中村良夫 (自動車)
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中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1の監督。山口県下関市入江町出身。
[編集] 生涯
山口中学校、山口高等学校を経て、1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科入学、1942年9月繰り上け卒業。同年中島飛行機に入社した、航空エンジン開発部門のエンジニアを務め、同時に陸軍短期現役士官として陸軍航空技術研究所に属した。敗戦後オート三輪メーカーのくろがね(後の東急くろがね工業)に転職。その後くろがねが経営危機に陥ったため、1958年3月にホンダに入社した。
当時オートバイ専業メーカーだったホンダには自動車(四輪)のことがわかるエンジニアがほとんどいなかったため、入社後まもなく本田技術研究所の四輪開発部隊の責任者を任される。中村はS500やT360といった市販車の開発の指揮を執る一方でF1チームの監督となり、1964年よりスタートしたホンダのF1参戦の責任者となる。
1965年は、シーズン当初こそ本田宗一郎の命令によりF1チームの監督から外れ市販車の開発に専念することになるが、最終戦・メキシコグランプリを前にF1チームの監督に復帰。海抜2000mを越える高地で開催される同グランプリでは、かつて航空機エンジンを開発した中村の知識と経験が大きく生き、リッチー・ギンサーがホンダのF1における初勝利を飾った。この時中村は東京の本社へ、ユリウス・カエサルに倣った「Veni, vidi, vici」(来た、見た、勝った)の電文を送っている。
1966年は再びF1チームの監督から外れたが、翌1967年には三度F1チームの監督に復帰。この頃ホンダは新車の販売不振に伴いモータースポーツ活動を縮小する方向に向かっており、二輪のロードレース世界選手権、四輪のF2などから撤退していたが、中村はこの年からホンダF1のドライバーとなったジョン・サーティースらの協力を得て、イギリスで独自にガレージを構えてF1参戦を継続する道を選択。そのためシャシーをイギリスのレーシングカーコンストラクターであるローラと共同開発するなど体制を一新した。その甲斐あってか、同年のイタリアグランプリでは、ローラと共同開発したホンダRA300に乗るサーティースが、ホンダF1としての通算2勝目を挙げる。
このため1968年シーズンは好成績が期待されたが、実際には本田宗一郎が空冷エンジンを搭載したマシンによるF1参戦をぶち上げたことのあおりを受けるなどの問題が重なり、結果は不振に終わる。またローラとの提携後もF1用のエンジンだけは日本の研究所で開発を行ってきたが、ホンダの小型四輪車として最初のヒット作となるシビックの開発へリソースを振り向ける為、同年限りで中村はF1からの撤退を決断した。
その後はホンダの欧州駐在員、同社常務を経て、1977年、特別顧問に退く。第一線を退いた後、F1などのモータースポーツに関する批評活動も展開し、数多くの著書を残した。
[編集] 参考文献
- 『中村良夫自伝』(三樹書房、1996年) ISBN 4-89522-199-7
- 前間孝則『マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ』上、下(講談社文庫、1996年)