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B・A・R - Wikipedia

B・A・R

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

B・A・R
参戦年度 1999 - 2005
出走回数 117
コンストラクターズタイトル 0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 227
表彰台(3位以内)回数 15
ポールポジション 2
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1999年オーストラリアGP
初勝利
最終勝利
最終戦 2005年中国GP
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B・A・R(ビーエーアール)は、F1に1999年から2005年まで参戦していたF1コンストラクター。参戦当初のチーム名はブリティッシュ・アメリカン・レーシング(British American Racing,BAR)、2003年からB・A・Rに改称。

2005年末に本田技研工業がチーム株式の全てを取得したため、B・A・Rとしての活動は2005年をもって終止符が打たれた。2006年からF1参戦を開始(再開)したホンダフルワークスのホンダ・レーシング・F1チームの前身である。

目次

[編集] 歴史

[編集] 成立

ジャック・ヴィルヌーヴのマネージャーだったクレイグ・ポロックが、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT/British American Tobacco、ラッキーストライク等で有名なタバコ会社)、レースカーの車体開発会社であるレイナードのバックアップを得て、資金難にあったティレル1998年に買収し、翌1999年からブリティッシュ・アメリカン・レーシングBritish American Racing/通称:BAR)としてF1に参戦。エースドライバーには、当然のことながら1997年のF1チャンピオンドライバーであるヴィルヌーヴを迎えた。

新チームでありながら、ルノーのエンジン(カスタマー仕様であるスーパーテック)と、レース用車体専門メーカーであるレイナード、チャンピオン経験者であるヴィルヌーヴのコラボレーションを得たことに自信を持ったポロックはじめとするBAR関係者らは、「レイナードが提供した車体は全てのフォーミュラレースカテゴリーの参戦初戦で優勝している」と不遜にも豪語した。加えて、資金力にものを言わせて既存チームのチームスタッフに強引なヘッドハンティングをしかけていたことへの反感もあり、参戦前から多くのF1関係者の顰蹙を買ってしまった。

一方で、ポロックらが豪語したごとく、稀に見る充実した体制による新規チームであったことは事実であり、型破りな新チームの出現に期待を寄せたファン、関係者が少なくなかった。しかし、その期待はデビューまもなく大きく裏切られることとなる。

[編集] 期待はずれ (1999年)

期待はずれの原因のひとつはエンジンである。ルノーはウィリアムズと組んで1997年にドライバーとコンストラクターの両チャンピオンシップを手に入れた。このときのエースドライバーがジャック・ヴィルヌーヴである。ルノーはこの年を最後に自分自身がエンジンの開発費用や保守費用を負担してF1に参加することをやめ、購入を希望するチームに1997年型のエンジンの改良版を有償で提供するビジネスモデルに移行していた。提供先のチームにより「プレイライフ」「メカクローム」などと呼ばれたこれらのエンジンは、たしかにチャンピオンを獲得したエンジンの改良型ではあったが、技術革新のスピードが速いF1の世界ではすぐに時代遅れになっていった。もちろん1999年にBARのマシンに積まれた「スーパーテック」エンジンも例外ではなかった。ドライバーは口々にエンジンのパワー不足や、振動などの問題を指摘し、運転しにくい上に車体に負担がかかり、さまざまな悪い影響が出ていると語った。

ふたつめの期待はずれは、レイナード社が中心になって開発した車体である。レース用車体専門メーカーであるが、F1マシンを開発した経験らしい経験はほとんどなかった彼らが作り上げたマシンは、F1の世界で取り入れられた多くの技術的成果が反映されておらず、性能も散々なものだった。特に空力性能の低さは特筆すべきもので、『F3000の車体との違いがわからない』と語る関係者も少なくなかった。

これらエンジンと車体の二つの悪い条件が重なり、その上マシンには信頼性がなく、トラブルが頻発しドライバーたちはレース途中でのリタイアを強いられた。

予選では速さを見せるものの、開幕以前に公言していた優勝どころか6位入賞すらかなわず年間通じてただの1点も取れぬほどに低迷し、コンストラクターズランキングは、万年テールエンダーでチーム規模もはるかに小さいミナルディにすら遅れをとり、最下位に甘んじた。さらに、エースドライバーであるヴィルヌーヴは、チャンピオン経験者でありながら、開幕戦から11レース連続リタイアという史上初となる不名誉な記録を作るという屈辱を味わった(2007年現在、開幕11戦連続リタイアの記録は未だ破られていない)。全体的に見ても、シーズンを通じて2台で合計31回出走し、うち完走扱いがわずか10回しかなく、全レースの3分の2を主にマシントラブルによってリタイアを強いられるという惨憺たる結果に終わる。2台完走したレースとしては、1台が完走しもう1台が規定周回数を満たして完走扱いとなったヨーロッパGPと、最終戦日本GPの2レースのみで、2台共に「チェッカーを受けた」のは日本GPのみであった。

