エディ・チーバーJr.
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F1での経歴 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | セオドール,ヘスケス, オゼッラ,ティレル,リジェ, ルノー,アルファ・ロメオ,ローラ, アロウズ |
活動時期 | 1978,1980 - 1989 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 132 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 70 |
表彰台(3位以内)回数 | 9 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1978年南アフリカGP |
初勝利 | - |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1989年オーストラリアGP |
エドワード”エディ”・マッカイ・チーバーJr.(Edward "Eddie" McKay Cheever, Jr., 1958年1月10日 - )はアメリカ出身のカーレーサー。元F1,CART,IRLドライバー。意外に知られていないが、アメリカ人としてF1最多出走ドライバーである。F1時代はエディ・チーバーと、またアメリカに戻ってからは、エディ・チーバーJr.と呼ばれることが多い。1998年にインディ500をチームオーナー兼ドライバーとして制している。また、弟のロス・チーバーは日本でも活躍したカーレーサーである。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] カート/F3時代
アリゾナ州フェニックス出身。幼少時にイタリア・ローマに移住し、そこでレーシングカートでレースキャリアをスタートさせる。F3では同じアメリカ人で、後に同じくF1に参戦し、インディ500も制したダニー・サリバンとコンビを組み、またF2ではマクラーレン参入前のロン・デニスのチームで走っている。
[編集] F1時代
1978年、若干20歳でセオドールから開幕2戦にエントリーするも、共に予選落ちし、ケケ・ロズベルグに取って代わられる。ヘスケスからエントリーした翌3戦目の南アフリカで初めて予選を通過するが、この年の決勝レースはこれ1戦のみとなる。また翌年はブランクをあけることになる。
1980年、オゼッラから初めてフル参戦を果たすが、4戦予選落ち、完走1戦のみに終わる。活躍するのはティレルに移籍した1981年から。開幕戦母国アメリカで初入賞を5位で果たすと計5戦に入賞、10ポイントを上げる。さらにリジェに移籍した1982年には入賞は4戦に減るが、母国での2位表彰台を含む3回の表彰台を獲得し、翌1983年にルノーに抜擢される。
ルノーでは、アラン・プロストのチームメイトとなり、4度の表彰台を含む22ポイントでランキングベストの7位に食い込む。しかし、ルノーでの生活も1年で終わり、アルファ・ロメオでの2年間は移籍初戦の5位入賞以外に入賞することはなかった。
1986年はカール・ハース率いるローラから母国アメリカのみスポット参戦。1987年からは中堅チームのアロウズに3年間在籍するが、入賞を何度かするものの目立った成績を上げることはできず、1989年末で母国アメリカへと戻ることになる。
[編集] CART/IRL時代
その後はCARTへ参戦し中堅チームから参戦を続けた。IRLが分裂した1996年にはIRLへ移籍し、その年後半には自らのチームを立ち上げ、IRLでの参戦を継続する。
1998年にはインディ500を制し、またその後は参戦台数中1、2台しか採用していなかった日産製インフィニティエンジンで孤軍奮闘を続けるが、インフィニティが撤退した2002年限りで第一線からは退き、その後はチームオーナーに専念しつつ、インディ500を中心としたスポット参戦や、グランプリマスターズにも参加(シルバーストン大会では優勝)している。
[編集] 関連項目
- アンソニー・デビッドソン…デビッドソンのヘルメットのデザインはチーバーのデザインをモチーフとしている。
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