年のラルースは非力なフォード・コスワースV8エンジンを使用せざるを得なくなった。クローネンブルグをメインスポンサーに獲得したもののこの年は際立った成績を残せず、シーズン終了とともに撤退、消滅した。
このようにチームは次々とオーナーが変わるなど安定した体制で参戦したシーズンは1度として無かったが、実際のチーム運営は一貫してマネージングディレクターのジェラール・ラルースとテクニカルディレクターのミッシェル・テツが取り仕切った。
[編集] 日本との関係
なお、ラルースは例年弱小チームとしての見られ方が一般的であったが、一時は日本企業がオーナーとなった上に、その歴史を通じて日本人ドライバーを数多く起用したことから、日本のF1ファンからは比較的親しみのあるチームであった。