車体の面以外でも、F1のレギュレーションなどに対する不慣れも目立った。当初チームは2台のマシンの1台をラッキーストライク、もう1台を555、と、BATの2つの異なるタバコブランドのカラーリングにしようとしていた。しかし、F1のレギュレーション上、同一チームのマシンは単一のカラーリングである必要がある、との指摘を受け、急遽マシンの左右を異なるカラーリングに塗り分けることになった(第2戦から中央部にはファスナーが描かれた)。結局、青をベースにした555のカラーと、白をベースに赤・黒をあしらったラッキーストライクのカラーは決してうまく調和せず、デザイン的には散々なものとなり、このカラーリングは、日本では、同年開幕戦のフジテレビジョン解説陣をはじめ、一部のファンからキカイダーと呼ばれた。加えて、元々ふたつのブランドを宣伝することを条件にBATから複数年かつ大量の資金提供を引き出していたため、その前提がほころびを見せたことでチームの長期的な資金繰りは早くも方針の転換を余儀なくされた。

自業自得ではあるが、参戦前からポロックらが大言壮語と既存チームへの無作法を繰り返していたこともあり、これらB・A・Rの逆境に対しての他チームとパドック、メディア関係者らの反応はきわめて冷ややかなものだった。

[編集] 低迷 (2000年から2003年)

2年目となる2000年からは、計画していた自社独自のF1参戦を取りやめたホンダ製のエンジンを搭載して飛躍を図った。しかし、思ったような結果は出なかった。ヴィルヌーヴが4位に4回食い込むなどして奮闘したものの、年間で20ポイントを獲得し、11チーム中5位を確保するのが精一杯だった。前年に比べればずいぶんましになったものの、1980年代に圧倒的な強さを発揮したホンダエンジンを積んだにもかかわらず、資金力ではるかに劣るチームと順位を争っていることに関係者の苛立ちはつのった。

3年目となる2001年は、リカルド・ゾンタに替え前年マクラーレンのテストドライバーとして高い評価を得ていたオリビエ・パニスを獲得して臨んだ。しかしながら、第5戦スペインGPでは、ヴィルヌーヴがチーム初の表彰台3位を獲得、第12戦ドイツGPでも3位に入ったものの、全体としてチームの成績は低迷を続け、年間の獲得ポイントは前年を下回り17ポイント、コンストラクターズランキングは6位に後退した。

2002年はさらに低迷が進み、年間でわずか7ポイントしか獲得できず、コンストラクターズランキングでは8位に転落。しかも、この年レイナード社が倒産した。シーズン後半にチーム体制の大幅な変更があり、ポロックが実質上チームを追われ、後任としてプロドライブ社会長であるデビッド・リチャーズがチーム監督として実権を握ることとなった。

2003年のシーズン開幕前にチーム名称を「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」(British American Racing)から「B・A・R」に変更。オリビエ・パニスに替えてジェンソン・バトンをレギュラードライバーとして獲得。また、前年ジョーダンのレギュラードライバーだった佐藤琢磨をサードドライバーとして迎え入れた。シャシーは、前年ウィリアムズより獲得したデザイナー、ジェフ・ウィリスの手による新車"BAR005"を投入。ブリヂストンタイヤとのマッチングに悩まされたものの、中団争いではそこそこの戦闘力を発揮し、この年は26ポイントをあげランキング5位を獲得した。また、最終戦日本GPの開催直前には翌年からヴィルヌーヴに代わり佐藤をレギュラードライバーとして起用することが発表された。これを受け、ヴィルヌーヴは急遽参戦を取りやめ、代わりに佐藤がドライブするという椿事になった。このレースで佐藤は入賞を果たしている。

[編集] 躍進 (2004年)

佐藤琢磨(2004年アメリカGP)
佐藤琢磨(2004年アメリカGP)

