ルーベンス・バリチェロ
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F1での経歴 | |
国籍 | ブラジル |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | 17 |
所属チーム | ホンダ |
活動時期 | 1993 - |
過去の所属チーム | ジョーダン, スチュワート, フェラーリ |
出走回数 | 257 |
優勝回数 | 9 |
通算獲得ポイント | 519 |
表彰台(3位以内)回数 | 61 |
ポールポジション | 13 |
ファステストラップ | 16 |
F1デビュー戦 | 1993年南アフリカGP |
初勝利 | 2000年ドイツGP |
2008年順位 | -位 (0ポイント) |
(記録は2008年第5戦終了時) | |
ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ(Rubens Gonçalves Barrichello, 1972年5月23日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身のレーシングドライバーである。愛称は「小さなルーベンス」を意味するルビーニョ(Rubinho)。
2008年第5戦までにF1で通算258戦(決勝出走257戦)に参戦しているベテランドライバーで、これはF1史上歴代1位の記録である。もちろん、2008年のF1シーズンの出場ドライバーの中では最多となる。
F1において、史上最年少でポールポジションを獲得する(後にフェルナンド・アロンソによって更新された)など実力を早くから見せていた一方で、競争力の高い車にはなかなか恵まれなかったため、初ファステストラップと初優勝は、それぞれ参戦115戦目、125戦目に記録しており、これらは各記録の経験者の中では最も遅い記録となっている。
目次 |
[編集] 初期の経歴
1981年にカートを始め、1990年にヨーロッパに移るまで、強豪がしのぎを削る当時のブラジル選手権においてチャンピオンタイトル5回、ランキング2位3回、サンパウロ州選手権においてもチャンピオンタイトル5回、ランキング2位3回という圧倒的な成績を残し、早くから将来を嘱望された。
1989年にフォーミュラ・フォードのブラジル国内選手権に参戦し(年間ランキング4位)、1990年にはイギリスへと移り、同年にはフォーミュラ・オペル選手権を初年度でいきなり制した。
1991年にはF3へとステップアップし、デビッド・クルサードとの争いを制して、このイギリスF3選手権において19歳にしてチャンピオンに輝いた。
この時点ですでにF1参戦の声がかかるようになったが、翌年は国際F3000にステップアップする道を選んだ。結果として、この年はランキング3位を記録し、普通に考えれば上出来の結果と言えるが、タイトルは逃したため、それまで順風だった評価には若干の傷をつける形となってしまった。なお、この年のチャンピオンはルカ・バドエルが獲得している。
この年のうちにジョーダン・グランプリと契約を結び、翌年のF1ステップアップを決める。
[編集] F1における経歴
[編集] ジョーダン~スチュワート
1993年、弱冠20歳でジョーダンからF1デビューした。ポイント獲得こそ終盤の日本GPにおける5位2ポイントにとどまったが、シーズン通してイワン・カペリ、ティエリー・ブーツェンといったベテランも含め、チームメイトを着実に凌駕し、豪雨の中行われた第3戦ヨーロッパGPにおいては非力なマシンで一時2位を走行し、その実力を垣間見せる。
翌1994年の第2戦パシフィックGPで初表彰台を獲得するが、次のサンマリノGP初日に猛スピードでタイヤバリアに激突する大クラッシュを演じ鼻骨を骨折、悪夢のグランプリの最初の被害者となってしまう。その後は同年第11戦ベルギーGPでは、ウェットからドライコンディションへの変化に上手く対応し初のポールポジションを獲得。年間ランキングも6位で終えはしたものの、チームメイトでランキング的には大きく引き離したエディ・アーバイン(16位)にも時折り上回られることがありイメージ的に冴えず、チーム力の低下、同郷の英雄アイルトン・セナの死の影響もあり、影を薄くした。
続く1995年と1996年は1995年のカナダGPで2位表彰台に立ったことを除けばそれほど変わり映えのしない年となり、1996年にはチームオーナーのエディ・ジョーダンとの折り合いも悪くなって移籍を決意する(ただしエディ・ジョーダン個人とはその後も良好な関係を保った)。
1997年に新興スチュワート・グランプリにナンバー1ドライバーとして移籍。信頼性のないマシンに苦しみながらも第5戦モナコGPで2位表彰台を獲得。1999年第7戦フランスGPでチーム初、自身2度目のポールポジションを獲得しエースとして実力を見せるも、チーム初優勝は第14戦のヨーロッパGPでジョニー・ハーバートにさらわれた。
