アンドレア・デ・チェザリス
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F1での経歴 | |
国籍 | イタリア |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | アルファ・ロメオ, マクラーレン, リジェ, ミナルディ, ブラバム, リアル, スクーデリア・イタリア, ジョーダン, ティレル, ザウバー |
活動時期 | 1980 - 1994 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 208 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 59 |
表彰台(3位以内)回数 | 5 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 1980年カナダGP |
初勝利 | - |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1994年ヨーロッパGP |
アンドレア・デ・チェザリス(Andrea de Cesaris, 1959年5月31日 - )は、イタリア出身の元レーシングドライバー。
事故を多く起こすことから、「壊し屋」や「デ・クラッシャリス」の異名をとった。
目次 |
[編集] 人物紹介
2008年現在、F1において「優勝していないドライバーでの歴代最多出走回数(208回、歴代出走回数では6位)」という、記録を保持している。前述の事故の多さから、リタイア総回数・連続リタイヤ数も第1位である(生涯完走率は34.1%にすぎない)。
マールボロをスポンサーとしていたことからシートに困らなかったことも、ずっと同じようなドライビングを繰り返していた原因の一つと言われる。後には下位チームに在籍することが多くなり、マシンの信頼性が低く、苦戦したことも起因するという意見もある。
キャリア15年で、延べ12チームに在籍と移籍の多いキャリアだった。
[編集] 経歴
[編集] 期待の若手時代
フィリップモリス重役の息子という裕福な環境に育ち、若いころからイタリアマールボロのサポートを受ける。世界レーシングカートチャンピオンからF2を経て、1980年第13戦カナダGPにてアルファ・ロメオからF1デビュー。
1980年は終盤2戦のみの出走だったが、翌1981年はマクラーレンからフル参戦を開始、第4戦サンマリノGPで6位に入り、初入賞を記録した。フル参戦2年目となる1982年はアルファロメオより参戦、第3戦アメリカ西GPではポールポジションを獲得した(獲得の早さは歴代3位、当時の最年少記録)が、獲得が判明した時点で極度に緊張し、決勝ではそれを見透かされたベテランのニキ・ラウダにつけこまれ、勝利を逃した(2位走行中、クラッシュしリタイア)。その後、第6戦モナコGPで3位に入り、初の表彰台を獲得。翌1983年には第6戦ベルギーGPでファステストラップを記録し(獲得の早さは歴代6位)、2位表彰台も2度獲得した。
速さの評価自体は低くはなかったが、1980年は2戦とも、1981年は15戦中8回、1982年は16戦中10回、1983年は14戦中9回と多くのリタイヤを喫していた。その後何年経ってもクラッシュやリタイヤが減らなかったことから、チェザリスのイメージは次第に「荒いが速い」から「速いが荒い」に変化していくことになる。
[編集] クラッシュキング
1984年からはリジェより参戦したが、この年は16戦中9回のリタイヤ。1985年は第11戦オランダGPで5戦連続かつシーズン8度目のリタイヤを喫し、その後のシートを失っている。
その後、1986年はミナルディから参戦するが、決勝進出した15戦中完走は1回であり、14度のリタイヤの中には10戦連続のリタイヤも含まれている(ただし、ドライビングミス以上にエンジン自体に難があり、同僚のアレッサンドロ・ナニーニも完走は1回だった)。1987年はブラバムより参戦、第3戦ベルギーGPで3位に入り、4年ぶりに表彰台に立つが、16戦中12戦連続を含む14回のリタイヤを喫した。リアルから参戦した1988年は、第6戦デトロイトGPで4位に入る一幕もあったが、最終的には16戦中11回のリタイヤとなった。
1989年はスクーデリア・イタリアから参戦、第6戦カナダGPでは3位表彰台を獲得した。この年は決勝に進出した15戦中リタイヤは6度となり、参戦10年目・フル参戦9年目にして、初めて完走したレースが過半数を超えた。しかし第5戦アメリカGPでは、2位を走行していたチームメイトのアレックス・カフィに、周回遅れにされる際接触してリタイヤに追い込む一幕もあった。1990年は15戦中開幕からの5戦連続を含む12回のリタイヤと1度の失格となり、完走は2度という結果に終わった。
[編集] 再評価
1991年は新規参入のジョーダンに移籍、これがチェザリスの評価が見直されていくきっかけとなる。この年のチェザリスは、それまでとは見違えるほど安定した走りを見せ、第4戦モナコGPでの予選10位、第5戦カナダGPからの連続入賞など活躍。特に第11戦ベルギーGPでは一時2位を走り、トップのアイルトン・セナの背後にまで迫った。結局、エンジンブローで走りきることは出来なかった[1]が、それまでの活躍も含め評価が大幅に挙がることになった。ただし、その後の第15戦日本GPでは3台を巻き込む多重クラッシュを引き起こし、かつての姿も見せた。この年は15戦中リタイヤは6回であり、入賞は4度記録。チームの躍進に貢献した。
ティレルに移籍した1992年も、チームメイトのオリビエ・グルイヤールが1ポイントも獲得できなかったのに対し、チェザリスは計8ポイントを稼ぎ、チームをランキング6位に導いた。その後は予選での速さを見せることも少なくなっていたが、出場停止処分を受けていたエディ・アーバインの代役として急遽出走した1994年第4モナコGPでは、4位に入った。
その後、第6戦カナダGPより負傷したカール・ヴェンドリンガーの後任としてザウバーからレギュラー参戦、第7戦フランスGPでは6位に入賞した。ただしその後はリタイヤが続き、第14戦ヨーロッパGPが最後のF1となった[2]。
[編集] F1後
2005年、往年の名選手達を集めて行われた第1回グランプリマスターズ大会に出場、4位の成績を収めている。
[編集] エピソード
- 1985年のシーズン途中、クラッシュであまりに多くのマシンをスクラップにした為、リジェチームを解雇された。
- 1991年、ジョーダンチームとの契約時に「マシンを壊したら罰金」という契約を結んだ。
- 当時日本のF1中継で実況を担当していた古舘伊知郎は、クラッシュの多さを比喩した様々な表現を行った。「犬も歩けばチェザリスに当たる」、「壊し屋チェザリス」、「走る解体屋」、「サーキットの通り魔」、「人間スクラップ工場」などの他、「野生のチェザリス牙を剥く」、「ロシアの、垂れ流しの産業廃棄物並みの危険さ」といったものもある。1991年、見違えるような変貌を見せた際には「エディ・ジョーダンによる更生」と表現していた。
[編集] スポンサー
フィリップモリスの重役の息子であったことから、一貫してマールボロのサポートを受けていたが、唯一1993年だけはレーシングスーツにマールボロのロゴが入らなかった。これは同年に在籍したティレルのチームメイト片山右京が日本のJT(日本たばこ産業)をスポンサーとして持ち込んでおり、CABINブランドとのバッティングを避けるためであった。
しかし、この年チェザリスはマールボロのサポートが止まった訳ではなく、ロゴの掲出は控えながらもチームへのスポンサーフィーの持ち込みは行なっていた。スポンサーバッティングの解消した翌年以降は、再度マールボロのロゴを付けたレーシングスーツ・ヘルメットを着用していた。
[編集] 注釈
- ^ ドライブミスによるトラブルではなく、フォード側のミスであったと言われる。
- ^ 第15戦日本GPからヴェンドリンガー復帰の予定であったが、見送られたため、チームは引き続きチェザリスを起用する予定であった。しかし、チェザリスはバカンスへ出かけてしまい連絡が取れず、J.J.レートが起用されることとなった。