ミシュランタイヤにスイッチして臨んだ2004年シーズンは、佐藤がヴィルヌーヴに代わってレギュラードライバーに昇格し、バトンとコンビを組むことになる。マクラーレンウィリアムズなどの名門チームの不調もあり、コンストラクターズランキングでルノーチームと2位を競う好調さを見せ、サンマリノGPでは、ジェンソン・バトンがチームにとってもドライバーにとってもF1初となるポールポジション、さらにチーム歴代最高位となる2位表彰台を獲得している。佐藤もアメリカGPで日本人14年ぶりとなる3位表彰台を得たほか、ヨーロッパGPでは予選でフロントローの2位を獲得するなどした。終盤戦には調子を落としたルノーを振り切り、コンストラクターズランキング2位で大躍進のシーズンを終えた。

しかし、シーズン中盤のドイツGP直後に、バトンがウィリアムズチームとの契約を突然発表(通称「バトンゲート」)、これに対してチーム側は当該契約は無効であるとして、契約承認委員会に審査を申し立てる事態となった。結局、ブラジルGP直前にB・A・R側の言い分が認められ、バトンの残留は決定したが、2006年の契約についてはパフォーマンス条項(ある定められた時点でポイントリーダーとの差が定められた範囲以上に離れていれば移籍を自由とする)が存在しているとの噂が流れるなど、不穏な空気を残すこととなった。

シーズン終了後の11月19日、本田技研工業がB・A・Rに資本参加をすることが発表される。出資比率はBATが55%、ホンダが45%。また、同時にプロドライブ社とBATの提携が解消され、リチャーズらはチームを去った。

[編集] 迷走 (2005年)

BAR007を駆るバトン(アメリカGP)
BAR007を駆るバトン(アメリカGP)

チームを去ったデビッド・リチャーズの後継としてプロドライブのニック・フライがチームCEOに就任。また、サンマリノGPからはジル・ド・フェランをスポーティング・ディレクターとして招聘した。

B・A・Rは2004年シーズン開幕前と同様に、2004年型シャーシに2005年用パーツを組み込んだハイブリッドマシンで冬季テストに臨んだが、前年ほど好タイムを連発、という事はなかった。果たして開幕後もマシンの熟成は十分でなく、開幕戦のオーストラリアGPから第3戦バーレーンGPまでは、3戦で表彰台はおろか1ポイントすら獲得できないと言う事態に陥ってしまった。

迎えた第4戦サンマリノGPでは、レース前のテストでカタロニアシルキュイ・ポール・リカールの非公式コースレコードタイムを更新し、レースでもその速さを見せバトンが3位、佐藤は5位でフィニッシュと前年の競争力が復活したように見えた。しかしレース終了後の車検で重量規定違反を問われ、サンマリノGPはレース失格となり、獲得した10ポイントを剥奪されたばかりでなく、第5戦スペインGP、第6戦モナコGPの出場停止処分が下された。

この様に前半戦は惨憺たる成績であったが、バトンが第8戦カナダGPでポールポジションを獲得、第10戦フランスGPから最終戦中国GPまで10戦連続ポイント獲得(第12戦ドイツGPと第16戦ベルギーGPでは3位表彰台)と後半戦では見事に復調した。これに対して、佐藤は不振をきわめ、年間でハンガリーGPでの1ポイントのみしか獲得できなかった。

この間、前年から引きずってきたバトンとの契約問題は、ウィリアムズ側が一貫して保有権を主張するも、2005年のウィリアムズチームのパフォーマンスの低さを見たバトンが今度は移籍を急遽取りやめ残留を望んだことから、依然として解決しないままの状態が続いた。(通称「バトンゲート2」)こうした事態を受け、チームは2006年のドライバーとしてルーベンス・バリチェロと契約を結び、バトン移籍という最悪の事態へのリスク回避を行っていた。結果的に、9月末のブラジルGP直前に、ウィリアムズへ違約金を払うことにより契約解除を勝ち取ったバトンが、2006年にもチームへ残留することとなり、バトンが移籍するのを前提に交渉していた佐藤がチームを去らざるをえなくなる。 ただしこの佐藤の移籍(仕打ち)が日本のファンの反感を予想以上に買い、結果として佐藤の受け皿のためスーパーアグリF1チーム設立を手助けした。


一方ヨーロッパではタバコ広告規制の強化が進み、ハンガリーGPの決勝日(7月31日)以降は、タバコ広告が禁止されていない国でのレースであってもそれがヨーロッパでテレビ放映されていれば違反に問われる、という話がささやかれた(実際にはこの件はその後うやむやとなる)。こうした流れを受け、BATはチーム運営から降りることを決断し、10月4日に自らのチーム株式持分である55%全てをホンダに売却した。これにより、B・A・Rチーム運営会社の全株式を取得したホンダは翌年から自社名義のフルワークスチームとして参戦することを発表。B・A・Rその歴史に終止符が打たれることとなった。