ジョーダン、スチュワート時代の7年間は年間ランキングでは、チームメイトのアーバイン、マーティン・ブランドル、ヤン・マグヌッセン、、ヨス・フェルスタッペン、ハーバートに対して一度も遅れを取っていないものの、アーバインにはフェラーリ移籍(1996年)を、ハーバートにはスチュワートにおける初優勝をさらわれる形となり、関係者の評価こそ高かったものの、スポットライトが当たることは乏しかった。
[編集] フェラーリ
2000年には安定感を買われ、ミハエル・シューマッハのチームメイトとしてフェラーリに加入し、ブラジル人としては初のフェラーリドライバーとなった。この際、当初バリチェロは自身の契約がシューマッハとの「ジョイント・ナンバー1」で対等なものであると主張したが、開幕直前にはその発言を改め、自身は「ナンバー1b」だと語り、実質的には「ナンバー2」であることを認める、という一幕があった。この年からは表彰台の常連となり、同年第11戦ドイツGPで決勝出走124戦目(参戦128戦目)にして初優勝を飾った[1]。
続く2001年には年間ランキングもF1において自身最高位となる3位となり、翌2002年は4勝を記録しランキング2位となった。しかしながら、これらの年はシューマッハのサポート役に徹し、決してシューマッハを抜く姿勢を見せないことから『シューマッハの飼い犬』などと揶揄されることもまた多かった。このことが顕著に現れたのが2002年第6戦オーストリアGPである。このレースではファイナルラップまでバリチェロがトップだったが、チェッカーフラッグを受ける直前で2位走行中のシューマッハにトップを譲った。この行為は当時のレギュレーションでは問題なかったが、ファンからは大ブーイングが起こり、さらに表彰台でシューマッハが中央の座をバリチェロに譲った事から(この行為は禁じられている)、フェラーリ、シューマッハ、バリチェロの3者に対して罰金として合計100万ドルが課された。このことが影響したのか、それともシューマッハが独走でチャンピオンを決めたことが原因か、同年のヨーロッパGP、ハンガリーGP、イタリアGPではチームオーダーは発令されず自身が優勝を飾り[要出典]、それどころかアメリカGPではゴール目前でシューマッハから優勝を譲られる場面も見られた(シューマッハとしてはフィニッシュラインの位置を勘違いしただけで譲るつもりまではなかった、という説もある)。こうしたフェラーリの動きにより、主催団体であるFIAによって2003年からはチームオーダーが禁止されるに至った。
バリチェロはこの様にフェラーリの忠実なセカンドドライバーを務めてきたが、2005年のモナコGPで、ファイナルラップのシケインでシューマッハに強引な追い抜きを仕掛けられたことをきっかけに、これからは対等に勝負をすると宣言するなどし、翌アメリカGPではミシュランタイヤの問題の為実質フェラーリ同士でのタイマンとなり、初めてシューマッハとやりあうシーンが見られ、このGP後に移籍を決意することとなった。(但し、2人の関係はシューマッハのかつてのチームメイトと異なり、2006年以降も良好な関係が続いており、シューマッハの引退レースとなった2006年ブラジルグランプリでは、オーバーテイクされる際に感謝の意をこめて手を振られた。)同年の8月には翌年からB・A・R(同年末にホンダによって買収されホンダF1チームとなる)へと移籍することを発表した。
2000年から2005年までの6年で、ミハエル・シューマッハと共に築いた1-2フィニッシュの回数は24回に及び、これはアイルトン・セナとアラン・プロストの組み合わせ(14回)、ミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードの組み合わせ(13回)を大きく引き離し、F1史上最多の組み合わせとなっている。
[編集] ホンダ
2006年は開幕当初は車に適応するのに苦労し、チームメイトのジェンソン・バトンに大きく引き離される形となったが、車体と自身のドライビングスタイルがマッチしていくに従い調子を上げ、中盤に入ってバトンがスランプとなったことにも助けられ第10戦アメリカGPではポイントで並ぶことに成功した。後半戦はバトンが終盤7戦を優勝1回を含め全戦入賞するという破竹の勢いを見せたこともあって、再び大きく離されることとなったが、バリチェロ自身も同じ期間に4戦連続入賞を含め5戦で入賞するというまずまずの結果で終えた。
