アレックス・カフィ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | イタリア |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | オゼッラ,スクーデリア・イタリア, アロウズ ,フットワーク |
活動時期 | 1986-1991 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 56 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 6 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1986年イタリアGP |
初勝利 | - |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1991年オーストラリアGP |
アレックス・カフィ(Alex Caffi, 1964年3月18日 - )は、イタリア(ロンバルディア州ロヴァート)出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] F1前
イタリアFFAで1982年にランキング4位、1983年のランキング2位となり、1984年からイタリアF3にステップアップ。参戦初年度より2勝を記録し、シリーズランキング2位となった。
翌1985年もシーズン2勝でランキング2位、更にF3カップではポールポジション、ファステストラップも記録しての完全優勝を果たす。1986年は2勝でランキング3位、F3カップでは2位となった。
[編集] F1
[編集] 1986年~1987年
1986年の第13戦イタリアGPにて、オゼッラからスポット参戦。予選27位の最後尾からスタートし、11位で完走した。翌1987年はオゼッラからフル参戦を開始するが、16戦中第2戦サンマリノGPの12位が唯一の完走となり、中盤の8戦連続を含む13回のリタイヤ、2度の予選落ちを喫す。リタイヤ原因の多くは、エンジンや電気系、トランスミッションなどのマシントラブルだった。
[編集] 1988年~1989年
1988年はスクーデリア・イタリアに移籍、開幕戦は欠場し、第2戦サンマリノGPからの出走となった。15戦中完走7回、リタイヤ7回、予備予選落ち1回、最高位は第13戦ポルトガルGPの7位だった。この年も、リタイヤ原因はスピンした第3戦モナコGPと第15戦日本GPの2度を除き、マシントラブルに起因するものだった。
1989年は、カフィ躍進の年となった。第3戦モナコGPでは、予選9位から4位に入り初入賞。第6戦アメリカGPでも、予選6位から一時2位に浮上する走りを見せた。アメリカGPでは、周回遅れにしようとしたチームメイトのアンドレア・デ・チェザリスに激突され、リタイヤに終わるが、続く第6戦カナダGPでは予選8位から6位に入り、今シーズン2度目の入賞を記録した。
更に、第10戦ハンガリーGPでは予選で3位につけ注目を集めるが、決勝は7位に終わっている。この他にも、非力なマシンで何度か8位や9位などの上位グリッドに付け、高い評価を受けた。
[編集] 1990年~1991年
1990年よりアロウズに移籍、第4戦モナコGPで5位に入賞した。入賞は1度きりだったが、非力なマシンでシングルフィニッシュを7度記録し、予選でもチームメイトのベテラン・ミケーレ・アルボレートを度々上回るなど(8勝6敗)、才能の片鱗を見せた。
1991年は、チームがポルシェV12エンジンを積むことになり、カフィはアルボレート共々活躍を期待された。しかし期待されたポルシェエンジンは、実際には重いうえにパワー不足の欠陥品であり、カフィは開幕から4戦連続予選落ちを喫す。
加えて、第5戦カナダGP直前には交通事故で両足を骨折、4戦を欠場する事態となった。第9戦ドイツGPより復帰するが、6戦連続で決勝には進めなかった。また、チームは後期は予備予選組に回されており、6戦中5度は予選にすら進出出来なかった。ようやく決勝に進出したのは、第15戦日本GPでのことだった。最終戦オーストラリアGPでも進出したが、結局決勝進出は2度という結果に終わっている。
[編集] 1992年
1992年はアンドレア・モーダと契約。しかし、開幕戦ではFISAへの保証金未払いにより、参戦を拒否される。そしてこのレース後、カフィはチームを離脱し、1度も走らないままF1を後にした。
[編集] F1後
F1後は主にハコレースで活動。ISMAやALMS、FIAS、Grand-Amなどに参戦。ル・マン24時間レースにも参戦している。