[編集] 変遷表

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 最高位
2005年 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ 007 M ホンダRA005E エネオス ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
アンソニー・デビッドソン
6 3位
2004年 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ 006 M ホンダRA004E エネオス ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
2 2位
2003年 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ 005 B ホンダRA003E エネオス ジャック・ヴィルヌーヴ
ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
5 4位
2002年 ラッキーストライク・BAR・ホンダ 004 B ホンダRA002E エネオス ジャック・ヴィルヌーヴ
オリビエ・パニス
8 6位
2001年 ラッキーストライク・レイナード・BAR・ホンダ 003 B ホンダRA001E エネオス オリビエ・パニス
ジャック・ヴィルヌーヴ
6 3位
2000年 ラッキーストライク・BAR・ホンダ 002 B ホンダRA000E エネオス ジャック・ヴィルヌーヴ
リカルド・ゾンタ
5 4位
1999年 ブリティッシュ・アメリカン・レーシング 001 B スーパーテックFB01 エルフ ジャック・ヴィルヌーヴ
リカルド・ゾンタ
ミカ・サロ
11 8位


[編集] 歴代の体制

  • チーム代表(マネージング・ディレクター)
    1999年 - 2001年 クレイグ・ポロック
    2002年 - 2004年 デビッド・リチャーズ
    2005年 ニック・フライ
  • テクニカル・ディレクター/チーフデザイナー:
    1999年 - 2002年 エイドリアン・レイナード、マルコム・オースラー、アンディ・グリーン
    2002年 - 2005年 ジェフ・ウィリス
  • スポーティング・ディレクター:
    2005年 ジル・ド・フェラン

[編集] B・A・Rのあれこれ

  • a tradition of excellence(華麗なる伝統)
1998年、翌年からの参戦に先立ちチームロゴマークが発表された際に添えられたフレーズ。1戦も走っていない新規チームによるものであったため、関係者から失笑を買った。このロゴマークはその年が最後の参戦となるティレルのノーズコーン先端にも付けられており、B・A・Rとしては伝統あるティレルを引き継ぐという意味を込めたとも考えられるが、レイナードと組んで自前のファクトリーを用意し、スタッフも他のトップチームからかき集めたB・A・Rは、ティレルの資産をまったくと言っていいほど活用しておらず、F1関係者やファンから敬意を集めていたケン・ティレルとその伝統あるチームを冷遇していたことは、少なからぬ数のF1関係者の心象を損なった。
この話にはさらに余談があり、B・A・Rから放り出される形になった旧ティレルスタッフは、1999年ハーベイ・ポスルスウェイトを中心に、ホンダの第3期F1プロジェクトの母体として参戦準備と試作車RA099のテストを担うこととなる。当然、彼らは翌年からのF1参戦を疑っていなかったが、今度はホンダが、フルコンストラクター体制での参戦を取りやめることと、翌年からエンジンコンストラクターとして参戦することを突如として発表した(テスト日程を消化している最中に文字通り突然発表された)。これにより、旧ティレルスタッフは、再び路頭に迷うこととなる。ホンダが2000年からの復帰の相手に選んだチームはB・A・Rだった。
  • Lucky Strike Reynard British American Racing BAR Honda
2000年のB・A・Rのエントリー名である。あまりにも長すぎたためか、翌2001年はBARを省いて「Lucky Strike Reynard British American Racing Honda」(レイナード倒産後は「Lucky Strike British American Racing Honda」)とし、さらに、2003年からはチーム名自体を略称であり通称である「B・A・R」に変更し「Lucky Strike B・A・R Honda」の名前でエントリーした。
元々、ブリティッシュ・アメリカン・レーシングというチーム名は親会社ブリティッシュ・アメリカン・タバコと同一性を持たせることで将来のタバコ広告規制をかわす目論見があったと言われており、参戦時はフルネームにこだわる傾向があったようである。インターネット上のチーム公式サイトも当初はwww.britishamericanracing.comというアドレスしか用意されていなかった。初年度の1999年は単に「British American Racing」という名称でエントリーしている。
  • British Amateur Racing (イギリスのアマチュアチーム)
予算を費やしながら一向に成績が上向かないB・A・Rの運営法を皮肉ったメディアがこう呼んだ。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク


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