2007年は前年にフェラーリ時代のチームメートだったミハエル・シューマッハが引退したため、現役で唯一のアイルトン・セナと同じレースを戦った経験があるF1ドライバーとなり、フジテレビのF1グランプリ中継では「セナ世代最後の男」と呼ばれた。ところがホンダRA107のパフォーマンスは最悪といっていいほどで、バトン共々苦労を強いられた。その中でも内容ではバトンに対して決して見劣りはしなかったものの、バトンがなんとか数回の入賞を拾ったのとは対照的に、バリチェロは荒れたカナダGPや日本GPで上位を走る姿を見せるも、いずれもチームのピット戦略の稚拙さに何度も泣かされる格好で入賞のチャンスを逃し、結局この年は1ポイントも獲得する事ができず、自身初の年間ノーポイントとなった。シーズン末にはスーパーアグリに移籍するという異動の情報も流れたが、2008年もホンダのドライバーとして残留した。
2008年は開幕戦で久々の6位入賞を果たしたかに思われたが、ピットレーン信号無視による失格の裁定を受けた。その後、F1グランプリ通算257戦目となった第5戦トルコGPではリカルド・パトレーゼの記録を15年ぶりに塗り替え、歴代最多出走記録を樹立した。なおこの記録に関しては、1998年第13戦ベルギーGPなど決勝出走していないレースもいくつかあるため雑誌やメディアによって基準の判断が異なり、広く論じられていたが、バリチェロ本人とチームはこのトルコGPで記録更新のお祝いをしており、そのことからも唯一予選落ちした1994年第3戦サンマリノGPを除き、予選を通過して決勝に進出した全てのレースを出走とカウントするのが通説となった。その次のモナコGPでは、序盤雨の荒れたレースを乗り越え、6位入賞を果たし、2006年最終戦ブラジルGP以来のポイントを獲得した。また、次戦のカナダGPでも7位でフィニッシュ。連続入賞を果たした。
[編集] F1での年度別成績
(2008年第6戦終了時)
年 | 所属チーム | # | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1993年 | ジョーダン | 14 | 17位 | 2 | 5位・1回 | 0回 | 8位・1回 |
1994年 | 14 | 6位 | 19 | 3位・1回 | 1回 | 1位・1回 | |
1995年 | 14 | 11位 | 11 | 2位・1回 | 1回 | 5位・1回 | |
1996年 | 11 | 8位 | 14 | 4位・2回 | 0回 | 2位・1回 | |
1997年 | スチュワート | 22 | 13位 | 6 | 2位・1回 | 1回 | 3位・1回 |
1998年 | 18 | 12位 | 4 | 5位・2回 | 0回 | 5位・1回 | |
1999年 | 16 | 7位 | 21 | 3位・3回 | 3回 | 1位・1回 | |
2000年 | フェラーリ | 4 | 4位 | 62 | 1位・1回 | 9回 | 1位・1回 |
2001年 | 2 | 3位 | 59 | 2位・5回 | 10回 | 2位・3回 | |
2002年 | 2 | 2位 | 77 | 1位・4回 | 10回 | 1位・3回 | |
2003年 | 2 | 4位 | 65 | 1位・2回 | 8回 | 1位・3回 | |
2004年 | 2 | 2位 | 114 | 1位・2回 | 14回 | 1位・4回 | |
2005年 | 2 | 8位 | 38 | 2位・2回 | 4回 | 6位・2回 | |
2006年 | ホンダ | 11 | 7位 | 30 | 4位・2回 | 0回 | 3位・1回 |
2007年 | 8 | 20位 | 0 | 9位・1回 | 0回 | 9位・1回 | |
2008年 | 17 | 15位 | 5 | 6位・1回 | 0回 | 9位・1回 |
[編集] 豆知識
- 母国GPであるブラジルGPにはデビュー年から2007年まで15年連続で出走しており、優勝を熱望しているが結果に恵まれていない。フロントローを獲得したことは3回あるが、決勝レースでは、最高位である2004年の3位を除き、表彰台にすら立てていない。それどころかリタイアの数は実に11回にものぼる。ポールポジションからスタートした2003年にはトップ走行中にガス欠という、当時のフェラーリとしては珍しい原因でリタイアしている。ちなみに、バリチェロの後任としてフェラーリ入りした同国人のフェリペ・マッサは、皮肉にも移籍初年度に地元優勝を達成した。
- F1ドライバーの中でも雨のレースを得意とする一人である。1993年ヨーロッパGPでの快走、1994年ベルギーGPでの初ポールポジション、2000年ドイツGPでの初優勝(雨中ドライタイヤで走る賭けが成功)など、印象的な活躍場面に雨が絡んでいる。
- 妻のシルヴァーナ(Silvana)はブラジルにおいてレース一族として知られるジアフォーネ家の出身で、インディ・レーシング・リーグ(IRL)に参戦しているフェリペ・ジアフォーネの従妹にあたる。フェリペ・ジアフォーネはバリチェロにとっては仲の良いドライバーの一人で、年末にサンパウロで開催されているカートの500マイル耐久レースではバリチェロとジアフォーネほかのチームは5回の優勝を誇っている。
- 大抵のブラジル人ドライバーと仲が良いが、その中でも最大の親友といえるのはトニー・カナーンで、互いに兄弟のようなものと認めるほどに仲が良い。バリチェロがイギリスに滞在していた当時、ヨーロッパ修行中のカナーンを数週バリチェロの部屋に泊めたエピソードは二人の間でしばしば語られ、大抵の場合、バリチェロは「そういえばあの時、奴がいなくなった後に靴がなくなったな…」と同じ冗談を口にする。2006年にはモナコGPでバリチェロが自身のヘルメットをカナーンのそれと同じカラーリングにし、同日に開催されたインディ500ではカナーンが自身のヘルメットをバリチェロのそれと同じカラーリングにし、レースファンを驚かせた。
- カートで初優勝した時のカーナンバー、カーナンバー「11」がバリチェロのラッキーナンバーである。カートにおいてはこのカーナンバーとともに多くの優勝を記録した。2006年のホンダチームはカーナンバー11と12を付けることになり、本来エースナンバーであるカーナンバー11の権利はジェンソン・バトンにあったが、この番号がバリチェロにとってのラッキーナンバーであることを知ったバトンにより「友好の印」として贈られ、この年はバリチェロがカーナンバー11を付けた。F1においてはこの年のほか、1996年もカーナンバー11を付けて出走している。
一方、F1において最も多く付けたカーナンバーは5年を共にした「2」で、これはチームメイトのミハエル・シューマッハが5年連続でドライバーズチャンピオンのタイトルを獲得したことによる。これは結果として、バリチェロの「ナンバー2」としてのイメージを形成することに寄与したと言える。 - 祖父と父親の名前も「ルーベンス」である[2]。加えて、父親であるルーベンス・バリチェロJr.(ルーベンス・バリチェロ・ジュニオル)にいたっては誕生日も息子と同じ5月23日である[3]。バリチェロの愛称である「ルビーニョ」(Rubinho)は「小ルーベンス(小さいルーベンス)」という意味で、元々は祖父ルーベンス、父親ルーベンス・ジュニオルとの呼び分けから来ている。
- バリチェロ自身は、2001年に生まれた長男に、「ルーベンス」ではなく、エドゥアルド(Eduardo)、2005年に生まれた次男にはフェルナンド(Fernando)と付けている。妻のシルヴァーナは日系ブラジル人3世でもあるため、バリチェロの2人の子息は日系4世にあたる。
- 応援しているサッカークラブはコリンチャンスである。[2]
- 2000年ドイツGP、2003年イギリスGPでは、不審者がコース上に侵入してセーフティーカーが導入されるという珍事があったが、バリチェロはこの両レースを制している。
- 現役の中で唯一右足ブレーキという、少数派のドライビングスタイルに固執している。フェラーリ時代、ミハエル・シューマッハは左足ブレーキ派であったので、ペダルの形状は違うものが用意されていた。ちなみに、現在は時々左足ブレーキに挑戦している。
[編集] 出典
- ^ バリチェロの前の記録保持者は、新人時代のチームメイト・ブーツェン(95戦目)であった。
- ^ a b http://www.teleresponde.com.br/rubens.htm インタビュー:ルーベンス・バリチェロ(本記事「ルーベンス・バリチェロ」の祖父)
- ^ http://www.barrichello.com.br/historia.php?l=2 My story: ルーベンス・バリチェロ公式サイトより
[編集] 外部リンク
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チーム関係者 | 福井威夫 | ヨルグ・ザンダー | ロイック・ビゴワ | |
元チーム関係者 | 中村良夫 | 久米是志 | 川本信彦 | 入交昭一郎 | 桜井淑敏 | 後藤治 | ジル・ド・フェラン | ハーベイ・ポスルスウェイト | 和田康裕 | |
現在のドライバー | ジェンソン・バトン | ルーベンス・バリチェロ | アレクサンダー・ヴルツ| マイク・コンウェイ | |
過去のドライバー | ロニー・バックナム | リッチー・ギンサー | ジョン・サーティース | クリスチャン・クリエン | |
F1マシン | RA271 | RA272 | RA273 | RA300 | RA301 | RA302 | RC100 | RA099 | RA106 | RA107 | RA108 | |
チーム関連会社 | 本田技研工業 | M-TEC | ホンダ・レーシング・ディベロップメント | 鈴鹿サーキット | |
現在のスポンサー | セレラント・コンサルティング | セイコー | 新日本石油 | ブリヂストン |
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